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個人的な話

これが私の病みです。

作者: オリンポス

1.


「ちゃんと書類に目は通したのか?」

 小川課長は口元に薄笑いを浮かべている。

 この顔は私のミスをあざ笑うときのものだ。


「はい、確認しました」


 それでも私は、「いいえ、確認しておりませんでした」などと言うわけにもいかず、怒られるための布石を順当に打っていくはめになる。蛍光灯の明かりが小川課長に濃い陰影をもたらして、それが一層不気味で、私はぎゅっと心臓をつかまれたような呼吸もままならない恐怖に耐えかねて視線を泳がせる。


 もう嫌だ。

 やめたい。帰りたい。


「まずね、君の班の赤坂。報告書を漢字で書いていないけど、これはどういうこと?」


 うちの班の報告書は手書きだ。

 それは他の班に比べて書類の作成が少なくて済むからだが、そうは言ってもパソコンが使えないのは手間だし時間がかかる。それにこのIT社会で育った若者の識字率は驚くほど低い。それこそ高卒生であっても小学生レベルの漢字しか書けない者だって多いのだ。


 それは教育の現場にいる友人からよく聞く言葉だったが、私は比喩だろうと思い込んでいた。

 しかしそれはまぎれもない事実だったのだ。


 高校を卒業したんだから大学院卒業レベルの知識くらい身につけておけよ。

 私は初めてその事実を目の当たりにしたときにはそう舌打ちしたものだった。

 だけど今はもう何とも思わない。

 そんなことは当人の問題だし、社会はそんなに甘くはないのだ。

 だから放っておいたのだが思わぬところでツケが回ってきた。


「はい、書き直しをさせます」

 陰鬱な感情を抑えながら私は頭を下げる。

 あのバカ坂のやつめ! ふつふつと怒りが込み上げてくる。


「次に山下。これが30歳の書く文章か。稚拙すぎて読むにも値しない」


 山下は私よりも年上の部下だ。

 転職を繰り返すうちに年月が経過してしまったらしい。

 彼の最終学歴は高等学校卒業だが、文書作成能力は中学生にも及ばない。

 基礎的な文法すらもできていないのだ。


 私も添削には手を焼いたが、まさか「主語と述語から教えていました」とは言えるはずもない。

 締め切りに間に合わせるためにはこの程度が限界だった。


「はい。書き直しをさせます」

 私の脳裏には、「まーた書き直しですか」と不快なにやけ面をさらす山下が早くも登場していた。小太りで社会的には役に立つ資格を有しているが、ここの部署ではその能力は何も活かせない。そんな無用の長物よりも実用的な資格を持つ者か、はいはいと言いなりになってくれる傀儡かいらいが私の好みだった。


「おお、長浜の書類はきちんとまとまっているな!」

「はい。私も鼻が高いです」


 長浜は教員免許を持っている人物だ。

 文系科目が得意で、得意科目は国語と社会だと言っていた。

 文章力だけならば私に一日の長があるが、総合的な学力ならば彼の方が上回るだろう。

 長浜は謙虚で従順で、真面目な社員だった。


 ふう、と小川課長がパソコンに目を向けたのを見逃さずに、

「それでは失礼します」

 私は一礼して逃げようとする。


「ちょっと待ちなさい」

 しかし小川課長はまだまだ叱り足りない様子だった。

「久保木なんだが、アイツはどうにかならないのか?」


 久保木は私の班の中でも優秀な人材だった。

 常に要領よく立ち回り、機転が利くために重宝している。

 だが勤務態度は非常に悪く、すぐに仕事を片付けては惰眠をむさぼっていた。


 まさか小川課長の前でも居眠りをしていたのかと不安がよぎった。


「アイツは何度叱っても言い訳しかしないんだ。ああ言えばこう言うの典型例だ」

「はあ。そうですか」


 久保木はバカだから、小川課長の"察して"的な怒りには鈍感なのだろう。

 含みを持たせた言い方をするよりも、「このバカ!」と強く叱った方が効くのだ。


 私は頭を下げて今度こそ室内を後にした。


 とっくに退社時刻は過ぎているが帰っていられる暇がない。

 彼らの書類の添削指導だけでないのだ。

 自分の書類もあるから結局は日付が変わるまで残業は続いた。



2.


