第28話 九音の過去 前編
〜九音回想〜
人生最初のターニングポイントはどこかと聞かれたら、私は小学一年の春だと答えるだろう。
両親は私達の進学に合わせて、花音をピアノ教室に、私を絵画教室に通わせることにした。
後年、どうして双子なのに別々の習い事をさせようと思ったのかと両親に聞いてみたら、単純に花音は音の鳴るオモチャでよく遊んでいて、私はいつもお絵描きをしていたからだと言っていた。
結果的に言えば両親の判断はなかなかの慧眼で、姉妹でそれぞれが才を発揮してみせたのだから当時の両親の英断には恐れ入る。
私の通うことになった絵画教室『トヨハシアートクラブ』はスパルタ教育とかそんなことはなく、お絵描きを楽しみましょうといった感じの和気あいあいとしたものだった。小学生向けのコースなので当然ではある。
プラ板とか銀細工とかプリントゴッコとか、いろんなものをやらせてもらえて楽しかった。芸術関係のものはなんでもやったけど、教室のメインは油彩画だった。
技法とかの知識なんてさっぱりの頃から、ちゃんとした絵の具を使って好きなように描かせてもらえた。
どんな指導を受けたのかはあんまり覚えてないけれど、とにかくたくさん描いて、少しずつちゃんと上手くなっていった。
私は絵を描くのが大好きだった。
画力は私の学校生活を助けた。
未熟児だったからなのか、遺伝なのか、私も花音も他の子より体が小さかった。背の順では私と花音とで先頭を埋めることも珍しくなかった。
必然、チビだとかなんとかいって馬鹿にされた。私も花音も気が弱く、言い返せずに泣いて帰る日が多かった。
そんな日々を私の絵が終わらせた。
図工の授業で私が描いた絵は、クラスメイト全員を仰天させた。先生からも大いに褒められて、花音は私を自慢した。
私は『クラスで一番絵が上手い人』の座に就き、その後の二度のクラス替えを経ても小学校卒業までずっと不動のものにすることになった。
花音も音楽の授業で、それは見事な鍵盤ハーモニカの演奏を披露した。あの光景は今も覚えている。
――ドドソソララソ ファファミミレレド
その日の授業は『きらきら星』を一人ずつ演奏するというものだった。ちょっと練習すれば誰でも弾ける簡単な曲だ。無難な演奏が続き皆が興味なさそうにする中、花音の番が回ってきていた。一度普通に演奏しきった花音は、そのままの勢いでさらに演奏を続けた。
モーツァルト『きらきら星変奏曲』
同じきらきら星でも、初心者にはとても演奏できない技量が求められる曲だ。それを花音はいとも簡単に弾いてみせている。当時のクラスメイトの目に彼女はどう映ったのだろうか。ざわめきに包まれる音楽室の中、その中心で楽しそうに指を踊らせる彼女は無敵だった。
これをもって私達姉妹に対するいじめは無くなった。子供社会において、特技は人権に等しかったのだ。
図工の授業で絵を描くことがあれば、友達はみんな真っ先に私の絵を見に来て人だかりができた。
遠足のしおりみたいな、クラスで一人が代表して絵を描くことになるとき、私をいじめていた子までもが私を推薦したときはたまらなく痛快だった。
もはや絵なくして私の学校生活は成り立たなかった。
**
小学五年生に上がると、私は“萌え絵”にも手を広げていた。
きっかけは一年生の頃からの友達である望月ありすだった。彼女は私の絵が大好きで、よく絵をねだられていた。
低学年の頃は国民的マスコットやニチアサキャラクターだったリクエストが、学年が上がるにつれて少女漫画などに変わり、この頃には深夜アニメも加わった。
描くためには知る必要があるということで、私も同じアニメを視聴するようになった。視聴はありすの家で観る配信サービスでだったり、配信が無くても柴田恵というアニメオタクの従姉にお願いしてテレビ放送の録画をダビングしたディスクを借りたりしていた。
そうした周囲の影響で、私も、ついでに花音もすっかりアニメにハマった。
私は絵画教室でも美少女イラストを描き始めた。
「最近はそういうのが流行りなのねぇ」
絵画教室の豊橋幸子先生は、わからないながらに理解を示してくださり、油彩画の専門家である先生ならではの描き方をアドバイスしてくれた。今思えばとても貴重な経験だったし、今も私の絵の中にそれは確かに宿っている。
