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第26話 ショパン/英雄ポロネーズ

~九音view~


 お腹の痛みがやや落ち着いて、リビングで時間の経過を待っていたら家のドアが開く音が聞こえた。


「ただいま、九音」


「お邪魔するよ」


 やってきたのは花音と、なぜか先輩もいた。


「なんで底辺絵師先輩もいるんですか」


「相変わらず冷たいなこの神絵師後輩は」


「もう、そんなこと言っちゃダメだよ九音」


 花音は私をたしなめながら、冷蔵庫から牛乳を取り出してグラスに注いでいる。


「どうぞ、先輩」


「いただきます」


 まったりし始めている。本当になんでいるのこの男は。


(にら)むなよ。俺は大洋に言われていろいろ持ってきたんだ。工具とか、検証用の予備パーツとか」


 言いながら、持参してきた少し大きめの鞄を指さす。


「花音が案内したの?」


「うん」


 聞けば、私のSOS電話を受けた花音はまず先輩に相談して、パソコンに詳しい大洋さんにお願いしようと助言を受けたらしい。その後、大洋さんから工具を用意してくれと頼まれた先輩は荷物を用意し、花音と合流してうちへ来たという。


「荷物を届けるだけなら先輩は用済みでは」


「九音!」


「お前な、大洋は自転車(ロード)で来るんだぞ。下校途中でだ。こんな荷物持たせるわけにはいかないから俺が残るしかないだろ」


「ふん……」


 ツーリングに行くと言って休日に出かけてから、二人はずいぶん仲がよろしいようで。

 私はこんなにも大変なのに。悪態のひとつもつきたくなる。


「こんなとこで油売ってないで、原稿やりなさいよ」


「九音、それ以上は怒るよ。先輩は原稿の時間を削ってここに来てるんだから」


「えっ」


 てっきりまだ何もしていないと思っていた。


「先輩はここのところずっと原稿を進めてる。それこそ九音と同じくらい。感謝こそすれ、邪険にするのは看過できないよ」


「…………」


「花音さん、代わりに怒ってくれるのは助かるけどもういいから。俺も原稿してる素振りを見せてなかったわけだし」


「そうですか……」


 先輩の言葉に花音が引き下がる。気まずい空気になる。


「絵師にとってこのタイミングでパソコンが沈黙するのは悪夢だ。その気持ちは痛いほどわかる。さっきの言葉は忘れることにする」


「……すみませんでした」


 最悪な気分だ。なんでかわからないけど、すごく嫌な気持ちになった。私に対して。


「大丈夫だ。大洋を信じろ。あいつは頼りになるぞ」


「先輩は直せないんですか」


「餅は餅屋だよ」


「そうですか」


「でもまあ、あいつがバイトの日じゃなくてラッキーだったな」


「大洋さん、バイトしてるんですか」


 ばつが悪くて黙り込んだ私に代わって花音が反応する。


「うん。あいつはスキーが好きで冬になると雪山に通い詰めるんだけど、オフシーズンはバイトして軍資金を貯めてるんだよ」


「へ〜。先輩はスキーできるんですか?」


「俺か? まあ大洋ほどじゃないけど毎シーズン滑ってるから、コブ斜面じゃなければだいたいのゲレンデは滑れるぞ」


「上級者じゃないですか」


「まあ上級者コースが滑れるかどうかで言えばそうかもだけど、大洋と比べちゃうとなぁ。あいつはコブでもガンガン行けちゃうから」


「すごいんですね」


「あいつが自転車通学してる理由、スキーのための体力維持だし」


「ああ、なんか納得しました」


 先輩と花音の雑談が続いて私の居心地が悪くなってきたとき、インターホンが鳴り響いた。


「噂をすれば、餅屋の到着かな」


「私が出ますね」


 花音が応対してくれる。

 花音の操作でエントランスを解錠し、少しして玄関のインターホンが鳴った。私は急いで玄関へ向かう。


「邪魔するよ」


 待ち人来たる!


