29 幸せに満ちた場所
翌朝、まだ日が昇る前にユーリは目を覚ました。睡眠をとったおかげで心身ともに昨日よりはましになったと感じる。当面の間、森に留まることを決めたユーリは食料の確保と野宿に適した場所を探すことにした。
ナギはユーリが採取する山菜を興味深そうに見ているが、手を出すことも口をだすこともしない。観察されていることに気づいてはいるものの、ユーリもまた何も言わなかった。
(まだ悟られては駄目だ。私ができる唯一のことを)
この世界は優しくない。だけどそれを諦める理由にしたくない。
奇妙に静かな時間が流れて喉の違和感も薄れた頃、それは起こった。
魔物の気配に剣を構えたユーリはそれを目にして僅かに顔をしかめた。イノシシに似た姿の魔物に追いかけられている少年が必死の形相でユーリのほうに走ってくる。
人と関わりたくないユーリだが、見殺しにするわけにはいかない。覚悟を決めて剣を握り締めてユーリは駆け出した。
「ありがとうございます!お姉さんがいなかったら、俺……」
少年―レイは興奮した様子でユーリに輝かんばかりの瞳を向けている。その純粋な瞳がまぶしくてユーリは目を逸らして言った。
「早く帰れ。いつまでもこんなところにいると、また襲われるぞ」
幸いなことにナギはこの場にいなかった。地道に山菜や薬草を摘む作業を見ているのにも飽きたのだろう。気づけば姿を消していた。
必要以上にきつい口調で告げたのは早々に立ち去らせるためだったが、レイが悲しそうな顔をしたのはユーリの言葉のせいではなかった。
「薬草が、妹の治療に必要で、俺は兄ちゃんだから―」
病気の妹のために魔物が出る森に薬草を取りに来たのだと告げるレイに、ユーリはため息をつく。
「それでお前が死んだら元も子もないだろう。この中から探してなければ、諦めて帰れ」
自分の摘んだ薬草の山を指し示すと、レイは真剣な表情で目当てのものを探し始める。
「あった!!お姉さん、本当にこれ俺がもらっていいの?」
「いいよ、君が対価を払うならね」
了承の言葉を口にする前に、涼やかな声に邪魔をされた。
「レイ、対価などいらない。さっさと帰れ」
「魔物から守ってもらった上に貴重な薬草までもらって礼の言葉だけで済ませるの?君が寛容だとは知っているけどね」
そんなやり取りをされてレイは帰るに帰れないようだ。妹想いの優しい少年がその言葉を発するまでに時間はかからなかった。
「あの、良ければうちに来てください。大したお礼はできないけど精一杯おもてなしします!」
「いらん、帰れ」
「ユーリが行かないのなら、僕だけでも行こうかな?」
間髪入れずに返事をするユーリの言葉にナギの言葉が重なる。
笑顔の中には圧がありナギは本当にそうするつもりなのだと察した。気まぐれなナギを自由にさせても何も起こらないかもしれない。むしろユーリがいるほうが無用なトラブルに巻き込まれる危険が減り、安全なのかもしれない。
そう思ってもユーリは一緒に行くことを選択した。
自分の手が届くのに伸ばさなかったことを後悔することが嫌だったからだ。
ユーリの不安に反して、レイの家族は温かく迎えてくれた。レイの両親と祖父からは何度も感謝の言葉を告げられ、心づくしの料理が机の上に並んでいる。レイの妹の容態も落ち着いたと聞けば悪い気持ちはしない。
それなのに嫌な予感がするのは、この場所が幸せに満ちているからだろう。それを簡単に覆せる存在がユーリの隣にはいる。にこやかな笑みを浮かべ、優しそうな顔をしたナギは子供に対価を強要したことなどなかったかのように振舞っている。一人で森に行き魔物に襲われかけたことで叱責を受けそうになったところを、上手にとりなしたことからレイもまたナギに好感を抱いているようだ。
かつて両親と過ごした記憶がよぎり、早くここから離れたいとユーリは願った。
それなのにユーリはナギとともに提供された部屋の一室にいた。押しの強い父親と素直に感謝を告げるナギの前にユーリの声はなかったことにされた。
「今日ぐらいゆっくりベッドで休めばいいよ」
そのベッドですら一つしかない。大きめのベッドは二人で眠れるほどの広さはあるが、冗談ではない。
魔王が何を企んでいようとも、ユーリにできることは一つだけだ。静かな決意を胸に窓の外に目を向ければ、眩いほどに明るい月光にユーリは目を細めた。




