第一章2話 【理不尽】
高校生になって、初めての夏休みが終わった。
不規則な生活が続いたせいか、久也は少し遅くに目覚めてしまう。強い睡魔に襲われながら、なんとか布団から起き上がり、目を擦る。
「おはよう久也、今日から学校か? 」
「おはよう悟、今日から学校だよ〜。でもまだちょっと眠いや」
隣から久也の親友である悟が声をかけた。ただ、親友といっても、あのバッタである。
夏休み中は毎日、朝から晩までお話していた。もちろん毎日餌やりや虫籠の掃除など、悟の世話は全て久也がこなしていた。今ではとても仲の良い親友になっている。
「とにかく顔洗ってくるよ」
「おう」
久也は悟にそう告げた後、洗面所に向かい顔を洗う。今日も家には誰もいない。
父はろくでもない人で、久也が生まれる前に家を出て行ってしまったらしい。母は朝早くから仕事に出かけている。
久也は歯を磨いた後、急いで服を着替えていた。どうやら朝食をとっている暇もないらしい。
ピカピカに仕立て直した制服に身を包み、カバンを持った。するとさっきまで勢いがあった久也の動きが急に止まった。
そして、
「はぁ、学校か……」
とため息を漏らす。
「どうした久也、やっぱり学校が嫌なのか? 」
「うん」
悟が心配そうに久也を見つめる。
久也は俯いたまま少し固まってしまった。
「時間がなくても少し食べてから行ったらどうだ。痩せすぎだぞ」
「ありがとう悟。でも時間ないし、もう行くよ」
「なんだ、悩み抱えたまま行っちまうのか? そんなに友達がいないのが寂しいのかよ」
「うん、、でももう行かなくちゃ」
そう言ってタンスの横に置いてあった姿鏡に映る自分を眺める。今日も自分の暗い見た目に嫌気が刺した。
「んーそうか。なら俺がついて行ってやるよ! そしたらちょっとは楽しくなるってもんだろ? 」
「え、いいの? どうしようかな、んーと、じゃあお願いしようかな」
久也の目に少し光が映った。
久也は急いで虫籠ごと悟を鞄に入れると、少し駆け足で玄関に行き、買ったばかりのピカピカの靴を履いて家を出る。
今日は日差しがとてもキツく感じた。それなのに学校の方角の空に、少しだけ分厚い雲が見えた。これは後々雨が降るかもしれないなと思う久也であったが、鞄に折り畳み傘があるので気にせず学校に向かった。
学校に着いた。朝のホームルームが終わると直ぐに体育館で始業式が行われた。
主席番号順に並び座って校長先生の話を聞いている途中、久也の前に並んでいる、制服を着崩したいかにも不良そうなクラスメイトが、久也の後ろに並ぶクラスメイトと楽しそうにお喋りをしていた。
不良と不良の板挟みに久也が居心地の悪さを感じていると、前のクラスメイトに睨まれてしまう。
「なぁ、お前邪魔なんだけど。後ろ行けよ」
「い、いや先生に怒られちゃうよ……」
「は? なにお前調子乗ってんの」
「い、いやそういうわけじゃ……」
恐怖に声が震える久也。だが真面目な彼には列を移動する事がとても罪なことに感じてしまい、固まったまま少しも動か事ができない。
「まぁまぁ落ち着けって智」
「え、」
前の不良が、久也の親友である悟と同じ名前だった事を二学期になって今更知った久也は、少し驚いた表情を見せる。ただ、驚きから漏れ出た声はかすれてしまい、誰の耳にも入らなかった。
「いやこいつ腹立つんだよ。言いたいことはっきり言わねぇし」
「こいつがはっきり物言えるわけないじゃんか。そんな睨んでやるなって」
すると、遠くから先生が、
「こらーそこ、なに喋ってんだー? 」
「ちっ」
後ろの人のフォローと先生の注意のお陰か、悟はイラつきながらもゆっくりと前を向く。後ろの人は久也の味方なのだろうか。名前は幸助というらしい。
始業式は、その後何事もなく終わった。その後教室に戻って軽く先生の話を聞くと、もう今日は解散らしい。
「じゃあ明日から二学期も頑張っていきましょう」
そんな先生の言葉と同時にクラス代表の号令がかかり、「さようなら」の合図でクラスみんなが一斉に動き出す。
けれど、久也は動かなかった。いや、動かずにいた。
やばいどうしよう……。
なぜか教室の前の扉には幸助、後ろの扉には智が待ち伏せしている。これじゃ恐ろしくて帰れない。
一旦席に座って意味もなく忘れ物をしたかのように机の中を覗き込む。
しかし、智達は一向に帰る気配がない。
そうこうしている間に、教室に残ったのは久也と智と幸助と先生だけになった。今日は掃除がないらしく、他の生徒はみんなすぐに出て行ってしまったのだ。
智と幸助はみんながいなくなったと同時に、僕の席まで近づいてくる。
「なんだお前ら、帰らないのか? 」
智は先生の声に反応し、顔の向きを先生の方へ変える。
「ちょっと教室使わせてもらってもいいっすか?すぐ帰るんで」
「まぁ構わんが。帰りに戸締りはしっかりな。あと、あんまり遅くはなるなよ〜」
「わかりましたー」
智が先生とそう話すと、先生は教室から出て行ってしまった。
急に、教室の温度が変わったような気がした。
さっきまで教室を照らしていた日の光がどんどん影になってゆく。そしていつの間にか、外は真っ暗になった。
