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第24話 バッハ/主よ、人の望みの喜びよ

~花音view~


 無事にクルマのもとへ辿り着いた私たちは、今は先輩の運転するクルマに揺られて高速道路の上で帰途に就いている。


 今日一日で六十キロ以上を走った。原付で一気にこの距離を走ったのは初めてだ。心地よい疲労感がある。

 原動機(エンジン)に任せて走った私に比べて自力で走っていた先輩の方が疲れていそうなのに、全然そんな素振りを見せずにクルマの運転までこなしている。さすが、何百キロも走る人の体力は違う。


「行きも帰りも運転ありがとうございます」


「お安い御用だよ。遠慮せずリラックスしてくれていいから。また音楽かける?」


「また好きなの流していいですか?」


「むしろお願いしたいな」


「じゃあ……これにしようかな」


 行きのときと同じようにスマホをクルマとペアリングし、音楽メディアを立ち上げる。

 車内のオーディオからバロック音楽が流れ始める。


「うん。最高の選曲だね」


「それはなによりです」


 流れているのはバッハの『主よ、人の望みの喜びよ』。宮ヶ瀬ダムへ向かう途中で話題にしたあの曲だ。


「優しいメロディーで好きなんだよな、これ」


「わかります。まさしく森の中で聴きながらお昼寝するのにぴったりの曲ですよね」


「昼寝してもいいよ」


「もう夕方ですけどね」


「夕寝してもいいよ」


「初めて聞く単語ですね」


 車外を高速で流れる景色と裏腹に、車内を満たす旋律は穏やかなものだった。


「今日は本当に楽しかったです。どうお礼をしたらいいか」


「いや、いろいろ写真撮らせてもらったし、こっちこそお礼をしなきゃいけないよ」


「あはは。せっかく体を張ったんですから、とびきりかわいいシオンちゃんの新刊を描いてくださいね」


「そんなにシオンのこと気に入ってるなら、九音さんに描いてもらったりしないの?」


「いいえ、シオンちゃんは先輩が描いてこそのシオンちゃんですよ! 先輩の画力とシオンちゃんのキャラデザこそ最高のマリアージュです!」


「本人が隠してるから見たことないけど、九音さんの画力は相当なものみたいじゃん。俺のような底辺絵師よりよっぽどいいものができるんじゃない?」


「九音の絵も先輩の絵も、比べるものじゃありませんよ。先輩の絵には先輩の積み上げてきたものがちゃんと込められています。シオンちゃんはその集大成ですよ」


「集大成か……」


 ため息に乗せるように小さくつぶやく。

 先輩の声の余韻が優しいオーボエの音にかき消される。


「……花音さんは聞かないんだね」


「何をですか?」


「俺の前世」


 先輩の前世。九音がしつこく追及していることだ。

 そのセリフが出てくるということは、やっぱり前世はあるのだろう。でも私は――


「知る必要ありませんから」


「俺の絵のファンなら気になるんじゃないの?」


「いいえ。別に」


「もしかしたら俺は神絵師だったのかもしれないよ」


「それを知ったところで、先輩のシオンちゃんの価値は変わりませんよね」


 クルマのスピードがほんの少し落ちた。

 どうしたのかと先輩を見ると、それまで前を見て運転していた先輩が一瞬だけこちらを見ていて、目が合った。

 ちらっとだけ見えた瞳は、複数の感情が入り混じった色をしていた。

 すぐに目をそらされて、顔も前に向き直る。スピードが元に戻る。


「そうだな……その通りだ……。そうか、君はそうなんだね」


 そのセリフは私にではなく、自分自身に言っているようだった。


「夏の新刊、できる限りいいものを描くよ。〈美青ドナ〉として、最高のシオンを」


「楽しみです! 約束ですよ」


「ああ、約束する」


 曲が終わった。名残惜しいのでリピートで再生する。

 一瞬沈黙の降りた空間を、再び管弦楽の和音が優しく満たす。

 少し眠くなってしまいそうな心地よさだ。油断したら夕寝してしまうかもしれない。


「そうだ。現在地共有なんだけど」


「あれ良かったですね。今日みたいなとき便利な機能でした」


 パンを食べてからの帰りは信号が多い道だったので、ところどころで離れたりしてしまった。でもその都度お互いの位置を確認してスムーズに合流できた。


「もう位置共有切っていいよ。プライバシーにも関わるし」


「先輩はこの後切るんですか?」


「ん? うーん……なんか常時共有に慣れちゃうとプライバシーなんて気にしなくなるんだよなぁ。放置かな」


「じゃあ私も切らないままにしておきますね」


 今度こそ先輩はぎょっとしてこちらを見てきた。クルマの進路もちょっとふらついた。


「先輩、前。前見て運転してください」


「……すまん」


 姿勢を正したクルマは安定を取り戻し、ジャンクションへ進入して首都高の山手トンネルへ潜っていく。


「……切りたくなったらいつでも切っていいから」


「先輩も切りたくなったらいつでも切っていいですよ」


「…………」


 先輩は無言になってしまった。私も無言になる。


 トンネルの中は風景が単調で、視覚に入る情報が大幅に減る。私を刺激する五感は座席から感じる揺り籠のようなクルマの振動と、鼓膜を揺さぶるバッハの子守歌(カンタータ)だけになる。


「ねえ、花音さん」


 ああ……なんだか今、すごく気持ちいい。


「花音さん?」


 遠くから先輩の優しい声が聞こえた気がした。返事、しなきゃ……。

 でも、なんだかちょっと、いまはまどろんでいたい気分なの。


「起こしてあげるから、寝てていいよ」


 ほどよく体にのしかかる疲労感もあってか、私はいつの間にか眠ってしまった。


 先輩の家の前で起こされるまで、私はあたたかい夢の中で揺蕩(たゆた)っていた。


【筆者注】

デート編はこれで終わりです。二人はデートだと思っていませんが間違いなくデートです。次は九音のターンです。

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