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第39話 チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第一番

〜花音view〜


 夏休みも終わりのカウントダウンが迫ってきた頃、私は電車で神奈川県の川崎まで一人でやって来た。

 駅からすぐに立派なコンサートホールがあり、今私はホール内で演奏の開始を待っている。今日はここでオーケストラコンサートを観に来たのだ。

 舞台には誰もいないが椅子や譜面台が並べられ、チューバ等の大きな楽器は既に舞台上に控えている。私はこの待つだけの時間も結構好きだ。


 やがて開演時間になり、会場の座席も舞台上の椅子も人で埋まった。

 オーボエの第一声で全楽器の音合わせが始まる。形式的なものだが、その音の無秩序な共演と、これから始まる演奏への期待が私を昂揚させる。

 指揮者が入場し、ホールが拍手に包まれる。その拍手が止むと同時に指揮者がタクトを構え、ホールは無音になる。


 直後、フォルティシモで鳴り響く金管楽器の咆哮がヴィンヤード式の広大なホールを切り裂き、演奏が始まった。


 『ピアノ協奏曲第一番』


 チャイコフスキー作曲のピアノ協奏曲だ。非常に有名な第一楽章の序奏は私も大好きだ。

 舞台正面に堂々と配置されたフルコンサートのスタインウェイ( グランドピアノ )が奏でる雄大な戦慄(わなな)きは、破壊的な管弦楽の快音にも負けないほど強く主張し、まるで舞台が闘技場になったかのようだ。

 私は楽団の闘技を食い入るように見つめ続けた。



 **



 その後もプログラム通りの曲が続き、最後にアンコールが添えられてコンサートは終幕した。

 いいコンサートだった。満足して駅へ向かってペデストリアンデッキを歩いているときだった。


「久しぶりね、飯山さん」


 振り返ると、フォーマルな服装をした中年の女性が私に視線を向けていた。ああ、久しぶりにお会いましたね。


「ご無沙汰しております美濃(みの)先生。先生も今日の公演を見に来られたのですか?」


「ええ、今日の指揮者の公演はぜひ聴きたいと思っていたのでね。聴けて良かったわ」


 美濃(みの)友利(ともり)さん。私が通っていたヴァイオリン教室の先生だ。

 正直……あまり会いたくない相手だった。


「同じコンサートに来るだなんて奇遇でしたね。先生、よく私に気がつきましたね?」


「退場するときに貴女(あなた)の姿を見つけてね。少し話がしたくて追いかけたのよ」


「そうですか」


「貴女がまだヴァイオリンを続けていることは風の噂で聞いたわ。毎日のように荒川で練習していると」


「よくご存知ですね」


「野外のヴァイオリニストは噂になりやすいのよ。貴女のような腕前を持つ奏者なら余計にね。ツィゴイネルワイゼンを弾ききったそうじゃない。私の教室にいた頃でももう少しで人前で演奏できるってレベルだったから、驚くことはないけれど」


「…………」


 正確な噂が流れているようで、ちょっと怖くなった。


「でも河原だなんて、わざわざそんなところで? 音楽系の部活には入っていないのかしら」


「私、今は帰宅部ですので」


「そう。河原で練習するくらいなら、また教室に戻るのはどう? 雨の日は練習できないでしょう」


「いえ、私は今の環境でも充分です」


 嘘をついた。本当はサイレントヴァイオリンでもあればいいのにと思っている。


「そう。それについては私も無理強いしないわ。レッスンの押し売りみたいになってしまうし。でも貴女はそれだけ練習してどうしたいの?」


「どう、とは?」


「ずっと独り弾き続けるだけで終わるつもりなの?」


「そうだと言ったら?」


「そうだとすれば、それは損失よ」


「損失? 何を失っているのでしょうか」


「貴女の音楽の価値よ」


「よくわかりません」


「音楽は誰かに聴いてもらってこそ価値が生まれるわ。権威ある舞台で、多くの聴衆が耳を傾ける音楽こそが価値あるものになる。今日の素晴らしいコンサートのように」


「…………」


 辺りが薄暗くなり、ペデストリアンデッキの天井がノイズをまき散らす。夕立が降り始めたようだ。


「私が貴女のレッスンを受け持っていたとき、貴女はコンクールへ一度出て以降頑なに出場を拒んだ。貴女の若さと技量を考慮すると、それはとてももったいないことだわ。コンクールで評価を得て、より多くの人々に貴女の奏でるヴァイオリンを届けるべきよ。今からでも遅くないわ。学生音楽コンクールに出てみない?」


