第22話 宮ヶ瀬ダムむすカード
~花音view~
自転車の世界では下山のことをダウンヒルと呼ぶらしい。カタカナ用語ばかりですねと言ったら、ヨーロッパが本場だからそういうものなんだよと言われた。
というわけで、私が原付に乗り始めてから初めてのダウンヒルをしている。脅されたほど危なくはないと感じるのは、かなり速度を控えめにしているからだろうか。それよりもだんだんブレーキを握る手が疲れてきて、こっちのほうが気になった。
あれだけ登ったのだから、当然同じだけ下りがあるわけで。長い坂道を下ると言うと響きは爽やかだけど、実際はカーブが多くて風景を楽しむ余裕はあまり無く、ただの握力トレーニングだなと思った。
前を走る先輩は、木陰で陽が当たらなくて濡れたままの路面を避けて通り、アスファルトの亀裂などがあれば手信号で教えてくれる。先輩の走った跡をなぞり速度を合わせればいいだけなので楽だ。先輩というお手本があるおかげで、私も走り方がわかってきたような気がする。
斜度が緩んだ。
緩くなった下り坂を、先輩は滑らかに進んでいく。私はなんとなく、軽くブレーキを引いて彼の背中を追うのをやめた。
自転車の後輪が響かせるラチェット音が先へ遠ざかっていく。残ったのはコトコト控えめに動く原付のエンジン音と、小石を弾く音の混ざったロードノイズ、川のせせらぎの音、風で木々が揺れる音だった。いや、鳥の鳴き声も聞こえてきた。
五感の許容量が増したのか、視界が広くなったように感じた。深緑の木々と、葉の隙間から見える空。私と同じ方へ流れる川。森のにおいを運び、服をぱたつかせる風が心地良い。
握力トレーニングだと思っていたダウンヒルが楽しくなってきた。急斜面より緩斜面がいい。
気分良く走っていると、道の先にゆっくりとペダルを回す先輩が見えてきた。じわりじわりと距離が縮まり、追いついたところで先輩が声をかけてきた。
「何かあった?」
「いえ。ちょっと気分が良くて」
「そっか」
先輩が私の横に並んできた。並走はよくないけど誰もいないし今だけ、と言って私のスピードに合わせてくれる。
「確かにこの辺の道は気持ちいいよな。いかにも山道って感じで」
「はい。気持ちいいです」
「それはなによりだよ」
「こんな場所でヴァイオリンを弾けたら最高かもしれませんね」
「いいね。弾くとしたら選曲は?」
「そうですねー。先輩だったら何が聴きたいですか?」
「んー、バッハかな。『主よ、人の望みの喜びよ』」
「その理由は」
「昼寝に良さそう」
「あははっ。確かに良さそうですね」
木々に囲まれてバッハを聴きながら昼寝をしたら、さぞや気持ちいいに違いない。
「縦列で走ってるときって先輩とあんまり会話できなかったから、こうやって話せて嬉しいです」
「俺、あんまり面白い話できないけど大丈夫……?」
「いいえ。先輩は面白いですよ。今まで会ったことないタイプです」
「まあ珍獣な自覚はあるな」
「もう! そういう意味じゃありませんよ!」
「そ、そうか……」
「そうですよ」
「……そろそろクルマが増えそうな道に出るから、前に出るよ」
照れ隠しのようにエスコートを再開する先輩は、ちょっと可愛いかった。
**
川沿い下っていくと湖に辿り着き、その湖畔をしばらく進んで次の目的地に到着した。
「ここが宮ヶ瀬ダムだ」
「思ったより賑わってますね」
ここはダムと併設された施設内だ。ダムに関する各種資料の展示やカフェテラスなど充実しており、館内も綺麗だ。
「ごめん。ちょっとのんびりしすぎて観光放流には間に合わなかった」
「いえいえ! ゆっくり走りたかったのは私のわがままでしたし、それに付き合ってくれた先輩が謝らないでください!」
この宮ヶ瀬ダムでは観光放流と言って、所定の時刻に放水を行っているらしい。近くで見たらさぞ迫力のある光景だっただろうけど、今日のところはおあずけだった。
「この館内展示でも充分楽しいですよ」
「花音さんは博物館とか好き?」
「わりと好きな方ですね。小さい頃は父がよく連れて行ってくれました」
「なるほど。うちも似たような感じかな」
最近はご無沙汰だけど、博物館とか科学館や美術館にはよく行っていた。私は博物館が好きで、九音は科学館のプラネタリウムとか美術館が好きだったから、当時の両親は苦労したことだろう。
「あ、花音さん。あそこでダムむすカードが貰えるよ」
「え! ダムむすカードですか!」
