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スイミング欲

作者: 村崎羯諦

「人間には三大欲求というものがあります。食欲、性欲、そしてもう一つがスイミング欲です。これらはいずれも人間が生きていくのに必要不可欠な欲求であり、決して恥ずかしがる必要はないんですよ?」


 医者は目の前に座る患者にできるだけ優しく語りかける。それでも、カウンセリングにやってきた中年男性は落ち着かない様子で、両手を小刻みに動かしながら、目を泳がせていた。


「もちろんわかっているんです。ですが、川や海、ひどい時なんかは道にできた水溜りを見るだけでスイミング欲がむくむくっと湧いてきて、気がついたら水の中に飛び込んでしまっているんです。その衝動的な行動のせいで、会社はクビになり、家内には逃げられ、人生はめちゃくちゃです! 先生なら……先生なら僕の気持ちをわかってくれますよね!?」

「なるほど……よくわかりました。お薬を処方しておきましょう。お大事に」


 医者はカルテに重度のスイミング依存症だと書き記す。次の方どうぞ。医者の呼びかけと同時に診察室の扉が開き、若い男性が入ってくる。


「どういったお悩みで?」

「なかなか人には理解してもらえないんですが、昔から段差や溝を見るといてもたってもいられなくなるんです。普通に登ったり、回り道をすれば良いのに、どうしても勢いよく飛び越えたくなってしまう……。そのせいで足はボロボロで、将来を有望視されていた陸上の選手生命も絶たれてしまいました。先生! 僕はなんでこんなことになってしまったんでしょう!?」

「きっと幼少期に受けた性的外傷などのトラウマが原因なんでしょう。フロイトの著作でも読みなさい」


 患者が出て行き、医者はカルテに強烈なジャンピング欲という言葉を記す。そして、次の方という言葉を待つまでもなく、次の患者が診察室に入ってくる。


「どうされました?」

「サラダ……。サラダ……。サラダ……。サラダ……」

「ええ、ええ。それはお辛い経験でしたね。ゆっくりと時間をかけて元気になっていきましょう」


 看護師に支えられながら患者が診察室を出ていく。医者はその患者を見送った後で、カルテにドレッシング欲と書き記した。


「先生、雑誌記者の方がいらしてます」


 看護師からそう呼びかけられた医者は着替えることなくそのまま診察室から、応接間に移動する。ソファには若い記者が座っており、二人は立ち上がって挨拶と名刺を交わした。


「人間の様々な欲望に焦点を当てた診療をなさっている先生にお聞きしたいです。人間の欲望についてどのようなお考えをお持ちでしょうか?」


 医者はこほんと咳払いをし、記者に語る。


「欲望という言葉自体に、世間一般ではマイナスのイメージを持たれる方が多いと思います。ですが、私は欲望こそがその人の人格を形成し、多種多様な欲望こそが人間の深み、多様性を築き上げているのだと思っています。だから、私は医者として診察にはあたってはいますが、もっとみなさんには欲望にもっと忠実になって良いんだと訴えたいですね」


 なるほど。記者は感銘を受けた表情で力強く頷いた。


「ありがとうございます。それでは最後にもう一つだけ質問なのですが……どうして、先生は白衣ではなく水着姿なんですか?」


 医者は微笑み、恥ずかしそうに自分の海パンに目をやりながら、説明する。


「世の中には色んな欲望があるんですが、欲望には優先度があるんです。例えば、お腹が減ってしょうがない時は、承認欲求とかよりも食欲が勝つでしょう? 私が水着姿なのはつまり、そういうことなんです」


 本日はありがとうございました。インタビューが終わり、記者は医者に丁寧にお礼を言ってから部屋を出ていった。医者はふうっと小さくため息をついた後で、机の上に置かれた水のペットボトルへ視線がいく。そして、むらむらっと自分の中で欲求が強くなるのがわかる。


 医者はペットボトルの蓋を取り、フロアタイルの床に水をこぼしていく。それから、床にできた小さな水溜りをうっとりと眺めると、そのままその水溜まり目掛けて、勢いよく飛び込むのだった。

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