「いいえ、そのつもりはありません」


「なぜ?」


「以前にも言いました。私は私の音楽の評価を他人に委ねるつもりはありませんと」


「審査員のジャッジが気に入らないの? 今の学生音コンの審査員は優秀よ。評価は公正なものだわ」


「それは存じています。ですが彼らは人間です」


「なら機械判定がお望み?」


「いえ、機械判定だなんてもっと下らないです」


 雨音が強くなった。ざあざあと天井を叩く水の音が、私の心と同調する。


「自己満足に溺れるのは結構だけれど、それでは一人相撲よ」


「私、関取になった覚えはありません」


「では自分の箱庭に閉じこもっているのね」


「…………」


 箱庭か。そうと言われたら、確かにその通りかもしれない。


「今日のコンサートは素晴らしかった。指揮者はもちろん、楽団も一流だった。彼ら彼女らは皆才能を自覚し、登竜門となる数々のコンクールを経てあの舞台に登ってきたプロよ。これは皆が通る道なの」


 そんなことは百も承知だ。あの奏者らは私よりも幼い頃から私以上に練習を積んできた英才がたくさんいる。


「貴女の若さとセンス、そしてその成長速度があれば、いずれは今日のような舞台や、あるいはより大きな楽団のコンミスも夢ではないわ。貴女はピアノの経験もあるのだから、指揮者を目指したっていい。その音楽センスは将来多くの人々の宝になるわ」


「私にとって音楽は箱庭で嗜む趣味です。そんな殊勝な人間ではありません」


「でも高みを目指している。でなければあんなにも練習なんてしないでしょう」


 核心を突いてくる。さすがはベテランの指導者だ。そういうことは見透かされている。


「高みを目指すなら目標も必要だし、聴衆も必要よ。誰かに音楽を届けるという気持ちが大切なの。箱庭で一人遊びしているだけでは限界が来る。貴女はコンクールを目指すべき」


「でもコンクールでは聴衆も審査員も選べない」


「当たり前の事よ。それはコンクールに限らず商業だって何だって同じよ」


「私の音楽は私の知らない人には渡さない」


 顔も知らない誰かに私の音楽なんて、くれてやるもんか。


「そんな子供みたいな理由で貴女は自分の可能性を潰してしまうの?」


「っ……!」


「聴衆のいない音楽に価値は無い。贈る相手のいない音楽に意味は無い。大人になりなさい」


「…………」


 大人になれだなんて、そんな残酷なことが大人になることなら、私は子供のままでいたい。子供のまま、私の音楽を護っていたい。

 でも、それでいいのかな。贈り先の無い音楽は無価値だって、本当は私も気づいてる。聴く者がいなければ、音楽は空気に溶けて消えていくだけ。ずっと悩んできて、結論を先延ばしにし続けていたことだ。

 音楽家として間違ってる。言われてみればその通りだ。でも、私の中では正しいことをしているとも思っている。悔しいことに、私はそれを言葉にして説明できない。

 矛盾を抱えたまま、私は河川敷で独りの箱庭を作っていたのか。


 私は間違っていたの?

 私はどうして正しいと思っていたの?

 ねえ、誰か教えてよ。

 誰か……

 ……



「俺がいるだろ!」


 その声は、私の暗い心と雨音をまとめて全部吹き飛ばした。


「先輩……」


 自転車に乗っていたのだろうか、彼はサイクルウエアを着ていて、髪は雨で湿っていた。


「俺が君の音楽を貰う。君の音楽に価値を与える。コンクールに出る必要なんて無い」


「あ……」


 そうだ。私の箱庭はひとりだけじゃなかったんだ。


「誰ですか、貴方は?」


 先生が先輩に問う。


「花音さんの学友です」


「学友ね……。それで、貴方は何か音楽をしているの?」


「いいえ、俺は聞き専です」


「先ほど貴方は自分が聴くことで価値を与えると言ったけれど、素人が聴いたところで彼女の音楽にどのような価値が生まれるというの? コンクールの受賞歴以上の誉れを与えられると? 音楽家ではない貴方には彼女の音楽を高めることなんてできない」