「あの、急にこんなことお願いしちゃってごめんなさい。ありがとうございます」


「急いでるんでしょ。すぐ始めるから。パソコンは?」


「案内します」


「大河ー。いるんだろ、来てくれー」


「おう。言われた通り持ってきたぞ」


 リビングから鞄を持った先輩が出てくる。

 こうして並んでいるのを見ると、大洋さんと大河先輩はあまり似てない双子だなと思った。


「こっちです」


 年上の双子を自室に通す。後から花音も付いてきた。


「このパソコンなんですけど……」


 私の愛機を指差す。


「わかった。あとは任せて」


 大洋さんはすぐにパソコン周りのチェックを始めた。スイッチを押したり、配線を確認している。私に手伝えることは無さそうだ。

 よく考えてみたら、自室に男の人を招き入れるのはこれが初めてだった。そう思うと、いまさら恥ずかしくなってきた。いや、変なものは出しっぱなしにされてないし、問題はない。問題は、無い、はず。『ダムむす』のタペストリーとか飾ってあるけど、大河先輩もそっち系だし平気だと思う。


「これは電子ピアノ?」


 せわしなく動く大洋さんをしり目に、大河先輩は別のところに注目しながら花音に話しかけている。この部屋の隅にはアップライトピアノのような形状の電子ピアノが鎮座している。


「はい。一応私のです」


「そういえば花音さんはピアノも習ってたんだっけ。いまも弾ける?」


「そうですねぇ。本格的なレッスンはもうブランクが長いですけど、簡単な自主練習は定期的にやってますから、そこそこ人に聴かせられる程度には弾けますよ」


「聴きたい……」


「聴きたいですか? いいですよ。ヴァイオリンの練習もほとんどできず仕舞いでしたし、今日はピアノの日にします」


「おお! ありがとう。楽しみだ」


「ちょっと待ってくださいね。……あっ。すみません、大洋さんのお邪魔になっちゃったりしませんか……?」


「ん? そんなことないぞ。俺も花音君の演奏は気に入ってるし、生演奏を聴きながら作業できるなんて贅沢なぐらいだ。好きに弾いてくれ」


 大洋さんは手を止めずに答える。


「では一曲」


 本棚から楽譜を一冊抜き取ってきた花音が電子ピアノの前に着席し、譜面台にそれを置く。

 ピアノの電源を入れて姿勢を正す。ピアノの前で構える花音は、いつ見ても様になっている。ずるいくらい格好良い。

 重心が少しだけ前に移動したと同時に、演奏が始まる。


「おお……」


 花音の指がダンスのように踊る。ステップを踏むように跳ねる。動きだけで楽しさが伝わってくる。


「これは……『英雄ポロネーズ』か」


「正解です。これくらい先輩ならわかりますか」


 『英雄ポロネーズ』。ショパンの有名なピアノ曲だ。往年の花音もよく弾いていた。

 あの頃より気持ちテンポがゆっくりだけど、ほとんどミスが無いのはさすが花音だ。

 室内は花音のピアノと、大洋さんが工具を操る音だけになる。


「お、点いたぞ」


「え!」


「やっぱり電源装置だったっぽいな」


 私が花音のショパンに気を取られているうちに大洋さんは修理を済ませたらしく、さっきまで天の岩戸のように沈黙を貫いていた私のパソコンが息を吹き返していた。


「ああ……おかえり私のパソコン……」


 絶望で黒く塗りつぶされていた心が漂白されていく。


「たぶん大丈夫だとは思うけど、念のため中身が無事か確認してみて」


「は、はい!」


 急いでデータファイルを開いて確認していく。

 うん……うん……よし……。欠けたデータは無い。


「良かった……大丈夫みたいです。ありがとうございます、大洋さん!」


「どういたしまして。……ん? それって……」


 大洋さんの視線がディスプレイに注がれている。そこに表示されているのは私の原稿だ。


「そうか。もしかしてと思ったけど、やっぱり君は〈イクス〉だったのか」


 ピアノのほうから首を伸ばしてこちらを見てきた大河先輩が、その名前を口にする。


「やっぱり先輩にはお見通しでしたか。そうです。〈イクス〉は私です」


「『ダムむす』ジャンルで活躍している女子高生人気絵師なんて、正解を言ってるようなものだったからな」


「九音君が〈イクス〉……。君が〈有栖(ありす)ルナ〉のママだったのか……」


 そう。大洋さんの言う通り、〈有栖ルナ〉のママ……つまりキャラデザをしたのは私だ。

 チャンネル登録者数二十万人のフリーランスVTuber〈有栖ルナ〉のママであり、ツイッターフォロワー数八万人の女子高生イラストレーター〈イクス〉が私の正体だった。


【筆者注】

イクスの語源はローマ数字のIXです。

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