朝顔の観察日記 CASE.08
平成K・Y
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07月30日
たねをうめてなかったのにめがでてた。
08月10日
めがのびていた。
08月20日
しらべたらたべられるとわかったからそのままにした。
08月30日
ぬいてたべたらおいしかった。
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この文言の通りだろう事はプランターに何も残っていなかった事からも理解は出来たが、それを許す親の感性そのものにも不安が過ぎる件である。
聞けばハツカダイコンだったと言うが、そもそもどうしてそこに種が蒔かれたのかは一番の謎ではあるものの、推測するまでもなく親だろう事は言うまでもなく。
個性の尊重を謳うまともな連中の中に、個性的な事を得意気に乱用する者が入り込み出した倫理観が壊れ始めた時代に、間違った個性を発揮する親の典型例だった。
凡そオオカミ少年気質なそれは、街に猿が熊が鹿が猪がと山から出て来た野生動物のニュースに感化され、山に車で何かを捕まえ連れて来ては街で放して動画を撮り、ネットやメディアに上げて話題をさらえば悦に入るような、困ったクズの先駆けにも思える話でもある。
あの手の親の……いや、大人が平然と噓を吐き知らぬ存ぜぬをやる姿を一度見れば世の中の時事に疑念をもって対応するのが正解だろうと理解させられる。
故に昔から云われる【知らぬが仏】や【信じる者は救われる】それ等が現実の間違いを見てみぬふりをする為の処世術のようにも思えてしまえば、この国の世も末話に繋がるような、歴史に見る飢饉と変わらぬ現代社会の貧困問題を間近に見ながら覚える社会の授業は子供達に何を学ばせるのかとさえ……
飢餓に乗じて庶民の中に入り込み社会に巣食う餓鬼の絵を観て、学べる者は己を律するが、学ばぬ者とは既に餓鬼なるガキである小鬼が多い。
教えを説く社会の歴史なんてものは己を律する事の出来る者への希望であると、既に歴史が物語っているようなものだと気付かされた。