第32話 バッハ/G線上のアリア
~大洋view~
その吉報はツイッターで知った。〈イクス〉がめでたく脱稿したらしい。
良いことなのだから祝電でもと思い、メッセージを飛ばしてみることにした。メッセージアプリに入っている名前の中で家族以外の紅一点であるその名前をタップする。
『(大洋)脱稿お疲れ様。パソコンは問題なかった?』
メッセージを送ってしばらくしたが未読のままだ。
後輩の女子生徒にメッセージを送るのなんて、思えば初めてだ。というか同年代や後輩の女子との交流なんて中学を卒業して以来だ。高専は一応共学ではあるのだが、工学系の学校なので男女比は極端に男側に偏っている。一年のときは同じクラスに女学生は三名いたが特に交流はなかったし、二年に上がって学科が分かれてからはずっと女学生のいないクラスになった。学内の雰囲気は限りなく男子校のそれだ。
俺が送ったメッセージは果たして異性に送る文章として問題なかったか? 距離感大丈夫?
未読スルーすることだってできるからな……と悶々としていると、メッセージの通知が届いた。
『(九音)ありがとうございます。パソコンは今日も元気に動いてます。先輩のおかげです』
よかった。どうやら俺の心配は杞憂だったっぽい。
『(大洋)大したことしてないけど、まあ力になれたなら良かったよ』
『(九音)いいえ! 本当に助かったんです!』
『(大洋)新刊楽しみにしてるよ』
『(九音)私の新刊読んでくれるんですか!』
予想外の反応。まさかこんなことを言われるとは思わなかった。あれほどの神絵師でも一般人の俺程度のコメントで喜ぶものなのか。
『(大洋)むしろ喉から手が出るほど欲しいんだけど』
『(九音)新刊ならいくらでもお渡しします。コミケの後でお時間ありますか?』
『(大洋)コミケなら俺も行く予定だ。大河の手伝いで』
『(九音)でしたら私が届けに行きます』
『(大洋)いや、サークル主がサークル離れちゃだめだろ。俺は元々大河のファンネルだし、俺からそっちに行くよ』
『(九音)すみません、それだと助かります』
競争率の高い壁サークルのターゲットがひとつ減ってこちらも助かる。
『(大洋)じゃあ当日が近づいたらまた連絡するよ』
『(九音)はい。よろしくお願いします』
『(大洋)じゃあそういうことで。パソコン以外でも悩み事があったら気軽に相談してくれていいから』
『(九音)ありがとうございます』
コミケの楽しみが増えた。よそのサークルと挨拶するなんて初めてだ。それも大手サークル。
挨拶に行くのは早いうちに行ったほうがいいのか。もしかしたら朝の準備からずっと忙しくて、完売後のほうが都合がいいとかあるのかもしれない。まあその辺は後日聞けばいいか。
コミケのことをあれこれ考えていたら、再びメッセージが届いた。
『(九音)あの、パソコンじゃなくて悩み事というか、これ大洋さんに聞いていいものかわからないんですけど……』
『(大洋)うん。とりあえず聞かせて』
『(九音)私、絵の背景を描くときにできるだけ自分で撮った写真を使うようにしてるんです』
『(大洋)それはすごい』
素材になるフリー画像なんてネット上にいくらでもあるこの時代、個人の絵でわざわざロケハンを行う人なんてほとんどいないだろう。聞けば、フリー画像に頼ると他人の絵と雰囲気が被りがちになってしまったり、最近ではフリー画像の出所が実は著作権に保護されているものだったという事例も珍しくないため、利権問題やオリジナリティーのためにできるだけ自分で写真を撮るようにしているとか。あくまで遠征せずにすむ範囲限定でだそうだが。それでも充分すごい。
『(九音)原稿で塩漬けにしてたんですけど描きかけの絵があって、それの背景を星空にしたいんですけど……』
『(大洋)うん』
『(九音)でもいい星空の写真が全然撮れなくて。大洋さん、カメラとか写真とか詳しかったりしますか?』
星空写真。
手っ取り早くスマホカメラなどで撮ろうとするのはかなり難しい部類の題材だ。被写体として光の乏しい天体はスマホカメラレベルの感度では思うように映らない。そもそも遠征をしないらしい九音君では、夜でも明るすぎて星の少ない東京を出て光害の無い観測スポットまで出向くということもしていないのだろう。素人には無理な話だ。でも、幸いなことに俺にはその知識があった。
