喪失
柔らかな陽だまりのような光に、言い知れない喪失感が胸に落ちた。息を呑むほどに美しい光景への憧憬とそれを手に入れられないことへの絶望、そして諦めが入り混じりナギはその場に立ち尽くすしかない。
彼女を二度も失うことなど許せないと怒りと焦燥のままに魔物に変えようとしたが、最早それも叶わないだろう。
死にかけて苦しいはずのユーリの顔には慈愛に満ちた笑みが浮かんでいて、魔物には毒である聖力を与えられているスイもまた苦痛ではなく、穏やかな表情でユーリを抱きしめている。
それが永遠に自分には向けられることがないと理解させられるには十分で、壊したいぐらい腹立たしいはずなのに、邪魔をする気になれないのが不思議だった。
代わりに胸がつまるような、どこか息苦しいような感覚が落ち着かず、だけどそれを排除することにも躊躇いを覚えた。
(これは一体なんだろう……いや、それよりも)
不意に光が途切れ、二人の元へと向かう。先ほどと同じように満ち足りた表情で寄り添っているが、その身体は微動だにせず二度と目を覚ますことはないのだと分かる。
「……嫌だな」
無意識に手を握り締めて、小瓶の存在を思い出す。
(女神からの贈り物だとユーリは言った……)
創造主たる女神は自ら作り出した世界に顕現することは滅多にない。神は神なりのルールがあり、一度手放した物に介入するのは摂理に反することだと聞いたことがある。それでもユーリの意識に直接働きかけ物を与えたのは、彼女が女神の愛し子でありナギの聖女だからだろう。
背後から重い足取りが聞こえるが、攻撃を仕掛ける気配がないので無視していると声が掛かった。
「どうか……これ以上彼らへの手出しはお止めください」
懇願する声に心が動くことはなかったが、その言葉に別の方向に思考が逸れた。振り返ればクラウドが立っていたが、顔色が土気色で今にも倒れそうだ。
(ああ、そうか)
外見は無事でも魔力による圧迫で中身が損傷したのだろう。先ほどスイを排除するときに振るった力の巻き添えも幾分かあったのかもしれない。
「これあげる。女神からの贈り物らしいから、運がよければ生き延びるかもね」
小瓶を無造作に放り投げ、ナギはそのまま王都から姿を消した。
「せっかく私が慈悲を与えてあげたというのに、何て子なの!」
苛立たしげに水鏡を消滅させたディミアスは、それでも収まらない怒りに傍にあった水晶を地面に叩きつける。粉々になったそれは人に差し出せば、聖力を含んだ鉱物として重宝される代物だったが、今のディミアスは人に慈悲を与えるほど寛大な心を持ち合わせていない。それどころか己の意思に反した子どもと同じ人間に罰を与えてやろうと嗜虐的な気分だった。
「ユーリの魂はどこにある?」
突然聞こえた声にディミアスは目を瞠ったが、声の持ち主を認めるとその表情が花開くかのように甘く綻んでいく。
「ナギ、私の愛しい子。会えて嬉しいわ」
それは紛うことなく本心からの言葉だったが、頭の片隅で僅かに警戒する気持ちが芽生える。自分の力を惜しみなく与え作った大切な魔王ではあったが、自分の領域に無断で立ち入るのは不作法であり望ましいことではなかった。
「僕の聖女をどうした」
無機質な瞳の中に覗く執着に苛立ちが蘇ってきた。自分を裏切った聖女など不愉快な存在でしかない。
「もっといい子を見つけてあげる。そうだわ、当代聖女と言われているあの子も貴方の魔力に耐えられるはずよ。純粋で優しい子だから今度はちゃんと貴方に相応しい——」
「僕の聖女はユーリだけだ。いい加減に質問に答えてくれない?」
冷ややかな口調でナギはディミアスの言葉を遮った。
自分に背いた聖女を求めるのは侮辱であり裏切りだ。怒りの気配を纏わせて睨みつけるが、ナギは顔色を変えないどころかその瞳には見下すような色が浮かんでいる。
「……誰が貴方を作ったか忘れたのかしら」
低い声音と共に魔王の魂に介入しようとしたとき、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。
「えっ……」
ディミアスは視線を下げ己の胸を貫く腕を見つめるが、状況が理解できずただ茫然としていた。
「人の運命に介入したことでどれだけ力を費やしたか気づいてなかったようだね。今の状態でどちらが上か理解できたかな?」
心臓を掴まれてディミアスの口から苦痛の声が漏れる。
(そんな——!あり得ないわ!!)
自分の創造物に我が身を害されることも、その力が上回ることもディミアスは想像したこともなかった。
一方で自分の血がとめどなく溢れていくのを見て、この場の生殺与奪の権利はナギにあるのだと認めざるを得ない。
「……私の可愛い子。私はちゃんとあの聖女に言い聞かせたのよ。それなのに貴方を拒んだから、もうあの子の魂は私の手から外れてしまっているの」
凍り付くような瞳だが、かつて心を寄せた神の面影がナギにははっきりと残っている。魔王を作るときにその造形を模したのは愛しさと憎しみが募った結果だ。
「私と一緒に生命を作りましょう?そうしたらあなたの望む聖女が生まれるかもしれないわ」
潤んだ瞳には異性を誘う欲がよぎり、優美な指先がナギの胸元に触れる。
「――っああああああ!!」
激痛が走りたまらず絶叫を上げるが、痛みは止まることを知らずディミアスは必死に懇願するがナギの表情一つ動かさない。
意識が遠のきかけた時、ようやく苦痛から解放された。
「僕の望みはユーリだけだ。お前の運命から外れたのなら、取り戻せばいいだろう。彼女が再び生まれ変わるまでお前には僕の命令に従ってもらう」




