第101話 ヨハン・シュトラウス二世/美しく青きドナウ
〜花音view〜
「そうか。〈イクス〉の企画は順調なんだね」
隣を歩く先輩が言う。
今は放課後、生徒会活動のため教室から生徒会室へ向かっている途中だ。
基本的に生徒会室に入り浸っている先輩だけど、最近は放課後になると私の教室に迎えに来てくれる。
みんなからは彼氏が板についてきたねだなんて冷やかされたけど、すでに当たり前の光景として受け入れられつつある。
私と先輩の関係が認められたというか、私のクラスに先輩が馴染んできたような感じで実はすごく嬉しかったりする。先輩は自分の三年生のクラスに居づらかったらしいから、心から良かったと思う。
「最近の九音は寝る間も惜しんで返礼品の絵を描いていますよ」
九音は家族会議のあと、大洋さんと共にクラウドファンディングを立ち上げた。
そのクラウドファンディングは〈イクス〉本人だけでなく人気Vtuber〈有栖ルナ〉も巻き込んで大々的に宣伝され、初日から五十万円を集めた。
それを見た大洋さんは、これなら目標額に届くとお墨付きを与えた。
それを受けた九音は、患肢温存手術というものを無事に終えた豊橋先生の元へ、先生の甥の方を連れ立ってお伺いを立てに行った。
そして、九音の見立て通り豊橋先生は考えを改めた。
手術が大成功だったというのもあったらしいけど、やっぱりどうしても手放したくない絵があったみたい。
もっといろいろやり取りはあったんだろうけど、九音から伝え聞いた話はここまでだ。
そしてひとまずの関門を乗り越えた九音は今、過去一番と言っていいほど集中してイラストを描いている。
「そういうわけなので、すみません。九音はしばらく生徒会活動をお休みさせてもらいます。そのぶん私が頑張るので」
「いいよ。それを言ったらうちの大洋も一枚噛んでるんだ。俺も助けるよ」
「ありがとうございます」
会話を切り上げて、ゆっくり歩いて生徒会室へ向かう。
私の歩幅に合わせて真横を歩いてくれている先輩が、少しずつ私の近くに寄ってきた。
探るように、もじもじ、じれじれと接近し、やがてぴとっと私の肩に先輩の二の腕が触れた。
最近の先輩がよくやる行動だ。
どうやら彼なりのスキンシップらしい。
もっと遠慮せず触ってくれてもいいのに、奥手なひと。かわいいなって思ってしまう。
かわいいのでサービスに体重を預けちゃう。えいっ。
とかやってたら、知らない生徒が通りすがり、先輩と私はバッと反射的に距離をとった。
ごめんなさい。じゃれ合いを不意打ちで見られるのはまだ恥ずかしいです……。
そんなことをしているうちに生徒会室に到着した。
「なんだ。ちょっと遅れたかと思ったけど、武藤達はまだ来てないのか」
「会長達はしばらく遅れて来ますよ」
「そうなの? 二年ってなんかあったっけ」
「いえ。私が人払いをお願いしたんです。今日の放課後の始めに少し時間をくださいって」
「人払い? なんでまた」
「二人きりの時間が欲しかったので、ちょっと我がままを言いました。だって今日は先輩のお誕生日ですから」
そう。今日一月二十八日は先輩の誕生日。
スマホアプリのカレンダーにずっと前からマーキングしていた特別な日。
この日のために、忙しい九音に負けず劣らず私も頑張って準備をしてきた。
「それで人払いを。てことはもしかして……」
キョロキョロと辺りを見回す先輩に、私は苦笑してしまう。
「ヴァイオリンは仕込んでいませんよ。毎回ヴァイオリンの生演奏では芸が無いじゃないですか。それとも、そのほうが良かったですか?」
「お、俺的にはそれでも全然オッケーなんだけど……」
図星を突かれてバツが悪いのか、モジモジしながらそんなこと言う。かわいい。
「まあそれはまたの機会にして、さっそくプレゼントお渡ししますね。あんまりゆっくりしてると会長達来ちゃいますから」
鞄から小さなプラスチックケースを取り出してみせる。
「それがプレゼント?」
ケースに収まるのは一枚のCD−ROMだ。この中に今の私のありったけを詰め込んだ。
「はい。中身は音楽データです。ぜひ聴いてみてください」
生徒会のデスクトップパソコンを立ち上げ、CDを読み込ませる。
「どうぞ」
家から持ってきた私のヘッドホンを繋いで先輩に差し出す。
「あ、ありがとう……」
先輩がパソコンの前に座り、おずおずといった感じでヘッドホンを装着する様子を確認し、メディアプレイヤーを開く。
「それでは再生しますよ」
先輩が首肯したのを見て、一曲目のデータを再生する。
正直、先輩がどんな反応を見せるのか期待と不安でいっぱいだ。少し緊張する。
私には聴こえないけど、ヘッドホンからはもう音楽が流れているはずだ。
「これは『美しく青きドナウ』の……ピアノと弦の合奏? え、もしかして誰かとアンサンブルしたの?」
「いいえ、これは私の演奏の多重録音です。何本も録音したものを合成しています」
「多重録音! へえ、そういうのもあるのか……」
ネット上で音楽活動をしている人なら割とメジャーな手法だけど、先輩は初耳だったらしい。
メジャーな手法とはいえ、多重録音は私にとっては初の試みだった。