「波多野。悪いけど来週の企画会議に出席してくれないか」


 え、嫌だ。

 私はげんなりとしながらも、

「はい。わかりました!」

 と若手社員の元気さで応じた。


「企画会議に出席してくれ」は、イコールで「企画を通してきてくれ」という意味合いで、そこでつまずけばボーナス査定にも大きく響いてくる。だからやりたがる社員は少ないが、そこは持ち回りで担当することになる。


 私は寝不足と食欲不振で朦朧とする頭を縦に振った。


「あなたの班員の山下くんなんだけど、書類の提出はまだなの?」

 人事担当の方に叱られ、

「悪いけど、プレハブ事務所のテキストファイルを、こっちのパソコンに移しといてくれよ!」

 そう同期に雑用を押し付けられ、

「こんなことでは企画会議は通らないぞ」

 小川課長に怒られながら一カ月ぶりの休日を迎えた。


 私の壊れた脳内では"休日"とは休める日ではない。

 サービス残業をする日と定義づけられていた。

 ただし、だれの監視下もないので、のびのびと仕事ができる。

 それをいつしか嬉しいと思うようになった。


 私は市立図書館でノートパソコンを叩きながら、膨大な業務を片付けていく。

 あまりにもパソコンを見続けると乱視になって焦点が合わなくなるので、個包装入りのほっとアイマスクで目を癒したり、ストレス性の片頭痛を市販の頭痛薬を服用して和らげたりした。


 いつまで経っても終わらない恐怖は、肩までどっぷりと浸かると絶望へと変換される。

 知り合いなどいないはずの図書館なのにどこからともなく罵倒や野次が聞こえてきた。

 今日は仕事仲間とらーめんに行く予定だったがすっぽかした。

 嫌いとかなんだとかそういう煩雑な感情はさておいてそんな暇がなかった。


 あれもやれこれもやれ。

 業務成績は、そのための営業努力は、報告はまだか。

 努力を可視化しろ。プライベートを潰して仕事を優先しろ。


 しろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろしろ。


 もうまともな神経がすり減った。

 それでも会社は辞めさせてもらえない。


 努力が足りてないんだよ。甘えるな。こんなことじゃどこに行っても務まらないよ。え、なに? 企業の面接に行きたいだって? 君にそんな暇があるの? 有休を消化したい? 君ねえ、自分のことばっかりで会社への思慮が足りてないんじゃないの? この話をしている時間が無駄なのよ。わかる? 無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄。時間はお金なのよ。タイムイズマネー。私の時間を返して。ねえ、できないなら仕事してよ。ほらさっさと仕事しろよ。休んでいる暇なんかお前にはないんだよ。


 思い出したら吐き気がしてきた。

 私は便器に顔を突っ込みながら、SNSに文面を打ち込む。


「おはようございます。

 今日は図書館で勉強してます!

 久しぶりにのんびり過ごせそうで~す(*´з`)」


 ここにいる私は、私ではない。

 私の名を騙る別人だ。

 ほらよ、みんな。

 こういうのがお望みなんだろ。


 液晶画面がかすんで見える。

 本音なんて言えない。

 それなら何のために言葉はあるのだろう。


「大丈夫ですか?」

 それでも仲のいい人からはDMが来る。


 ああなんていうか、こんな無機質な画面に、デジタルで血の通わない文字や写真が映し出されるだけなのに、なんで伝わる人には伝わっちゃうんだろーな、私が病んでいるかもしれないって。まあ自傷行為に及ぶつもりはないけどそういう行為に走ってしまう気持ちがよくわかるよ。


 私は自分で自分にこれだけの罰を与えているんだ。

 だから許してくれよ。認めてくれよ。

 そう心の内側から泣き叫ぶ声が聞こえた。


「はい。最近はあんまり投稿できなくてすいません(-_-;)」

 DMは無難な文面のものにした。

 もともとシンプルな文章しか送らないので、そっけなくても気付かれることはないだろう。

 はあ。と全身の"気"を出し切ると虚脱感に襲われた。

 それでもやるしかないんだ。終わらない残業を終わらせなきゃ。


"会社のために"