「そんなことはありません。確かに俺は音楽なんて素人で、音の善し悪しなんて評価できる立場にない。でも、俺は"彼女の音楽"の善し悪しなら解るんです」


「言っていることが滅茶苦茶よ。話にならないわ」


「俺、こう見えて絵画を嗜んでいるんですよ。貴女は絵画の心得をお持ちですか?」


「ないわ」


「貴女が花音さんを理解できないのはそういうことですよ」


「意味がわからない。貴方は何が言いたいのかしら」


「花音さんは音楽家である一方で、その本質は芸術家(アーティスト)です。生粋の音楽家であり芸術家でない貴女には、彼女と心を交わすことはできない」


 そうか。

 私は、芸術家だったんだ。

 長年探し求めていた回答がようやく見つかった。


「芸術家に音楽家の常識を当てはめるべきではありません。同じ芸術家の俺だけが彼女の音楽(アート)に価値を与え続けて高みに昇らせてみせます。彼女の音楽は自由であるべきだ」


「……わからないわ」


「芸術家が理解されないなんて、何百年も前からずっとそうですよ」


「…………」


 先生は話にならないとばかりに、深いため息をついた。

 私は先生の前へ一歩踏み出す。


「先生」


「……何かしら」


「私、コンクールには出ません。コンクールは芸術家(アーティスト)の舞台ではありませんので」


「……好きにしなさい。引き留めて悪かったわね」


 先生は疲れた様子で駅の方へ去って行った。

 失望させてしまったかもしれない。

 でも、罪悪感は無かった。


「先輩、ありがとうございます」


「大丈夫だった? 彼女は君の昔の先生だったの?」


「はい。ヴァイオリン教室で三年半お世話になりました。ヴァイオリンは独学で始めるのが難しい楽器だから、恩を仇で返しちゃったかも……」


「コンクール、全然出てなかったんだな」


「そうですね。なんてったって、私は芸術家ですから」


「…………ごめん」


「なんで謝るんですか?」


「出過ぎた真似をした。勝手に決めつけて、音楽家としての君を侮辱したかもしれない」


 そんなこと気にしなくていいのに。


「先輩、私嬉しかったんですよ。尊敬する芸術家から、同じ芸術家だって言ってもらえて」


「……そっか」


「私、これからずっと、いっぱいの音楽を先輩に贈ります。私の音楽は先輩のものです」


 大切なことを教えてくれた貴方にだけ、心を込めて贈りましょう。


「だから先輩も私の音楽に価値をください。私の音楽(アート)を本物にしてください」


「ああ、約束する。俺が君の音楽を育むよ」


 ありがとうと言って、先輩は微笑む。

 私の心臓が、ちょっとどうかしてしまいそうだった。


「ところで先輩、どうしてここに?」


「ん。ちょっと三浦半島を一周してきた帰りだったんだけど、そこまで来たところでゲリラ豪雨に襲われてさ、電車で帰ろうとしたんだ。そしたらグーグルマップ見たら君が近くにいるなと思って来てみたんだよ」


「自転車、電車に持ち込めるんですね」


「ああ。輪行(りんこう)って言って、ホイールを外してひとまとめにして専用の袋に入れればオーケーなんだ」


 傍らにある大きい袋は自転車だったようだ。


「先輩の髪、濡れてます。風邪ひいちゃいますよ」


 タオルを取り出して、手を伸ばして先輩の髪を拭いてあげる。


「こんなときでもシオンのタオル持ってくれてるんだ。嬉しいな」


 至近距離に先輩の笑顔が映る。

 私はもう恥ずかしくて、中途半端なところで髪を拭うのをやめてしまった。


「帰ろうか」


「……はい」


 カチカチと足音を鳴らす専用シューズのせいで歩きづらそうにする先輩に、私の方が歩調を合わせて駅へと向かう。


「……先輩」


「うん?」


「ありがとうございます」


「ん」


 何に感謝されたのかわかっていない様子だったけど、聞き返されることはなかった。

 聞き返されたら困ってしまうところだったので、私は安堵した。

 それから私たちは電車に乗って帰途に就いた。


 地元近くで地下鉄が地上に出た頃には、夏空は晴れ渡っていた。

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