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第38話 カリス

~大河view~


「あ、先輩こんにちは」


「よ。邪魔してもいい?」


「構いませんよ」


 昨日は試走で疲れたので今日は休息日(レスト)にするつもりだった俺は、今日も相変わらず河川敷にいた花音さんのもとへアポ無しで押しかけていた。自転車でいつもの場所に到着すると、遠くからでもわかる花音さんのヴァイオリンの音が辺りを包んでいた。


「暑いのに精がでるね」


「あはは……今日も嫌になるほど暑いですよね」


 連日真夏日だ。自転車に乗るのだってドリンク代が馬鹿にならない程の暑さなのだから、炎天下での演奏練習もそれなりの負担であろう。


「水とかちゃんと飲んでる?」


「ええ、それは大丈夫です」


 とは言え、首筋には汗が流れているし、不快そうな仕草は隠し切れていない。

 熱中症になったら大変だし、ひとつ提案してみることにした。


「……うちで練習する? あの部屋冷房効くよ」


「えっ、いいんですか?」


「もちろん」


「行きます」


 そんなわけで、俺たちは家へ向かった。



 **



 敷地内に原付を停めた花音さんを招き入れ、防音室の空調を稼働させる。


「はぁ~。生き返ります~」


 やっぱり連れて来て正解だったみたいだ。


「麦茶持ってきたよ」


「わー! ありがとうございます!」


「他には誰もいないし、この部屋は好きに使っていいから。長時間使ってもいいよ」


「皆さんは旅行中でしたね。九音がお世話になってます」


 俺は試走を優先して行かないことにしたが、今年の避暑には珍しくゲストとして九音さんが混ざっていた。泉美が誘ったのかと思いきや、大洋が呼んだと聞いて驚いたもんだ。


「まあ今夜には帰ってくるから。渋滞に巻き込まれないといいけど」


「あはは。それだと夜まで先輩と二人きりになっちゃいますね」


「二人きりか」


「二人きり……」


「…………………」


「…………………」


 花音さんの顔が少し赤くなっていく。

 あれ、もしかしてこれ、誰もいない家に年下の女の子を連れ込んじゃった感じになってるやつ? 不健全なのでは? いや、やましい事なんて無い。俺は場所を貸してるだけ。彼女は楽器の練習をするだけ。そうだ何も問題ないではないか。どっしり構えていればいい。……つーかなんかいい匂いするな。制汗剤か? なんかこの部屋暑くない? 冷房効いてる?


「せ、先輩は……今日はお暇なんですか?」


 声をかけられてはっと我に返った。


「あ、ああ。昨日は結構走ったから、今日は休もうと思ってて……。暇だし、花音さんのヴァイオリンが聴けたらいいなーと思ってたとこなんだよね」


「そうですか! お疲れみたいですし、好きなだけ聴いていってくださいね!」


 いそいそと練習の準備を始める花音さんを、俺はじばし直視できなかった。



 **



 夜までというのはさすがに冗談だったようで、花音さんは夕暮れを待たずして練習を切り上げた。


「それ、さっそく使ってくれてるんだ」


「はい。そのために二枚手に入れたんですから。これのおかげでお手入れが楽しくなりますね。ありがとうございます」


 彼女は俺が夏コミでプレゼントしたマイクロファイバータオルを使って、楽器の手入れをしている。作ったものを使ってもらっているところを見せてもらえるのは、実に作り手冥利に尽きる。ストレートに嬉しい。こちらが感謝したいぐらいだ。


「新刊も読ませていただきました! 最高のシオンちゃんでした! さすがドナ先生です!」


「良かった……気に入ってもらえるかちょっと不安だった……」


 最高のシオンを描くだなんて大見得を切っておいて、その相手に響かなかったらどうしようかと思っていた。


「大丈夫ですよ。お世辞じゃないです。あの新刊は紛れもなく最高のシオンちゃんでした。あのおさげのシオンちゃんとか、ツーリングの思い出が蘇ってきてたまらなかったです」


