後悔
唐突な問いかけに気を取られかけたユーリだが、騙されまいと少女を抱く手に力を込めた。好条件を餌に唆そうとするのはナギの常套句だ。
だいたい殺さなくても死なない程度に苦痛を与えたり、尊厳を損ない精神的に追い詰めるなど、ただ死ぬより残酷なことはいくらでもあるだろう。
迂闊に答えれば余計な言質を取られかねないと無言を通すユーリを、ナギは感情の読めない表情で静かに待っている。
しばらく膠着状態が続いたあと、ようやくナギが言葉を発した。
「ユーリ、僕が君に固執した理由は不愉快な物だったけれど、君の傍にいることは嫌じゃなかったんだよ。僕は——」
不意に言葉が途切れたかと思うと、ユーリとナギの間を裂くかのように半透明な壁が出現した。
「ユーリ、動けますか?」
そんな場合ではないのにその声を聞いた瞬間、目頭が熱くなる。
「……ああ、大丈夫だ」
いつもの穏やかな笑みは固い表情に変わっていたが、その眼差しは確かにユーリを案じる気配があった。
「その子と共に当代聖女の元へ行きなさい」
視線の先を辿れば門の近くに当代聖女が沈痛な面持ちで立っていた。そのことに疑問を覚えたが、クラウドは少しだけ表情を和らげてユーリを促す。
「貴女を疑ってすみません。――あまり時間がないので早く」
クラウドから離れることが躊躇われたが、少女を庇いながら戦うことはできない。ましてや少女はすっかり怯え切っていて一人で立つこともできないだろう。
ユーリは少女を抱えると、全速力で当代聖女の元へと運んだ。
「魔王に命を狙われている。私が言えた義理ではないが、守ってやってくれ」
口早に告げながら少女を託し、戻ろうとするユーリを引き留めるかのように当代聖女は手を取った。
触れた場所から温もりが伝わり、全身が心地よい安らぎに満たされていく。ユーリには聞き取れなかったが、小さな声で詠唱し癒しの術を掛けてくれたのだと分かった。
痺れが消え、驚いたことに聖力までもが回復したような感覚を得て、当代聖女の実力を再認識する。
「助かった」
礼を言うユーリに当代聖女は申し訳なさそうな表情を崩さずに、首を横に振った。
「この子を、皆を守ろうとしてくれてありがとうございます。ですが……わたくしに、わたくしたちに出来ることはここまでですわ。他の者を気にせず、貴女はご自身のことだけを考えて行動してくださいませ」
突き放すような言葉にユーリは困惑した。クラウドが駆けつけ、当代聖女が癒してくれたことで助力を得られるのだと思っていたのだ。そもそも総本山である大聖堂の目と鼻の先に魔王が現れたにもかかわらず無視することなどありえないだろうと——。
ユーリの疑問を読み取ったかのように当代聖女は、言葉を紡ぐ。
「今、魔王と事を構えるのは時期尚早というのが教会の判断ですわ。クラウド様は、その決定を聞いて、教会と決別することを選びました。あの方は、貴女が二度も魔王に殺されることなどあってはならないと——だからどうか逃げて」
当代聖女の言葉が終わらないうちに、ユーリは駆け出していた。足手まといにならないようにと離れたのは勿論だが、准枢機卿であるクラウドが単身で魔王に挑むなど考えてもみなかったのだ。
その地位にあれば当然傍にいるはずの護衛や祓魔士たちが姿を見せないのは、理由があってのことだと当然のように考えていた。
(どうして……)
権力に固執する性格ではなかったが、その地位を捨ててまでユーリを護る理由などないはずだ。ほんの僅かな距離なのにもどかしいほど遠くに感じながらユーリはクラウドの元へと向かう。
「また邪魔をするのか」
皮膚が粟立つほどの凍てついた声と危うい光を孕んだ瞳にクラウドは息苦しさを覚えたが、平静を装って声を振り絞る。
「私はあの子の後見人として、守る義務があります」
感情を削ぎ落したような能面はますます冷やかさを帯びていく。力量の差は明らかで魔王が望めばあっさりと殺されてしまうのだという確信があるが、まだ手を出されないところを見ると何か思惑があるのかもしれない。
「どうやってユーリを懐かせたか、それだけは聞いておこうかな」
気まぐれのように事も無げに発せられた言葉だが、どこか執着を感じさせる声にクラウドは急いで考えを巡らせる。回答を間違えた途端に死は避けられず、更にはユーリも危険に晒してしまう。
ひたすらに力を欲する変わり者の少女は、クラウドにとって大勢いる弟子の一人にしか過ぎなかった。だが彼女の過去を知ってから気づけば後悔ばかりしている。
魔王の存在が希薄になるにつれ、魔物の脅威を感じにくくなっていた。地方では未だに魔物による被害が少なくないにもかかわらず、安全な場所で数字だけを見て判断していたのはクラウドたちで、それは教会の怠慢と驕りであった。
そんな中ユーリは来たるべき時に備えて、辛く苦しい鍛錬を積み着実に力を付けていた。誰にも前世のことを告げることもなく、周囲の奇異な視線や嫌がらせに晒されながら。
かつてその身を犠牲にし、今世でも再び魔王に狙われる数奇な運命を辿る少女を助けてやりたい。それはクラウドにできるせめてもの罪滅ぼしだった。
それがたとえ女神の神託に反することになっても構わない。
(もしも魔王がユーリに執着する理由に好意が含まれているのなら……)
「私は彼女に何も望みませんでした。ただそれだけです」
執着が深ければ深いほど相手を意のままにしたいという欲求が強くなる。少しでもユーリが魔王から逃れられるようにと願い、口にした答えだった。
「ふうん、全然参考にならないや。もういいよ」
ずしりと重い魔力が身体にのしかかり、首に何かが巻き付いて喉が圧迫される。呼吸ができず意識が遠ざかりそうになる中、必死に自分の名を呼ぶ声が聞こえた。




