第14話 ヨハン・シュトラウス二世/春の声
~花音view~
「お、やってるね」
一人になった防音室でチューニングをしていると、シャワーを浴びてさっぱりしたらしい先輩が戻ってきた。今度は半裸ではなく部屋着だ。手には茶色い飲料が入った透明なプラスチック容器を携えている。
「何飲んでるんですか?」
「これ? プロテイン。ココア味」
プロテイン飲んでる人、初めて見た。いや、珍しくはないのだろうけど、身近な人にスポーツをしている人は今までいなかった。
「不味くはないんですか?」
「いや、普通」
普通ですか。
「ヴァイオリン聴いててもいい?」
「先輩のお宅なのですからご自由にどうぞ」
「ありがと」
どこからか取り出した折り畳み椅子を広げてどっかり座る。
「雨の日っていつもはヴァイオリンどうしてるの?」
「うちはマンションですし、スタジオとか借りないと弾けないのでいつもはお休みですね」
スタジオを一人で借りるにはお金がかかりすぎる。
「ヴァイオリン教室とか通ってないの? そこなら貸してもらえたりしない?」
「ヴァイオリン教室には通っていましたけど、半年前に辞めました」
「へぇ、教室は辞めてもヴァイオリン自体は続けてるんだ」
「はい。ヴァイオリンは好きなので」
ヴァイオリンを軽く弾いてみる。チューニングはバッチリ決まった。
「ヴァイオリンがお休みの日はどうしてるの?」
「そうですねー。ぼーっとアニメ観てたり、勉強したり、電子ピアノ弾いたりしてますね」
「ピアノも弾けるんだ」
「ええ、ヴァイオリンの前はピアノ教室に通っていたんですよ。小五までピアノで、小六からヴァイオリン教室。なので、ピアノのほうが歴は長いですね」
「小五までって、ちょっと中途半端な時期なんだな」
「私、こう見えて気分屋なんですよ」
「ふーん……」
ぐいっとプロテインを飲み干す先輩。特に表情は変わらない。普通味と顔に書いてある。
「大洋さんは何をされてるんですか?」
「あいつは自室でゲームして遊んでるよ。休日はだいたい俺が自転車遊びであいつはゲーム」
「二人では遊んだりしないんですか?」
「俺も自転車の後はあいつとゲームで対戦したりすることもあるけど。まあでも、高校に上がってからはお互い一人プレイのゲームをすることが増えて対戦とかは減ったなぁ。あいつは自作ゲーミングPCにハマってるし」
「パソコン自作してるんですか」
「限られた予算で最適解を考えて組むのが楽しいらしいぞ。そういうところは高専生っぽいよな」
高専生ってそういう感じなのか。
「九音さんは家ではずっと絵を描いてるの?」
「そうですねぇ。アニメ観たりゲームもしてますけど、忙しい日でも一時間以上はキャンバスと向き合ってますね」
「そりゃ本物だな」
「ええ、九音はすごいですよ。先輩とも甲乙つけ難いです」
「いやいや、そこまで描いてる人には敵わないから」
「そうでしょうか」
「そんなもんだと思うよ。自転車と絵の両立は厳しいんだ」
「そうなのですか?」
「どっちも少しサボるだけで衰える。まあ自転車の方がサボりに対して顕著かな。筋肉は裏切らないと言うけど、怠った分はすぐに結果に出る。数字で可視化されるしな。絵については勘は鈍るけどセンスは引き継げるだけマシかな。でも継続的にやらないとちっとも成長しないのが絵の難しいところだな」
「なるほど」
絵の感覚については理解できる。楽器と同じだ。
「だからまあ、あちらを立てればこちらが立たずって感じになるんだよ」
アウトドア趣味とインドア趣味は時間リソースの取り合いになるようだ。
そうすると優劣が曖昧な官能評価である絵より、数字で示される自転車の方が優先されるのかもしれない。
「まあ、俺のことはさておき自由に練習してくれていいよ」
「ありがとうございます。せっかく観客がいらっしゃることですし、一曲通しで演奏してみせましょうか」
「お、それは嬉しい。ぜひ聴きたかったんだよ。何を披露してくれるのかな」
ちょっと考える。
そうだなぁ。この前練習したやつにしようか。
「では有名なクラシックから、いかがでしょう」
「こう見えてクラシックは結構聴くんだ。楽しみだよ。よろしくお願いします」
「はい。それではご清聴ください」
先輩がぱちぱちぱちと小さい拍手をする。
私がゆっくり弓を構えると同時に、拍手の手が止まる。
小さな拍手の音は部屋の壁に一瞬で吸い込まれ、外界の音を断った部屋に沈黙が訪れる。
呼吸と心のリズムが一致したタイミングで、弓を強くボウイング。フォルテの導入。
心が刻むワルツに乗せて、優雅なメロディーを奏でていく。
「春の声……」
小声で先輩がつぶやく。
これはヨハン・シュトラウス二世の『春の声』。正解だ。知っている曲で良かった。
オーケストラではなくヴァイオリン独奏で申し訳ないが、いまひととき、この時間をお楽しみください。先輩。
**
「ブラボー!」
演奏を終えると、先ほどより気持ち大きい拍手で迎えられた。
「いかがでしたか」
「いかがもなにも、あの〈ハナネ〉さんの生演奏を聴けたんだ。最高だった」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟かなあ」
まあ感性は人それぞれだ。ご満足いただけたならそれでいいか。
「じゃあ、あとは普通に練習しますので。反復とか多いから退屈かもしれませんよ」
「いや、邪魔じゃなければ見ててもいいかな」
「いいですよ」
それからも先輩は、飽きもせずにこちらを見ていた。
その瞳は、まるで子供のようだった。
【筆者注】
しばらく花音viewが続いてましたが、次は大河viewです。