ダムむすカードとは、いま巷で大人気のコンテンツ『ダム娘』の関連アイテムで、各地のダムやその関連施設で無料配布されているトレーディングカードだ。ここ、宮ヶ瀬ダムで貰えるカードには宮ヶ瀬ダムの萌え擬人化キャラである宮ヶ瀬なかつちゃんがあしらわれている。
「私、貰ってきていいですか?」
「うん」
お許しが出たので配布担当らしい受付のお姉さんのところへ赴く。
「すみません。ダムむすカードください」
「はい。お連れの方は要りますか?」
「先輩、要ります?」
「いや、俺はもう持ってるから。何度か来てるし」
「では一枚ですね」
「あ、すみません。二枚頂いてもいいでしょうか?」
「構いませんよ。どうぞ、お受け取りください」
「ありがとうございます」
無事、二枚のダムむすカードをゲットしてその場を離れる。
「今は普通に二枚以上くれるんだね。昔はひとり一枚だったんだけど」
「そうだったんですか?」
「ダムむすカードはダムカードを元ネタにして作られたもので、そのダムカードが原則ひとり一枚のものなんだよね」
「ダムカードなんてあるんですか」
「『ダムむす』よりずっと昔からやってるよ。国交省が音頭取って企画されたもので、一部のダムマニアに人気の記念品なんだ」
そんなものがあるとは知らなかった。
「ダムカード、ここにもありますか?」
「そりゃ当然。ここじゃなくて入口近くの受付で配ってるよ。後で寄る?」
「はい」
「良かった。ダムに来たら『ダムむす』もダムそのものも両方楽しまないとね」
嬉しそうに言う。観光放流を見逃したのを気にしていたし、先輩はダムマニア寄りなのかもしれない。
「話を戻すね。『ダムむす』黎明期はダムカードの仕組みに乗っかってダムむすカードを始めたんだけど、『ダムむす』は地域振興のためのコンテンツだったから、ダムむすカードに付加価値を付けたんだよ」
「付加価値?」
「一部のグッズの購入にそのキャラのカードの提示が必要って仕組みにしたんだ。グッズを買うのにカードが必要。カードを手に入れるために現地へ来てもらう。そうやって観光客の誘致を図ったわけだ」
「なるほど」
よくできた仕組みだと思う。
「でも今はそんな話聞きませんよ?」
「うん。カード提示グッズはほとんど無くなってる。カードの転売が続出して問題になってね」
「ああ……転売ですか……」
「ひとり一枚が原則でも何度も訪れてたくさん仕入れて売りさばくやつとかが出てきて、歯止めをかけるためにカードの付加価値を無くす方向にしたんだ。その頃には観光客の誘致も充分すぎるほど人気のコンテンツに成長してたから」
「へー……」
「それにしても、なんで二枚貰ったの?」
「これは九音にあげようと思って」
九音は同人誌を作るほど熱心な『ダムむす』ファンだが、列車で日帰りできるところしか移動しないのでダムむすカードはほとんど持っていない。
「お土産なら向こうの売店にグッズがあるけど、寄ってく?」
「はい。行きましょう!」
**
売店を物色した後、ダムカードも回収して、私達はダムの下へやって来た。
「大きいですね……」
見上げるダムの威容はかなりの迫力だった。
なるほど。この高さからの放水は見応えがありそうで、観光放流を見逃したのはやっぱりもったいなかったかもしれない。
「宮ヶ瀬ダムの堤体はこの辺じゃなかなかの高さがあるからね」
「へえぇ……」
ダムのことを堤体って呼ぶあたり、やっぱり先輩ってダムマニアなのかな。
「ねえ、写真撮っていいかな」
「あ、邪魔でしたら退きますね」
「いや、そうじゃなくて、ダムをバックに君の写真が撮りたいんだ」
「私ですか?」
「またモデルになってほしい」
「なるほど! シオンちゃんですね! 私でよければいくらでも体を貸しますよ!」
「ちょっ……! 言い方! 大声でそんなこと言わないで!」
「こんなロケーションのシオンちゃんを描くんですね。もしかして新刊ですか!?」
「ああ、うん。そうしたいなって思って……」
「わー! 良いですね! これでようやく先輩の新刊も作られ始めるんですね!」
「そんなに楽しみ?」
「シオンちゃんは私の推しなんですよ! 当然です!」
「ごめん、愚問だったね。頑張って良いもの作るよ」
「お願いしますね! で、どんなポーズがいいですか?」
「んーと、じゃあまずは両手をバーンと広げたポーズから」
「バーンとですね。わかりました。バーンっ!」
目の前で勢いよく両手を広げた私に驚いた先輩のリアクションが、なんだかたまらなく面白かった。
【筆者注】
ウマ娘級のコンテンツなら宮ヶ瀬ダムの駐車場はキャパオーバーじゃないかとかそういうのはナシで。ダムむすカード欲しいです。




