問いかけ
身体に力が入らないユーリの両手にナギは魔力で創り出した手枷を嵌める。
「……離せ」
絞り出した言葉にナギは冷たい笑みを浮かべ、ユーリを抱きかかえた。
「いい子にしていたらご褒美をあげるよ。ああ、それからもうこれは要らないね」
無遠慮に襟元に手を差し込まれたかと思うと、何かが引きちぎられる音がした。
(まさか……)
軽やかな音を立てて地面に落ちたのはスイから預かったコインだ。思わず目で追うユーリに見せつけるかのように、それは炎に包まれるとあっさりと溶けて原型をなくしてしまった。
「もっとユーリに似合う物を準備させるからね。ふふ、楽しみだな」
ユーリを横抱きにしたまま軽やかに跳躍して、ナギは屋根を足場に移動を続ける。
抗いたくとも全身が痺れていて、指1本上手く動かすことができない。唯一何の制限もされていない聴覚だが、遠くから聞こえてくる悲鳴や破砕音にもどかしさが募る。
「さあ、着いたよ。ちゃんといればいいけど、いなくても来るように仕向ければいいだけだよね」
楽しそうな声で告げられるが、顔も動かせない状態ではここが何処なのか分からない。不意に顎を摑まれ、顔の向きを変えさせられたユーリは目を見開いた。
象徴的な消灯と荘厳で静謐な佇まいの建物——教会の総本山であるディアナータ大聖堂だ。門の前には避難のために大勢の一般人が押し寄せている。
突然の魔物の襲来に常時結界が張られている大聖堂を目指したのは無理もない。だが別の側面から見れば、多くの命を奪うのに適した状態ともいえる。
(くそっ、早く動け!)
自分自身に癒しの術を掛けられないことがもどかしい。ナギが望めば一瞬でこの場は惨劇の舞台となるのだ。笑いを含んだ声は甘やかで不穏に満ちている。
「邪魔にならなければそのままにしておいてあげる。だけど、先触れは必要かな」
明らかに教会関係者と分かる黒の祭服を纏い、門の前で誘導を行っていた男がこちらに気づくなり驚愕の表情を浮かべる。
ナギが高位の魔物であることに気づいてしまったことがその男の最大の不運であり、それが災厄の始まりだった。
風が空を切る音がして、黒の祭服を着た男たちが一斉に崩れ落ちる。本人たちも何が起きたか分からないように目を丸くしていたが、立ち上がろうと力を入れようとするが足首から先がない。
一瞬の沈黙の後に絶叫が響き渡ると、瞬く間にその場は恐怖と混乱に陥った。我先に教会内に入ろうと狭い門に殺到する。
幼い子供や非力な女性が人混みで圧迫されて、苦痛の声を上げるが気遣う余裕もない。列の後方に並んでいた人々は何が起こったか分からないものの、恐怖は伝播し最早順番などお構いなしに列に割り込んだり、門壁にしがみつき侵入を試みる者もいる。
「醜悪だね。いっそ全部燃やしてしまおうかな」
誰のせいだと内心毒づきながら、ユーリは冷静になろうと努めていた。ナギの目的は当代聖女をおびき寄せることだ。教会内にいればすぐにこの状況が耳に入るし、不在であれば大量虐殺か大聖堂への破壊活動を行い、当代聖女が来ざるを得ない状況を作るのだろう。
(当代聖女の聖力は必要だが、その前に私自身が使い物にならなければ意味がない)
ユーリの最大の強みはナギが自分を殺すことが出来ないという点に尽きる。誓約時に殺さないという条件は他者にも当てはまるが、『攻撃されない限り』という縛りは解釈次第でどうとでもなる気がした。
魔王自体は手を出さなくても他の魔物に命じることもできるだろう。その点はユーリに関しても同じだが、これだけ時間と手間を掛けて他の魔物に殺させることはないとユーリは踏んでいる。
「ただ待っているのもつまらないし、少し遊ぼうか」
ナギの言葉とともに身体に付きまとっている倦怠感と痺れが和らいだ気がした。
「少し動けるように調整したんだ。――いい子だね、おいで」
その呼び掛けにぎくりとして周囲を見渡すと幼い少女がうっとりした表情でこちらに近づいてくる。
「っ、止めろ!」
突き飛ばすようにナギの腕から逃れると足元がふらつくが、立っていられないほどではない。それでも恐らく剣を振るうには満たない程度の回復しかしていないだろう。
少女を確保すべく動いたユーリにナギは愉快そうな表情を浮かべる。
「その子と門の外にいる連中、どちらかだけ生かしてあげるよ。どっちがいい?」
その言葉が届いたのか、焦点が定まらない目をしていた少女が我に返ったように呆然とした表情を浮かべたかと思うと、たちまち瞳に涙を浮かべて恐怖のためかへたり込んでしまう。
悪趣味な暇つぶしにユーリは唇を噛みしめた。幼い命と大勢の命、どちらか片方だけ選べるものではない。だがユーリが選ばなければナギはどちらも奪おうとするだろう。彼にとってはただの気まぐれであり、当代聖女が現れるまでの退屈しのぎでしかない。
(時間を稼ぐには、そうすべきなのだが――)
自分が出した答えを口にだすことを躊躇っていると、思いがけないところから声が聞こえた。
「お姉ちゃん、みんなを助けて。あっちには私より小さい子もいたの。……悪いことしてなければ女神さまのところに行けるから大丈夫だもん」
怯えていたはずの少女は震える声で、だがしっかりとユーリの目を見て自分が犠牲になることを申し出たのだ。
どれだけ勇気が必要だったか、どんな思いで言葉を紡いだのか。考えれば胸が熱くなり、これまで感じていた人への不信感とわだかまりが解けていくようだった。
裏切られることに疲れていた心に、少女の言葉は深く沁み込んでいく。
「あっちの連中には手を出すな」
「おや、意外と早かったね。じゃあそこをどいて?」
ナギの言葉よりも早くユーリは少女を抱きしめる。どのみち満足に動けはしないのだからせめて致命傷になりそうな場所を自分の体で覆い隠した。
動けなくても声さえ出せれば聖力は使えるのだ。ナギが少女を傷付けることを止められなくても死なせないように癒しの術を掛けることは出来る。
ユーリの行動に鼻白んだようにナギは嘆息した。
「何でそんな子供を庇うのかな。何だかとても苛々して不愉快だね。楽に死なせてあげないし、ユーリだって無傷ではいられないよ?」
腕の中の少女が怯えたように身じろぎしたが、殺されると分かっていて解放する気にはなれなかった。
「お前がつまらない嫌がらせをしなければ、庇う必要もなかったんだから自業自得だ。不機嫌な理由も分からないくせに八つ当たりをするな」
しっかりと声が出たことに内心安堵してナギの出方を窺うが、口元に指をあてて何やら考え込んでいるような素振りを見せる。
今のうちに逃がしてやれればと思うものの、下手に動いて刺激するわけにもいかない。
「ねえ、ユーリ」
静かな声で呼び掛けられて嫌な予感しかしない。こちらを見る金色の瞳はどこか儚げで危うい気配を孕んでいた。
「ユーリが僕だけの物になるのなら誰も殺さない、そう約束すると言ったら君はどうする?」
思いがけない問いにユーリは大きく目を瞠った。




