第35話 九才溝のほとりで
〜大洋view〜
目的のグッズや同人誌を回収し終え、俺はサークル『九才溝』へ向かっていた。
九音君の新刊は、一時間ほど前に〈イクス〉のツイッターで完売のアナウンスが出ている。
一応気を使って、お邪魔してもいいかメッセージを送ってみたら、すぐに大丈夫だと回答が届いた。
目的の場所に到着すると、机の上に「完売しました」のポップが立てられた『九才溝』のサークルスペースと、その後ろで段ボールを畳んでいる九音君がいた。片付けはほとんど終わりかけのようだ。
「九……イクス君」
「あ、大洋さん。こんにちは」
危うく本名で呼びそうになってしまった。気をつけないと。ここでの九音君は神絵師だ。
「完売おめでとう。これ、差し入れ」
保冷バッグから冷えたゼリー飲料のパウチを取り出して渡す。
「わあ! ありがとうございます! ちょうど喉が渇いてて」
受け取ったパウチをすぐに開栓して一気に飲んでいる。役に立ったなら良かった。
「ごちそうさまでした。あっ! これお約束の新刊です。パソコンとかいろいろ、本当にありがとうございました」
「どういたしまして。完売してるのに取っておいてくれててありがとう」
「本は、まあ少部数は残しているので……」
「あとさ、これは大河から」
俺は大河の新刊を差し出す。
「え? 先輩の新刊ですか? 別に花音が貰ってるからいらないですよ」
「挨拶なんだとよ。黙って受け取ってやってくれ。自信作だって言ってたし」
「それ、本当にあの先輩ですか?」
やはりあの二人は仲がよくないのか、大河の行動を訝しんでいる。九音君がそう思うのも無理はない。挨拶ぐらい自分で行けばいいのに、俺に頼むところはちょっとズルいと思う。
「信条は違うのかもしれないけど、同じクリエイターとしてはあいつなりに認めてるんだろ。君はどうなんだ?」
九音君は黙り込んで、背後の小さな段ボールから何かを取り出した。
「これ、先輩に投げつけてやってください」
それは彼女の新刊だった。
「ああ、任せてくれ」
「私の本だって先輩以上の自信作です」
やっぱりこの子もあいつと同じクリエイターなんだよな。
「花音君はいないの?」
「花音なら、完売の後にトレジャーしてくると言ってどこかへ行きました。ずっとレジしてもらってたし、行きたいとこがあったなら悪いことしたかも……」
「そっか」
二冊に増えた同人誌をバッグにしまっていると、人の気配を感じた。
こちらにややお年を召した女性が近づいてきている。
このサークルはもう完売しているのに、明らかにここを目指している。そして、彼女はこちらを見て笑みを浮かべた。
「うそ……」
九音君が驚きで固まっている。
やって来た彼女はとうとうこちらに着いて歩みを止めた。質素ながらも上品な佇まいだ。歳は六十の半ばだろうか。
「久しぶりね」
「お、お久しぶりです先生! どうしてこんなところに!? お体は大丈夫なんですか?」
「薬を飲んでいれば、日常生活に支障はないわよ。九音ちゃんの活躍が見たくなってねぇ。前から来てみたかったの」
「先生……申し上げづらいんですけど私、ここでは〈イクス〉って名前で……」
「あら、ごめんなさい。そういえばあなたの雅号は〈イクス〉というのでしたね。イクスちゃん、また会えて嬉しいわ」
「私もまた会えて嬉しいです! 私、先生に〈イクス〉のこと言いましたっけ?」
「お母様から年賀状で伺っていましたよ。すごい評判なんだって。こんな大きいイベントで列ができるんでしょう。驚いたわ」
「先生、よくここまで来られましたね。迷いませんでしたか?」
「頑張っていろいろ調べたの。甥にも相談してねぇ。甥からは午後の落ち着いた頃に行ったほうがいいよって言われたりね」
「ああ、それは……的確なアドバイスですね」
九音君は親しげに、そして先生と呼ばれた女性はおだやかに受け答えしている。
「あ、ごめんなさい大洋さん。私たちだけで話し込んじゃって。こちら、私が小学生時代に通っていた絵画教室の先生で、豊橋幸子先生です」
豊橋先生はゆったりとした動作で俺に向かって会釈している。
「はじめまして。俺は秋谷大洋と申します。イクス君とは……えーと、知り合い? ……俺の兄妹がイクス君と同じ学校に通っていて、それつながりで……」
「大洋さんは私のパソコンを直してくれたんです。頼りになる方なんですよ、先生」
「それはそれは。イクスちゃんがお世話になりました。ありがとうねぇ」
「いえいえ、そんな大したことしてませんよ」
「昔からイクスちゃんはうまくいかないと落ち込んじゃう子なの。あなたが助けてあげてくれるなら私も安心できるわ」
「ちょっ!? 先生何言ってるんですか!?」
「あら。秘密だった?」
「そうじゃなくて! 今はそんなんじゃありませんから!」
「うふふ」
「もうっ! ……先生、これ私の新刊です。受け取ってください」
「これがイクスちゃんの描いた本? ますます素敵な絵を描くようになったわねぇ。絵、ずっと続けていてくれて嬉しいわ」
「私が絵を辞めるはずないじゃないですか。お絵描きの楽しさを教えてくれたのは先生ですよ」
「イクスちゃん、貴女は本当にいい子ねぇ……」
豊橋先生は目を細めた。
九音君は尊敬する人が相手だとこんなにも素直なのか。大河から聞いていた様子とはずいぶん違う。まあ大河が九音君からよく思われていないのは、大河の自業自得なところがあるのだろうが。
「じゃあイクスちゃん、私はそろそろお暇するわ」
「あ、もう帰っちゃうのですか。もう少ししたら私も帰るのですが」
「イクスちゃんはそちらの殿方と帰るんじゃないの? それなら私がいたら無粋よねぇ」
「そんな約束してませんし! そもそもそういう関係じゃ……」
「またね、九音ちゃん。これからも頑張ってね」
否定する九音君の言葉を意に介さず、豊橋先生は優しい微笑みを残して踵を返した。
「あっもう先生! ……先生もお身体気をつけてくださいね!」
「……帰っちゃったな」
「まったくもう、先生は……」
文句を言いつつも、九音君は嬉しそうだった。やっぱり恩師との再会は嬉しいサプライズだったようだ。
「せっかくだから、一緒に帰ろうか」
「え?」
「帰る方向同じなんだから途中まで荷物持つし、明日の話もしておきたいし。ついでに飯でも食ってさ」
「明日……」
明日は九音君との約束がある。せっかくだから今日ゆっくり面着で話ができればいい。
「明日、晴れ予報ですね」
「ああ、そうだな」
「明日、楽しみです」
あんまり期待されても困るんだけど、できれば楽しいものになればいいなと思って、俺は小さく首肯した。




