第13話 防音サンクチュアリ
~花音view~
土曜日。私は昨日に引き続き秋谷家の前にやってきた。
九音は宣言通り家で原稿と格闘している。ここに来たのは私一人だ。
空はどんよりと暗く陰り、しとしとと降り続く雨が絶えず鼓膜を揺さぶっている。
雨は好きじゃない。ヴァイオリンという木製の楽器に、湿気や水気は天敵だ。暗い空と環境音を塗りつぶす雨音の中でひとりきり。まるで暗い心情描写のような状況に反して、今日の私の心は上機嫌だった。
なぜならば今日の私は無敵だから。この中にある防音室のおかげで!
私の家はマンションの一室であり、ヴァイオリン教室を辞めてからは練習するためには河川敷や公園に行くしかなくなっていた。サイレントヴァイオリンがあれば話は違ったが、あいにくとそんなものは持っていない。よって、雨の日の練習は諦めるしかなかった。今までは。
それが今日からは練習ができる! ヴィヴァ防音室! 持つべきものは友達だね!
意気揚々とインターホンを押す。
軽い呼び出し音からしばらく間をおいて、応答の声がした。
『はい、秋谷です』
初めて聞く男性の声だ。
「こんにちは。私、泉美さんのクラスメイトの飯山です」
『ああ、聞いてるよ。ちょっと待ってくださいね』
通話が切れたのでしばらく待っていると、解錠の音と共に玄関扉が開かれた。
「やあ。昨日ぶり」
中から出てきたのは大洋さんだった。
「こんにちは。今日もお邪魔します」
大洋さんに案内されて玄関を抜けると、目の前に男性が一人立っていた。
「いらっしゃい。貴女が飯山花音さんだね。泉美の父の大貴です。いつも娘がお世話になっています」
「いえ、こちらこそ! 今日はお部屋をお貸しくださり、ありがとうございます」
「あの部屋は好きに使ってくれて構わないから。ゆっくりしていって」
「はい」
簡単に挨拶を交わして、大貴さんはリビングのほうへ戻って行った。なんとなく、大洋さんはお父さん似なのかなと思った。
「じゃあ俺も自分の部屋に戻るから。防音室の場所はわかる?」
「はい。覚えてます」
「ん、何かあったら呼んで。それじゃ」
大洋さんが去って一人残された。本当に自由にしていいらしい。
昨日の今日なので、ほとんど劣化の無い記憶を辿って防音室の前に着く。
いざ参りますか! 私の新たなヴァイオリンサンクチュアリに!
がちゃり。
防音室の扉を開くと、中から聴いたことのない機械音が洩れ出してくる。
誰かいる?
恐る恐る室内を確認すると、まず豪快に稼働する扇風機が目に入り、その先には机に置かれたノートパソコンと、それを見ながらエアロバイクを一心不乱に漕ぎ続ける上裸の男性がいた。
「え……あの……」
「ん? あれ、もう来たんだ。意外と早かったね」
上裸男の正体は大河先輩だった。
**
薄い。
初めて会ったときの先輩の印象は小柄な人だと思ったが、こうして裸を見るとその体は小さいというより"薄い"のだ。
先週もどこかのレースで上位だったことからかなり"ガチ"なトレーニングをしているように思っていたけれど、スポーツマンとは思えないほど胸板が薄く、肋骨が薄く浮き出ている。意外にも肩幅は広いが、そこから伸びる腕もマッチョとは程遠く、細く華奢で浮き出た血管が目立っている。
胴体はシックスパックなんてもの以前にそもそも腹筋が見当たらず、深い呼吸に合わせて膨張と収縮を繰り返す皮膚の風船のようだった。
ただ、その脚は紛れもないスポーツアスリートのものだった。テレビで見た競輪選手のような丸太みたいなものではなく、特別太いとは言えない。しかし、大腿の筋肉は筋繊維の一本一本が見えそうなほど彫りの深い陰影を作り出し、隆起したふくらはぎから細く締まった足首にかけてのくびれは美しく、日に焼けた肌も相まって、まるで彫刻作品のようだ。
総合的に見て、実にアンバランスな肉体だった。
「えっと……その、トレーニングですか……?」
上裸の男の人を間近に見て、ちょっとドギマギしてしまう。
最大風量であろう扇風機の風を受けているにもかかわらず、大粒の汗にまみれた顔をした先輩は、足を止めずにこちらを見て答える。
「そう。今日雨だからインドアトレーニングで。……もうしばらく漕がなきゃメニューが終わらないから、邪魔して悪いけどちょっと待ってて」
「い、いえいえ! こっちが邪魔している側なので!」
「何なら俺のことは気にせず練習してもらってもいいけど」