録音して編集するだけと言ってしまえばそれまでだけれど、まず曲をピアノとヴァイオリン用に編曲し直すところから始めたので、いきなり大変だった。こだわればこだわるほど沼にはまっていく感じ。
この『美しく青きドナウ』なんて、ピアノは連弾、ヴァイオリンは四人編成になってしまった。たくさん楽譜を書き下すことになってしまったし、六人分のパートを全部一人で練習しなければならなかった。
ピアノの録音はうちの電子ピアノから直接出力できるからいいとして、ヴァイオリンの録音は一苦労だった。
まず貯金を崩してハイレゾ対応のレコーダーを買ってきた。それはいいとして、問題はスタジオだ。
収録するなら秋谷さんちの防音室がベストだけれど、先輩へのプレゼントなので収録現場を見れらるわけにはいかず、先輩がサイクリングで留守にしている隙を狙って泉美の手引きでお邪魔して一気に録音したり、それでも録りきれなかった分は身銭を切って貸しスタジオで録音した。
「美しく青きドナウを選んだのは、やっぱり〈美青ドナ〉からだよね」
「はい。先輩のための音楽ですからね。前世が〈那イル〉ってことは河川がハンドルネームの由来なんですよね。先輩の本名、大河ですし」
「うん。この曲のモチーフになったドナウ川はかなり立派な河川だからね。曲としては個人的に『モルダウ』のほうが好きなんだけど、モルダウ川よりドナウ川のほうが大きいからこっちにしたんだ」
モルダウも川がテーマのクラシック曲である。ちなみに、この川の名前は母国語呼びだとヴルタヴァ川で、モルダウはドイツ語呼びだ。
「惜しいことをしました。モルダウも録ったほうが良かったですね」
「大変だろうしそこまでしなくても……。でも聴けるなら聴いてみたいな」
「任せてください! 後日追加しますね」
「ありがとう。でもすごいねこれ。独奏が悪いわけじゃないけど、合奏になるとめちゃくちゃ綺麗だ……。それがこんなにいっぱい……」
私が用意した曲は美しく青きドナウだけではない。過去に演奏してみせた中で独奏じゃ物足りないなと感じたものを中心にいろいろ収録している。『春の声』とか『田園』とか。
「あ、『カノン』もあるんだ」
「はい。やっぱりこれは外せませんので。自信作です」
「編成は?」
「原曲リスペクトでヴァイオリン三重奏とピアノです」
こちらは基本的には普通に売ってる楽譜そのままで演奏した。多少のアドリブアレンジは入れているけどね。
「いいね。よし、それなら聴いてみよう」
プレイリストからカノンを選択し再生すると先輩は目を閉じ、瞑想するかのように音楽の世界へと没入した。
生徒会室は再びしんと静まり返る。
ヘッドホンからの音漏れも、身じろぎの音もなく、呼気の音すら聞こえてこないほどの静寂。
しかし先輩が音楽を再生した瞬間から私の頭の中でも音楽が流れ始めている。
確証はないけれど、たぶんちゃんと同時に流れてるはず。私はテンポの感覚に自信があるのだ。
ほら、その証拠に私の頭の中の音と先輩の呼吸のペースが一致してる。
両手で両耳のヘッドホンを押さえた格好で固まったままの彼の横顔を、私は隣で眺める。
体格に比して大きな手、尖った喉ぼとけ、意外に長いまつ毛。見ていて飽きないなぁ。
彼の唇の形が柔らかく緩む。音を楽しんでいる時の表情だ。
よかった。気に入ってくれたみたい。
そう思ったときだった。
ほろり。
ほろりと、涙の雫が、先輩の頬を伝って滴り落ちた。
「せん……ぱい……?」
「え……あれ、俺、どうして……」
自分でも気づかなかったのか、先輩は動揺した様子で目元を拭う。
「だ、大丈夫ですか……? 私の演奏、変なとこありましたか?」
「大丈夫……大丈夫。変なとこなんてない。すごく良くて……和音が綺麗で、すごくて……あれ……?」
ほろほろと湧き出す涙を止められない先輩が見ていられず、私は後ろから彼の頭を抱きしめた。
それで少し落ち着いたのか、彼はゆっくりと体を弛緩させた。
「ああ、そうか……。思ってたことが、あるんだ。君はいつもひとりで弾いていて、俺だけのためにいつもひとりで……。音楽は誰かと合奏したっていいのに、俺ばっかり独占して。俺が君の芸術の可能性を狭めていないかって……。でも君は、俺が思っていた以上に自由で、自在で、無限の可能性を持っているんだね……」
いいえ、先輩。そうじゃありませんよ。
私自身はそんな大それた人間じゃありません。
私が自由自在に音を楽しめるのも、より高みを求められるのも、先輩あってこそなんですよ。
「美しい……最高に美しいカノンだったよ。涙が出るほどに」
ああ、幸せだ。
それほど真摯に美術と向き合っている先輩だからこそ。
ありのままの、天衣無縫の感受性で美を見つめる貴方だからこそ。
私は貴方に恋をしたのだ。
「先輩、ありがとうございます。十九歳の誕生日、おめでとうございます」
ハッピーバースデー。私の愛しい人。
【筆者注】
深く集中してカノンを聴いているとき、不意に涙が出そうになることが稀にあります。
どうしてなのでしょう。
とても不思議な名曲です。私は大好きです。