智は椅子に座った僕を、見下ろすように立っていた。
「おい竹城」
僕の苗字が呼ばれる。だがさっきから手の震えが止まらないし、うまく声が出ない。
少しの間固まっているとみるみる智の機嫌が悪くなり、表情に怒りが混じる。
なんでこんな事になったのだろう。朝の僕の態度が気に食わなかったのかな。
「おい無視すんな!返事もできねぇのか! 」
「は、はいごめんなさいぃ」
震えまじりに出た僕の声は、少し裏返りながら教室に響いた。
「ぷっ、あははははは。もういいじゃん智。腹減ったし飯食いに行こうよ」
「いや、やっぱりこいつ朝から俺の事舐めてるわ。ちょっと待っててくれ幸助、すぐ終わる」
智は僕の胸ぐらを掴んで椅子から立ち上がらせ、手を離した瞬間に僕のお腹を持ち上げるかのように殴った。
ドンッ
まるで指で弾かれた虫のように吹き飛ばされた僕は、きちんと整頓された机や椅子を巻き込みながら落下する。
するとその瞬間、ピカッと教室が光った。その後、僕が地面に落下した時の何百倍もの音を立てながら雷が学校周辺に落下する。
そして、教室いっぱいに雨の音が鳴り響いた。
幸助は「このタイミングで雷ってまじかよ」と笑いながら僕を見ている。智は窓の外を見つめていた。
「もういいや、帰ろ。」
智はそう言うと僕に背後を見せて去ろうとする。すると、
「あ、傘忘れてた。」
と言って智は前の扉の側にある傘置き場をチェックする。一つも傘が置いてない事に少しイラついた後、折り畳み傘を探しに僕の鞄のチャックを開けた。
僕は親友の悟が入っている事を思い出し、急いで起き上がる。
「ちょっとまってそれ僕のだから! 」
初めて声を荒げた。そんな僕に構う様子もなく、智はバッタの入った虫籠を手に取る。
「これ、なに?」
「え、きも……こいつ学校にバッタ持ってきてんじゃん、、」
「やめてよ!僕の友達、返してよ! 」
「は?これがお前の友達? 」
「あはははははっ友達だって。智、そのバッタこいつの前で殺そうぜ! 」
「あぁ、そうしよう」
「や、やめてよ!悟を返して! 」
「あ? 」
あ、、完全に言葉を間違えた。このままだと悟が殺されてしまう……
「このバッタが俺と同じ名前だと……? 」
智が虫籠から悟を取り出す。悟はなす術なく、無言のまま机の上に放り出された。
「やめろぉぉぉ! 」
僕は精一杯の力を込めて殴りかかる。しかし横にいた幸助から蹴りをくらってしまい、また吹っ飛んでしまった。吹き飛んだ僕は、また机を巻き込みながら落下した。
「なにこいつ必死じゃん」
吹き飛んだ先でそれでもまだ諦めきれない僕を、幸助が見下ろしていた。僕も必死に智と幸助を睨んだ。
そしてもう一度殴りかかろうとしたその時、
「お前きもすぎ」
智はそう言いながら、机の上にいた悟を僕の鞄で擦り潰した。
「うわあぁぁぁぁやめろぉぉぉ!! 」
必死に智の服を掴み、精一杯の力で引っ張って悟を助けようとした。素直に智は擦り潰すのをやめてくれたが、その時にはもう、悟は死んでいた。
最後に悟の声が聞きたかった。
どうして最後、なにも言ってくれなかったんだ。
あ、いや、そっか。僕は最初から、悟と話した事なんて……
「さとるー!! 」
「だから虫に俺の名前つけてやじゃねぇぞ、このゴミムシが! 」
ドンッ
鈍い音が、頭に響いた。
涙でくしゃくしゃになった顔と、殴られてズキズキと痛む頭。その両方が今、久也のことを支配していた。
もう、死んでしまいたい。
そんな事を考えていても、智は久也を殴る手を止めなかった。明日先生にバレないようにするためか、お腹や背中を重点的に殴られ続けた。
それからどのくらい時間が経ったのだろうか。雨は強さを増し、教室を照らす日の光はもう随分と前から消えていた。
これだけ遅くなったのだし先生が教室に来てもおかしくないのだが、先生が教室に戻ることは一度もなかった。
智は久也をいじめるのに飽きたのか、久也の鞄から傘を手に取って帰ろうとしていた。
幸助は智が僕を殴っている間、適当な場所の机に腰をかけてただ笑いながら見ているだけだった。
「今日はこのくらいにしといてやる。それと、明日からお前をこき使ってやるよ」
そう言い残して帰って行った。
取り残された僕は誰もいない教室で気が済むまで泣いて、泣いて、泣き止んだら、自然と家に帰ろうとしていた。
頭に悟の事だけが浮かんでいた。本当は喋れない、ただのバッタである親友のことを思い出して、また泣けてきた。
話ができなくたって、悟は確かに僕の親友だった。本当に、親友だったんだ。
そんな事を思いながら、大雨に打たれて帰った。
もちろん、帰る前にきちんと教室の鍵を閉め、鍵は職員室に返しに行った。
その日の夜は話し相手がいないため、すぐにベットに横になった。
けれど、全然寝付けない。
ただ寂しいという理由だけで悟を学校に連れて行くんじゃなかった。全部、全部僕が悪い……。
そうやって自分を責めていると、悲しくなって涙が出てきた。
そのまま1時間が経過した。あまりにも寂しかったので少しだけ鉛筆と話した。
あまり気を紛らすことはできなかったが、それでも少しだけ気は楽になった。
結局眠りに着くのは、ベットに入ってから3時間後のことだった。