しかし、そんな日々は続かなかった。
この年度をもって、トヨハシアートクラブは廃業することが決まったのだ。理由は先生の持病の悪化だった。ずっと健康そうに見えていたので、その知らせはショックだった。
「そろそろ潮時かなって思っていたの」
先生はそんなことを言っていた。当時でも五十八歳だ。六十まで頑張るつもりだったみたいだけど、身体が先に音を上げたらしい。リウマチ関連の疾患で、時折痛みに襲われていたという。全く気がつかなかった。
生徒たちに指導する力は無くなってしまったけれど、これからも細々と自分の絵は描き続けると言っていた。どうして痛いのにまだ描くのかと聞いたことがある。
「先生にはね、子供ができなかったの。先生こう見えて寂しがり屋だからね、子供の代わりにいっぱい絵をつくるの。もしその子たちが大勢の人達から、すごいね、きれいだねって褒められて、先生がこの世からいなくなった後もどこかに飾られて誰かに見てもらえたなら、それはきっと幸せなことだろうって思うのよ」
先生の絵がすごいし綺麗だってことは私が知ってるし、私が特等席に飾るよと言ったら、先生は私を抱きしめてくれた。
「ありがとう。嬉しいわ。でも九音ちゃんの絵もとっても素敵よ。私にはないものがあるわ。特等席には、ぜひ九音ちゃんの自信作を飾ってあげてね。応援してるからね」
私の五年間の絵画教室通いは、この宝物のような言葉と共に幕を閉じた。
折しも、六年生に進級する頃に花音がピアノ教室を辞めてヴァイオリンに転向した。
花音が両親の「あと一年頑張ったらどうか」という説得を頑なに振り切り、中学進学祝いの前借りとして一挺のヴァイオリンを買ってもらっていたことに便乗して、私もパソコンとペンタブとペイントソフトをねだった。
小学六年生の春、私は独学でデジタル絵の練習を始めた。
インターネットで操作方法を調べ、メイキング動画を漁り、見よう見まねで描いた。
はじめのうちはなかなかうまくできなかった。紙に鉛筆で描いたほうがよっぽど楽だし綺麗だなとも思ったぐらいだ。
しかしそれも次第に慣れ、だいたい思い通りの絵が描けるようになっていった。
**
中学校へ進学した。
両親から条件付きと言い含められつつも、SNSの利用が解禁された。
さっそくツイッターとピクシブにユーザー登録し、イラストを投稿した。
そこで私は驚愕した。
投稿した絵は自信作だった。投稿した翌日は期待に胸を膨らませながらピクシブランキングを見に行ったが、かすりもしていない。私の処女作は鳴かず飛ばずだった。
投稿当日自信満々だった私を見た花音が「そう簡単なものじゃないと思うよ」と言っていた通りになった。
『クラスで一番絵が上手い人』を六年間守り通した私のプライドは砕け散った。ランキングには名前も聞いたこのない神絵師たちの美麗なイラストがずらりと並んでいた。私はここで井の中の蛙であったことを思い知った。
本気で上手くなろうと決意した。
とにかくたくさん描き、人気の絵を模写し、研究した。
絵が上達してくると、初めの頃に描いた絵の魅力の無さに気がつくようになった。あの頃はこれ以上ないくらい完璧だと思っていたのに、今にして見るとイマイチでしかないのが不思議だった。
だんだんと“コツ”が掴めるようになって、今度こそと思える一作を公開した。花音からも「これなら」と太鼓判を押された作だ。
やっぱりランキング入りは果たせなかったものの、それは高望みしすぎない程度に期待していた通りには評価を得られた。一度砕かれた自信を取り戻すには充分だった。
作品を投稿するにあたって、私は花音の意見を参考にした。
花音は絶対的な審美眼を持っていた。ぼやけた表現ではあったものの、花音が「微妙」と言った作品は微妙な評価がついたし、花音が「良い」と言った作品は良い評価がついてきた。
そのうち、私は花音が良いと言った作品だけを公開するようになった。
かくして女子中学生イラストレーター〈イクス〉がひっそりと産声を上げ、〈イクス〉は少しずつフォロワーを獲得していった。
【筆者注】
回想はまだ続きます。




