2 不安ではなく予兆
奥深い森の中、静寂を切り裂くような絶叫が響き渡った。絶望と恐怖に塗りつぶされた悲鳴は徐々に小さくなり、水が滴るような音や咀嚼音だけが残る。
仲間の無残な最期を見て、残された少年は目を逸らすこともできずただ固まっていた。魔物たちが食事に夢中になっている間に逃げ出さなければ自分も同じ末路を辿る。頭では分かっていても動いた瞬間、その鋭い牙や爪が自分に向けられるのではないかと思うと恐怖で身体が竦んでしまう。
びちゃりと湿った音を立てて少年の前に落ちたのは人肉の欠片。それに死を強く意識させられたせいか、気づけば森の中を駆けていた。荒い呼吸は自分のものか、それとも獲物を狙う魔物のものか分からない。ただ足を止めれば死ぬのだということだけは理解していたため、必死で足を動かしていたが―。
「うわっ?!」
太い幹の根に足を引っかけてしまい、盛大に転んでしまった。起き上がろうとする少年の前に獰猛な狼に似た魔物が鋭い牙を見せて立ちはだかっている。
「ひっ、あああ…」
「そのまま伏せていろ」
聞こえてきた冷たい声に従って頭を下げると、重い物がぶつかる音と複数の魔物の唸り声が聞こえてくる。恐ろしい時間は恐らく数分の出来事だったに違いない。辺りが静かになったころ、地面を踏む小さな音が聞こえて頭上から声が降ってきた。
「もう頭を上げていい。怪我は?」
恐る恐る顔を上げると、そこには凜とした表情の美しい少女が立っていた。まるで幻のようだと見とれていると、少女から信じられない言葉が飛び出した。
「おい、そこの阿呆。耳と口が付いているならさっさと答えろ。でないと置いて行くぞ」
まるで男のように粗野な言葉遣いと威圧感に少年は必死で謝罪し、少女の問いに答えたのだった。
集落に着くとティムは見知った大人たちに取り囲まれて、同情や心配の声を掛けられた。そんな中、ユーリと名乗った少女は表情を変えることなくすたすたと歩みを進める。集落の中でも少し立派な佇まいの家に着くと、中年の女性に出迎えられて客間に向かう。そこには集落のまとめ役である老人が待っていた。
「ご苦労だった。早速だが―」
「生存者は子供が一人だけだ」
少女は事実だけを端的に伝えた。老人は案内してきた女性に目配せをして席を外させると、少女は補足するように言葉を重ねる。
「魔獣の群れに襲われていた。4匹倒したけどそれ以上は分からない。生存者の保護を優先した」
「せめてもの救いだな。あの行商たちはもっと強く諫めておくべきだったが、今更というものだ。ユーリ、今日はもう休みなさい」
街道から離れた集落まで荷を届けてくれる行商たちが、森にある貴重な薬草の存在を知ったらしい。森の奥まで行かなければ魔獣と遭遇する可能性は低いと踏んで、次の目的地へ迂回する形で森に向かった。老人は危険だと忠告したものの、経営が芳しくないと深刻な表情で言われてはそれ以上介入することが躊躇われた。それでも不安が晴れず、修行のため集落に滞在しているユーリに声を掛けたのだ。
女性でありながら祓魔士見習いというユーリは、修行の代わりに魔獣討伐を行ってくれる貴重な存在だった。当初は魔獣を刺激して集落が襲われたらという不安もあったが、幸いそんな状況に陥らず、時折貴重な薬草や果実を採ってきてくれるためそれなりに良好な関係を築いている。もっとも人との関わりを苦手としているらしく、最小限の接触しかない。
感情を見せないユーリは冷たい印象を受けるが、そうでないことは今では分かっていた。先ほども手伝いの女を怖がらせまいと余計な情報を口にしない気遣いを見せた。
古い知人からしばらく置いてくれと用件だけ告げられた手紙を受け取って、老人は苦々しい思いを抱いたものだが、今や集落の人間と同じように大切な存在だと認識している。
(やはり魔物の動きが活発化している)
倉庫のような簡素な小屋に戻ったユーリは武具の手入れをしながら、考え事に没頭していた。以前からその兆候を感じていたが、魔獣が群れで行動しているのを目にしてその考えが間違っていなかったことを確信した。魔物が弱体化したと言われている昨今、その生存数も年々減少しているそうだが、ユーリは懐疑的だった。討伐する人間が減っているのに自然に魔物が減ることなどあるのだろうかと。
人里に出てくることが減っただけで、森や山の奥など人が立ち入らない場所で潜んでいるだけではないか。そんな考えを他人に告げれば一笑に付されるか、考えすぎだと諫められるだろう。それでも不安というより予兆を感じて鍛錬と称して森や山の様子を見る日々を送っていた。武具の確認をして大切にしまうと、ユーリは机に向かい便箋を取り出した。ユーリの後見人に報告だけはしておくべきだと思ったのだ。
手紙を書き終えベッドに入ると、あっという間に意識が沈んでいく。そしていつもの夢を見た。