 生活のために仕事をしているのに、いつしか会社のためなどとバカげた社会奉仕の精神が芽を出し始めていることには目をつむって、ぶっ壊れそうな脳みそをムリヤリ動かす。動かせば動かすほど、歪み、軋み、苦しくなった。生きているって感覚がなくなってきた。死にたいっていう積極的な感情はないが、生きたくないっていう消極的な感情がフラフラと飛来してくる感じ。そうかこれが鬱か。これは、辛いよ。


「お疲れ様。明日も仕事ですか?暑くなってきたから体には気を付けて。ちゃんと食事は取りなさいよ」


 母親からのラインが来た。

 面倒くさいから既読無視をする。

 そういえばここしばらく家に帰っていなかった。


 社員寮で先輩社員の出すゴミ袋を毎朝ゴミ収集場に持って行くのが日課みたいになっていた。ああ、もうなんかどうでもいいんだ。それも。会社から離れると仕事に支障が出るから帰ってる暇がない。こんなクソみたいな職場なんかさっさと辞めてしまいたいが、高齢の両親がいるせいで、それが足枷になってやめる踏ん切りがつかない。


 私は仕事を苦にして自殺をした兄貴のことを思い出しつつ、髪の毛をぐしゃぐしゃにかきむしった。その何本かはパラパラと抜け落ちたが、まあそれもどうでもいい。もうなんか感情が死んできた。


 もうなんかどうでもいいや。

 そんな自暴自棄にも似た感情で、今度は漫画喫茶へと逃げ込む。

 漫画喫茶は偉大だ。ドリンクバーはあるし、ご飯も食べられるし、インターネットもコミックもある。この空間だけで自己完結しているのだ。ああ、すげー居心地がいいな。


 そうやって何時間も現実逃避をしていると、入口のレジカウンターから差し込む夕日を見て、また憂鬱な気分へと引っ張り戻された。まだ仕事が終わっていない。そう思うとなんだか吐き気がして、もう嫌だとか、それすらもどうでもよくなって、ただただ気分が悪くなった。


 もういいや。

 アルコールを飲んだら仕事に影響するかもしれないからタバコを吸おう。

 そう漫画喫茶を退室して自転車を漕ぐ。

 風で髪型が乱れるのがうっとうしいから帽子を目深にかぶる。


 街灯がぽつぽつと灯りだし、自動車のヘッドライトも点灯し始めた。

 私は蹌踉そうろうとしながら右手を外した。片手運転だ。

 もうストレスの限界だ。良い子ちゃんを演じるのは疲れた。

 たまにはグレてやるっていう精一杯の反抗だ。


 あまりにも危険な運転だから自動車のドライバーも迷惑そうな顔をしていた。だけど私は気にしない。別に死んでも構わないのだから。ていうか、私は今、生きているのか死んでいるのかもわからない状態だ。もしかしたら死んでいるのかもしれない。だったら生ける屍のことくらい大目に見てやってほしいと思った。


 何度か電柱に激突してやろうとか、わざと転んでケガをして会社を休もうかと画策したが、そんな勇気も出なかったし、それで休ませてもらえるとも思えなかったのでそのままコンビニに到着した。自動ドアが開いて中年の女性が「いらっしゃいませ」と笑顔を向けてきた。気持ち悪い。私はそれを不快に感じた。


 あまり顔を見られたくもなかったので、帽子を目深にかぶったまま、「あの、セブンスターで」と友人がよく吸っている銘柄を注文した。だが、同じセブンスターでも、タールだか、ニコチンだかの含有量が違うので、そういうよくわからないのを説明するのが大変そうで、私はざっとレジ奥のタバコの陳列棚に目を向けて、セブンスターの収納されている適当な番号をレジの店員に小声で告げた。


「年齢確認をさせていただく場合がございます」

 機械音声とともに、"あなたは20歳以上ですか?"の画面と"YES"or"NO"をタッチする項目が出てきた。私はあわてて"YES"を押した。なんか罪悪感みたいなものを感じたから。早くここから立ち去りたい。