「モデルのおかげだね」


「そ、そのセリフは恥ずかしいからやめてください!」


「本心で言ってるんだけど……」


 彼女は可愛い系だけど美人だ。写真を見ながら描いているとそれがよくわかる。髪はよく手入れされていて陽の光で輝き、目鼻立ちも整っており、身体の輪郭は完璧に左右対称だ。当たり前のようでなかなか持ち得ない基礎の美を持っている素晴らしい逸材だ。髪なんて塗り方をちょっと変えたほどだ。


「私がモデルをしてない構図のもありましたね」


「ああ、あれはちょっとズルしたというか、あまり時間が無かったから、未公開だった完成済みのイラストもいくつか使ったんだよ」


「未公開イラストがあったんですか」


「俺の場合、未公開のデジタル絵はいっぱいストックあるぞ。見るか?」


「見たいです!」


 食い気味に言われた。


「じゃあパソコン置いてる部屋行くか」


 防音室から自室に移動し、パソコンを起動してピクシブにアクセスする。


「このアカウントは非公開設定のイラストも結構放り投げてるんだよ」


「えっ。こんなにいっぱいあるんですね」


 このアカウントで公開しているシオンのイラストは夏コミ直前に公開した一枚を含めて六枚程度だが、水面下では十四枚が完成状態で眠っている。花音さんは一枚一枚をまじまじと見ている。


「どれもすごく良いです」


「そうかな」


「でもわかりませんね」


「何が?」


「公開してるイラスト、この中では中の下くらいですよね」


「…………」


 驚きで言葉が出なかった。なぜならそれは俺もそう思っていたからだ。

 ツーリングの帰り道での会話で、彼女は普通の人とは違う見方をしているとは感じてはいたが、まさかこれほど聡いとは思いもよらなかった。

 同時に気になった。公開絵を中の下と評した彼女は一体どこまで()()()()()のだろうか。


「俺が同人誌に流用したこの絵はどう思う?」


「たぶんですけど、この中で一番の自信作ではないでしょうか」


「驚いた……」


 正解だ。まさかこれを当てられるとは思わなかった。


「でもなんで中途半端な作品だけ公開して、自信作が塩漬けにされてるんですか?」


「さっき君はこの絵が一番だと言ったけど、これを今夜公開したらブックマーク数はどれくらいになると思う?」


「え? んーと……公開されている中で一番ブックマーク数が多いのが五十ですから、五百ぐらい行くんじゃないでしょうか」


 さすがに()()までは見えないか。


「それは違うな。これを公開しても五十には届かないよ」


「どうしてそう言えるんですか?」


「俺にはわかるんだよ。経験知(けいけんち)ってやつ」


「信じられない……」


 このアカウントはわざと目立たないようにしていて外乱を排除している。ほぼまっさらな状態で、どんな絵をどんなタイミングでどう公開するとどれぐらいブックマークされるのか、わずかな誤差で当てられるようになった。自分の絵限定ではあるけど。

 俺が作品を公開するのは、その予測の答え合わせだ。作品の自己評価と他己評価の乖離を予測し、公開時点の市井(しせい)でもその予測に狂いが無いか、定期的に確かめるためのリトマス試験紙にしているだけだ。我ながら実に根暗な遊びだと思う。


「信じられないのは俺の方だ。どうしてあれが一番の自信作だってわかった? 確かにあれは一枚のイラストとしての完成度は高くできたと思うけど、サムネイルだけじゃ見向きもされない。この全部のイラストを同じ条件で公開すればブックマーク数は下から数えたほうが早いものになるであろう作だ。どうしてわかった?」


「どうしてでしょうね。わかるんですよ。私には"本当に美しいもの"が」


「…………」


 ありえない。"美"に絶対は無い。人の数だけ美の価値観は存在し、時代の数だけ変容を繰り返している曖昧にして不可思議な官能評価だ。

 しかし、彼女の持つ"絶対の美"が下すジャッジと、俺が俺の絵に対して思っている評価は一致している。俺とて絵の美しさを正しく量れるのは自分で描いたものだけだ。彼女の感性は異質だ。異常だ。驚異の才能だ。


