第21話 アタック!ヤビツ峠
~花音view~
急坂を駆け上がっていく。
私の原付でさえ苦しげなエンジン音を唸らせる坂道を、先輩は淡々と、しかし力強く軽やかに登っている。麓では点在していた民家はすぐに見当たらなくなり、今はいかにも山の中といった雰囲気の道を突き進んでいる。アスファルトの舗装はしっかりしているけど、道は狭く曲がりくねっている。時折木々の間が開けたところから見える下界の景色は美しく、もうこんな高さまで登ってきたのかと圧倒される。
スタート直後は淡々としていた様子も、二十分も過ぎればこちらまで音が聞こえてきそうなほど呼吸が荒々しくなり、苦しそうな素振りも垣間見える。しかしスピードは落ちるどころか上がっているようで、腰を浮かせて立ち漕ぎ――ダンシングと言うらしい――を仕掛けたときなどは置いて行かれそうなほどの速さを見せる。モーターが積まれていると言われても信じてしまいそうだ。
細いふくらはぎには幾筋もの筋肉が浮き上がり、一方で上半身は芯が通ったかのようにブレることなく車体を支えている。
自動車と張り合えるスピード、なんてことはない。登り坂なので当然だ。それでも紛れもない“速さ”を感じる。実際かなりのペースで走っているようで、前を走っていたロードバイクを二台ほど追い抜いていた。
ずいぶん長い距離を走ってきたけど、まだ登り坂は続いている。ゴールはまだだろうか。もうすぐだろうか。先輩に聞いてみたいけれど、会話なんて到底できなさそうなほど追い込んでいることは見ればわかる。体力も凄いけれど、集中力も凄い。底が知れない人だ。
不意に響いた金属音と同時に先輩の雰囲気が変わった。この金属音はギアチェンジしたときの音だ。じわりと車間距離が開く。先輩がペースアップしたのだ。もしかしたら最後の追い込みかもしれない。
視界が開け、奥にロータリーの広場が見えて、ああ、あそこがゴールなんだなと理解した。そこへ向かって先輩は勢いよく突っ込んでいく。私の原付も、負けじと追いかける。ラストスパートだ。
ガシガシと音が聞こえるほど脚が回り、チェーンが躍動する。熱を感じる。鬼気迫る圧力を感じる。
もう少し!あとちょっと!頑張って!
そして――
登りっぱなしだった道が緩やかな下り坂に変じたところで、張り詰めていた糸がぷつん、と切れたかのように、先輩は脱力した。
そのまま惰性でロータリーを回り、足をついてハンドルへ上体をもたれかけた。
「……っ! ハッ! はぁっ! ~っ! が……ゲホッ! ッ! は、はぁああ……」
乱れ、むせるようだった呼吸を深いため息で宥め、しばらくして彼の肺は正常に換気を始めた。
「とりあえず……これが、俺の本気……です……」
まだぐったりとしているが、会話はできるようになったみたい。
「お疲れ様です先輩。びっくりするほど速かったです」
「ご満足……いただけた、かな」
「はい」
話の発端は私が先輩の全力を見たいと言ったことだ。当初の目的は果たしたことになる。でも――
「このあとのことも、私は楽しみですよ」
今日のツーリングはまだ始まったばかり。ここからは先輩プレゼンツのレクリエーションコースが待っているのだ。
「あはは。もういいやって言われなくてよかったよ」
「そんなこと言いませんって。本当に楽しみですから。はい、これはご褒美です」
「なにこれ。俺ってストイックなキャラに見える?」
私が鞄から取り出したミルクプロテイン飲料を、先輩は苦笑しつつもありがとうと言って受け取り、一気に飲み干した。
「ごちそうさま。あそこにある看板の前に自転車を立てて写真を撮るのがお約束なんだ。ちょっと撮ってきていい?」
「せっかくだから私も付いて行っていいですか?」
「じゃあおいで」
先輩に連れられて『ヤビツ峠』と表記された看板の前へ移動し、そこの縁石にロードバイクを慎重に立てかけて、その横に私の原付も並べて写真に収めた。
「ツイッターとかではみんなこの構図の写真を添えて、ヤビツを登ったって投稿するんだ」
「それでお約束ですか」
「そういうこと」
そんな話をしていると、後ろからやってきた自転車乗りの男性が先輩に声をかけてきた。
「こんにちは。君、速かったねぇ」
「あ、すみません。写真ですよね。すぐにどかします」
「ああいやいや。急かすつもりは無かったんだ。君たちは友達同士? 写真撮ってあげようか」
「あ、その……。どうする?」
困った様子の先輩が私に振ってきた。
「せっかくですし、お言葉に甘えましょうよ」
「そっか、そうだな。……すみません。お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんですとも」
看板の前に並ぶ自転車と原付と共に私たち二人も合わさって、先輩のスマホで写真を撮ってもらった。
撮影後に見せてもらった写真は、電波が入ったら送ってもらうと約束した。
**
カメラマンを務めてもらった男性は先輩と一言二言交わして、そのまま颯爽と下山していった。
「さて、俺たちも先へ進もうか。山道を下るのは初めて?」
「はい。走ったこと無いです」
「まあ免許取り立てであそこに住んでれば当然だよね。下り坂の山道は結構危ないから、俺のスピードに合わせて走るようにして。ゆっくり下るから」
「どんな危険があるんですか?」
「一番気をつけるのはカーブのときだね。コーナーの入口に差し掛かるまでにしっかりと減速すること。コーナリング中にブレーキをかけずにすむほど減速するぐらいがいい。遅くなっても、それで安全が買えるなら安い保険金だと思って」
「わかりました。カーブ、気をつけます」
「あとは路面状況。アスファルトが割れてたり、大きい石が転がってたり、滑りやすい苔とか濡れた落葉とかがあったら避けること。最近は雨続きだったから、ところどころ濡れてると思う。できるだけよそ見しないように。後ろからクルマが迫って来て抜きづらそうな様子だったら、こっちが停まって先に行かせちゃおう。あとは……」
「先輩って心配性です?」
「ん……」
先輩は少し固まって、顔をやや俯かせた。
「ごめん、しつこかった……?」
「いえ、そんなことはないですけど……真剣な感じがして」
「まあその……こういうときの事故や怪我ってさ、痛いだけじゃないから」
「痛いだけじゃない?」
「苦くなるんだよ。思い出が」
苦い、か。
もしも今日、事故で怪我をしたらどうなるんだろう。山の中だったら救急車が来るまで長い間待つことになるのだろうか。壊れたバイクは置いていくことになるのかな。このあとの予定は当然全部キャンセルだ。治療費も修理費もたくさんかかって両親に迷惑をかけるだろうし、ツーリングは禁止されるかもしれない。先輩とも気まずくなると思う。
きっと、一生口に残りそうなほど苦くなりそう。
「来なければよかったとか、もう二度と走らないとか、そういう思い出にさせたくないって思って。些細なことで、幸せは簡単に反転するから」
「その通りだと思います。すみません、話の腰を折ってしまいました」
「いや、言いたいことは遠慮なく言ってほしい。俺も話が長くなりすぎたし、そろそろ行こうか」
「はい、行きましょう。安全第一で!」
先輩は安堵したように笑って、自転車を発進させた。
【筆者注】
今回のヤビツアタックは、デイリー跡地から峠までの10kmで標高差600mを駆け上がるコース(通称旧デイリー)にしました。興味がある人はぜひ(マナーを守って)タイムアタック!