 レジスターに500円と表示されるのを確認してから、すぐに千円札を置く。


「すいません。お若く見えるので、身分証の提示をお願いできるかしら」


 え、マジかよ。

 また年齢確認されるのか。

 最近は居酒屋に行ってないから久しぶりの感覚だった。


 私はおもむろに運転免許証を取り出して見せると、レジのオバサンは「お若く見えたものだからごめんなさいねえ」と自動ドアをくぐる私の背中に声をかけてきて、私はなんとなく振り返ってお辞儀をしてから自転車を漕いだ。


 今度こそ外観は闇夜に染まっていて、私の自転車もきゅるきゅるとゴムの摩擦でライトを点灯させながら"変速1"の最軽量のギアで驚くほどゆっくりと進んだ。いつもは魅力的に見えるステーキハウスは張りぼてのように実体が感じられず、誘蛾灯のごとく人をおびき寄せるパチンコ店は不景気を知らないようだった。


「ああ俺も堕落してラクになりたいぜ」


 そう言いながら、俺はもう最下層の人間なんじゃないかと思いつつ、まあそんなことはなかったので、駐輪場にでも自転車を停めて入場しようかと思ったけど、ギャンブルには心が惹かれなかったし、時間とお金がもったいないのでやめてそのまま走り続けた。


 信号にかかってぼーっとしていると、だれかに見られているような感じがして気分が悪くなった。目の前にはビデオ屋があって24h営業との看板が光っていた。


「24h営業って俺と同じじゃねーか」

 そう信号が青になるのをイライラしながら待って、いざ青に変わると、「青になると進まないといけないのかよ。面倒くさいな」と呟きながら右折待ちをする自動車のヘッドライトを浴びながら思った。


 私の人生はずっと赤信号だったらいいのに。

 そしたらやっと休めるのにさ。走ってばかりじゃ疲れてしまう。


 そんな思索に耽っているとドサッと音がした。

 尻ポケットに入れていた革製の長財布が落ちたのだ。

 私は緩慢な動作でそれを拾い上げると、


「あーあ、俺はこんなもののために働いているのか」

 そう虚しくなった。


 適当に流しているとファミリーレストランが見えてきた。

 社員寮に帰っても先輩の顔は見たくないから、先輩が寝るまでここで時間を潰すことにした。

 私はジーンズの尻ポケットにタバコとオイルライターを突っ込んでから、コンビニ袋をその辺に捨てた。いつもなら絶対にしない不良のような所業だ。


 なんだかちょっぴり大人に近付いた気がした。


 ファミレスのドアを押し開けて少し待つと、店員がやって来て、「おひとり様でしょうか?」と訊いてきた。私は赤面しそうになりながらも「はい」と返事をして帽子をかぶったままうつむいた。


「禁煙席でよろしいでしょうか?」

 あれ? この時間帯だと喫煙席はないのかなと思いつつ、

「喫煙席がいいです」と答えた。

 まあせっかくタバコを買ったんだし、吸えるなら吸いたい。


「申し訳ございません。喫煙席ですと、年齢確認が必要になります」

 あれ? と私はさらに首を傾げた。

 この前、友人と来たときはすんなりと喫煙席に通してくれたではないか。

 まあいいか。喫煙者は肩身が狭いぜ。


 私はそっと身分証を差し出してから喫煙席に座る。

 そしてタバコをふかしながらこう思った。


"転職しよう。"


 そうタバコの煙を肺に入れようとしたらむせて、苦いし、健康にも悪いし、最悪だなと思った。

 私の勤めている会社もタバコと同じだなと思って灰皿にぐりぐり押し付けてから、呼び鈴を鳴らして店員を呼ぶ。


「すいません。ハンバーグステーキのAセットで」

こうなる前に転職しましょう!

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[良い点] ああ!こりゃ大変です!汗。 証券会社で働いていた友人のようです汗。 内心ひやひやしながら読みましたがファミレスで転職を決めてがっつりを頼んでいる姿にほっとしたり笑。 食べられるならまだ大丈…
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