今ここでやるには扇風機の音がやかましい。
「いえ、終わるまで待ちますよ」
先輩は悪いねと詫びを言って、顔を正面のノートパソコンへ向き直った。
気になって私もそのパソコンの画面を覗いてみると、そこには自転車で走るアバターが映っていた。
「これ、もしかしてゲームですか?」
「ああ、ゲームっちゃゲームなのかな。ゲーム感覚でプレイできるフィットネスサービスみたいなもん。Zフィットっていうんだ」
「ゲーム感覚でプレイできるフィットネスサービス?」
「例えば、リアルタイムで漕いでるデータを元にアバターを走らせてオンラインで対戦することもできるし、今俺がやってるように予め設定したトレーニングメニューに応じて自動で負荷を変えたりすることができるんだよ。他にも、勾配を負荷で模擬して現実にあるコースを再現することでシミュレートできたり。面白いよ」
「パソコンはそのエアロバイクと繋がってるんですか?」
「そうだよ。スマートトレーナーって呼ぶんだけど、内部のセンサーでリアルタイムのパワーを計測して、ワイヤレス通信で連係してるZフィットのアプリが実際に出るであろう速度を計算してアバターが走るんだ」
「へぇ、凄いですね」
画面にはアバターのライダーを中心に、様々な数値が表示されている。なんと言うか、本格的っぽい感じがする。
「この左上のWがパワーですか?」
「そう。ワット単位だね。ちょうどいいや。今からもがくところだから見てて」
そう言うと先輩は猛然とペダルを踏み始めた。画面に表示されているワットや、その他いくつかの数値がハネ上がる。相当本気で漕いでいるのか、息は荒く余裕のない表情に変わっていく。
数十秒ほど経ったところで、先輩は一気に脱力して動きを緩めた。同時に画面の数値も下がる。
「っはぁ……! はあ……。こんな感じで……数値が変化するんだ」
めっちゃ息切れしてる。汗もすごい。
「パワーは速度より大きく表示されてるんですね」
表示されている数値の中では、パワーのフォントサイズが最も大きい。
「速度よりパワーがトレーニングでは大事だから。速度は勾配に影響されて、負荷の指標にはならないんだよ」
「そういうものですか」
「こうやってワットとにらめっこしてるとさ、家電製品って凄いなって思うんだよね。電子レンジを自力で動かそうとしたら、俺じゃおにぎり一個温めるのがやっとだよ」
今表示されているパワーは百五十ワット前後だ。先ほどもがいていたときは五百ワット以上出ていたが、あれだけ漕いでようやく電子レンジとどっこいどっこいなのか。私じゃピクリとも動かせなさそうだ。
「その胸についてる変なのって、心拍数を測ってるんですか?」
先輩の胸元には怪しげな黒いバンドが巻かれている。
「そうだよ。心拍センサー。もしかして知ってた?」
「いいえ。でも画面に心拍数っぽいハートマークの数値が出ていますし、そうかなって」
ということは、これも無線で繋がっているのか。ハイテクだなぁ。
「心拍数はキツさの指標になるんだ。俺の場合、百八十を超えると話をする余裕が無くなる。百九十は死ぬほどキツくて、二百は極限まで追い込んでも滅多にお目にかかれない」
今は百六十ぐらいだ。これなら会話は楽勝らしい。
「このスマートトレーナーって、ずいぶんハイテクみたいですけど、いくらするんですか?」
「新品で買うと四十万ぐらいだったかなぁ」
「四十万!?」
たかだかと言っては失礼かもしれないが、トレーニング器具に四十万とは……。
「まあこれは高機能なハイエンドモデルだから、安いのなら数万円のスマトレあるけどね。こんな高級品、学生には手が届かない代物だけど、知り合いからぶん取っ……じゃなくてありがたく頂戴してね」
ぶん取った?
「べらぼうに高くて意味わかんないと思うけど、クルマのレースゲーム用ドライブシミュレータとかガチで組もうとしたら余裕で百万円超えるし、趣味ってそういう世界だから」
「恐ろしい世界ですね……」
「だなー」
四十万の機械に乗っかりながら他人事のように言う。
「もうあと一本もがいて十分間クールダウンしたら終わりだから、もうちょっと待ってて」
「はい」
その後、言った通りのメニューを消化した先輩は、シャワーを浴びると言って退室していった。
【筆者注】
スマトレをうまく描写できているのか不安。知識ゼロの人でも想像できるようになってるのかな。