(死んだ神が蘇ったか……)


 もっと早く会いたかったよ。現世の美の女神(カリス)


「君は本当に凄いな」


「そんな褒められるようなものではありませんよ」


 謙遜のように聞こえない。そんなに凄い目をしているのに、どうしてそんなに寂しそうに言うのだろう。


「ところで先輩、このウェブページの広告にブラジャーが表示されてるんですけど」


「げ」


 あろうことか、俺たちの目の前に展開されているウェブ広告にパステルカラーが眩しい女性用下着が代わる代わる表示されている。それらは非常に心当たりのあるもので……。


「先輩、もしかしてブラジャーを調べてブラウザにターゲティングされてません?」


「…………」


 図星すぎて何も言えない。その指摘通り、俺は数日前に通販サイトを巡回してブラジャーを検索していた。その結果、こうしてウェブ広告に女性用下着が出現するようになってしまっている。

 いや、ここで黙り込むのはまずい。やましい理由ではないのだから堂々と釈明しよう。


「実はそうなんだよ。この前レディース服の作画資料を探してたら、それからずっとこの通販サイトの広告が出るようになってさ。参っちゃうよね」


「レディース服の作画資料ですか」


「そうそうレディース服の作画資料」


「それにしてはティーンズのブラばかりおすすめされてきますね」


「…………」


 ジト目で見られる。なんか冷や汗出てきた。この部屋寒くない?


「先輩、どんな絵を描くつもりなんですか」


「待って、誤解だ。俺が描いてるのは健全なブラジャーだ」


「日本語おかしくありません?」


「……百聞は一見にしかずだ。ちょっと待ってくれ」


 俺は急いでファイルから一枚の画用紙を取り出す。


「まだ描きかけだけど」


「これは……」


 これは制作途中の色鉛筆画だ。水面に浮かぶ少女を描いている。


「綺麗ですね……」


「だろう?」


「綺麗な透けブラって一周回ってエッチですね……」


「エッチじゃない。ただのフェチズムだよ」


「違いがわかりません」


 わかっておくれよレディー。


「でもまあ、健全なブラジャーの意味は少し理解しました」


「わかってくれてなによりだよ」


「私てっきり先輩が……」


「?」


「男の人ってエッチな目的でこういうサイトを見に来るって聞きますし……」


「……そういう奴もいるらしいけど安心してほしい。俺は娘の下着を選ぶ母親のような気持ちでサイトを見ている」


「安心できるんですか、それ」


 作画資料としてブラと向き合っているときの俺は賢者タイムを超越した聖母だ。いやらしい気分になどならない。

 ……たまに邪念が湧いてしまうときはあるが、しかし普通の通販サイトで()()()になるほど落ちぶれてはいない。いないったら。


「まあ、もういいです。先輩も男の子ですもんね」


「わかってもらえたってことになるのかなこれ……」


「作画資料とか言って泉美のブラは使わないでくださいよ」


「使わないよ。あいつのじゃ大きすぎる」


「……………………」


 ……ジト目の視線の温度が更に下がった。

 もしかして最大級の失言だったかもしれない。


 でもだってシオンと泉美とじゃサイズが全然違うし、サイズが違うと構造もデザインの方向性も変わってくるんだよなブラジャーって。シオンぐらいのサイズのブラとお目にかかれる機会なんて……。


 つい、俺の視線が目の前の少女に向いてしまった。

 花音さんはそれに気づいて、胸元を腕で庇うようにした。


「先輩でも見せませんから……」


「誓ってそんなことは言いません……」


「……先輩のえっち」


 その後、花音さんのご機嫌を取るのに悪戦苦闘していたら日が暮れていた。


【筆者注】

ターゲティングされて半年ぐらいランジェリーを広告サジェストされた日々はあるんじゃないでしょうかお絵描き紳士諸君…

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