『(大洋)それなら力になれると思う』
『(九音)本当ですか! どうすればいい写真が撮れますか!?』
星空写真の撮り方……言うは易く行うは難し。
付け焼刃の方法を伝授してもいいが、そんなものではきっと彼女の理想には程遠いだろう。いいものを撮るならば、やはり機材もロケーションも突き詰めるべきか。であれば――
『(大洋)なあ九音君、提案なんだけど……』
~大河view~
「終わったっ……!」
長い戦いだったが、ついに脱稿を迎えた。
締め切りギリギリ。それもオフセット印刷ではなく少部数向けのオンデマンド印刷の締め切りギリギリだ。締め切り破りの割増料金極道入稿にならなかっただけ御の字である。
終盤は本当に余裕が無くて、毎週の楽しみのプリキュレも二話分観れてないし、ツールドフランスも後半からハイライトも観れてない。これでようやく見放題だ。自転車もあまり乗れてなくて筋力減が怖い。
解放感というより疲労感のほうが重く全身にのしかかる。自転車で六百キロ走るより同人誌一冊作るほうが遥かにキツい。もう何もしたくない。誰か俺を労ってほしい。
ぼすん、とベッドにうつ伏せダイブして脱力する。その体勢のままスマホをいじる。『脱稿しました』とツイートすると、少しずつだがいいねやリプライが付いた。普段自転車以外の話題にはあまり反応しないトミーさんも珍しくいいねをくれた。というか今業務時間中ですよね社長?
そのままぼーっとしながらリプライに返信したりタイムラインを追いかけていたりしていると、新しく届いたいいね通知の中に〈ハナネ〉さんのアカウントがあった。
花音さん、いまなにしてるんだろう。
気になってしまったものはしょうがない。ひとつ確認して、その五分後には自転車に乗っている俺がいた。
**
「あれ? 先輩、どうしてここに?」
荒川河川敷の定位置に花音さんはいた。
「なんとなくグーグルマップを見たら、ここにいるんだなって思って」
なんとなくではなく故意的だが。
「あはは、そうですか。先輩は脱稿したみたいですね。お疲れさまでした!」
「ありがとう。最高のシオンのために最善は尽くしたよ」
「わああ、楽しみです! コミケが待ちきれませんね」
「そう言ってもらえただけでもう充分な気がしてきた」
「この程度で満足しちゃダメですよ先輩」
「いまはこの程度でも満足したいなぁ」
「……先輩、疲れてます?」
気遣わしげに聞いてくる。
「正直疲れた。寝不足だし、眼精疲労もきつい」
「ちょっと休んで行ってください。脱稿祝いにプレゼントも差し上げますよ」
そう言って手に持つヴァイオリンを軽くボウイングしてみせる。
一曲披露してもらえるようだ。
「だったら、ちょっとわがままを言っていいかな」
「なんでもどうぞ」
「俺もバッハを聴きながら昼寝がしたい」
俺の答えに、花音さんは苦笑した。
「先輩、あのときの私をからかってるんですか?」
「そういうつもりはないんだけど」
「冗談です。いいですよ。私のヴァイオリンで先輩を夢の世界へご案内します」
「うん、よろしく頼む」
俺は遠慮なく芝生に横になる。その様子を一瞥した花音さんが弓を構える。
「それでは……」
花音さんは流れるような動作で演奏を始める。
『G線上のアリア』
元は管弦楽組曲第三番と呼ばれる組曲の中の一曲であり、それを後年ヴァイオリニストがヴァイオリン独奏とピアノのために編曲したものが、今日G線上のアリアと呼ばれる楽曲になっているそうだ。
荒川を吹き抜ける風と共に、彼女のヴァイオリンのG線が鳴らすメロディーが耳に運ばれてくる。
ああ、なるほど。確かにこれは昼寝にちょうどいいな……。
あたたかな日差し。
美しい音楽。
抜けきらない疲労感……。
そして――
「おやすみなさい先輩。お疲れ様でした……」
鈴の音のような声と共に、俺は眠りの国へ沈んだ。
【筆者注】
トミーさんは第2話以来の登場(名前だけ)です。彼がアトリエ吉野の社長です。
これにて第三章完。次はコミケ・夏休み編です。




