一章 14 『凍りついた部屋』
空中を漂う無数の氷剣がいまか、いまかと次の命令を待っている。
氷の生成により、室温が下がり、肌寒いのだがトモの額を冷や汗が流れる。
「フェル ! オルフェウスは客だぞ ! そんなことしてもいいと思っているのか ! 」
「トモ、気遣いありがとう。うん、実にいい香りだ。冷めないうちに頂くとするよ」
何を言っているのだろうか。今そんなことを言っても、火に油を注ぐだけだ。いくら剣聖といえども、この量は無理だ。あの美しい顔が一瞬で吹き飛ぶビジョンが見える。
オルフェウスはティーカップに手をかけた。そのとき ! 一本の氷剣がオルフェウスの額に向かって飛んでいった。
トモには、速すぎるせいか、残像が残り、一本の糸にしか見えなかった。予期していたおぞましい光景に目を瞑る暇もなく剣先が額に到達する……筈だった。
ガラスの砕けるような高い音とともに、氷が砕け散り、青白く輝くエナが空中で霧散する。
トモは、目の前の光景が信じられなかった。次々とおぞましい速度で、発射される氷剣を片手、しかも素手で砕いている。さらに驚くべきは、目を瞑って紅茶を味わっているところだ。これはもう、人の出来る技ではない。こんなことを出来るのは、千手観音くらいじゃないだろうか。
「ごちそうさま。とても美味しかったよ」
オルフェウスがカップを置いた頃には、氷剣は全て無くなっていた。彼は、動じることもなく、紅茶を飲み干した。いや、この状況で紅茶を楽しんでいた……紅茶を飲む動作に、少しのブレもなかった。つまり、左手以外の意識は、紅茶を飲むことにあったわけだ。余裕があったし、これでも本気ではないだろう。剣聖という者の力のほんの一部分が垣間見えただけなのだ。
「トモは……」
ずっと無口だったフェルが口を開いた。
「あなた達のせいでトモは悪魔に襲われてるのよ ! ! 」
初めて見せた怒りの声だった。
「ーーーー」
オルフェウスは、無言のまま、空のティーカップを眺めている。
「私が、今したことはあなたのしてきたことと変わらないわ。この国の平和の象徴って何よ ! 」
「そういうことか……全て君の言う通りだよ。平和の象徴か……私は、君たちの苦しみを考えたこともなかった。このことは、国をもって謝罪させてくれ。すまなかった」
紅い騎士が深々と頭を下げる。
「オルフェウスもういいから。早く頭上げろよ。ほら、俺は生きてるだろ、だからあんまり気にするんじゃねぇぞ」
オルフェウスは、俺と同じくらい若いのに国、剣聖、平和の象徴とかたくさんのものを背負っているんだ。俺以上に背負っているんだ。俺に出来ることなら、少しでも後ろめたさを取り除いて、外に出してあげたい。『レイン』の客として、気持ちよく送り出してあげたい。そう思って声を掛けた矢先に、フェルの口が開く。
「私は、許せない。生きてるからって、死んだら残された私はどうするの ! 死んだ人は生き返らないのよ ! この剣聖は、弱い人とその周りにいる人の苦しみを考えたこともないのよ。そんな人に何が守れるの ! 」
「何もわかってない ! 一度、痛みを知るべきだわ ! 不安、惆悵、悲憤、慷慨、慨嘆、悲壮、絶望で研がれた痛みを味わいなさい ! 」
再度、氷剣が生成される。さっきのとは、殺気が別格だ。研ぎ澄まされた刃は、空間をも切り裂きそうだ。
「そうか……わかった。その剣、我が胸で受けよう」
オルフェウスの自信に満ちた声はそこにはなかった。
そう言って、オルフェウスは、膝をつき、腕を後に組んで、身を差し出す。
まずい、完全に受けるつもりだ。あんなもんを無防備で食らったら、流石のオルフェウスでも……
「おい……フェル、やめろ……」
トモの呼びかけに応じる様相もない。フェルの眼は、何も見ていなかった。
トモの足が動き出す。覇気のないただの紅い鎧だけを見据えて。
「やめろぉぉーーー ! ! ! 」
叫びながらオルフェウスを突き飛ばす。洗練されているはずの肉体は、想像以上に軽かった。
「うっ ! ? 」
トモは、何が起こったのかわからぬまま、意識を失った。
うつ伏せになって倒れたトモの腹には風穴が開き、バケツをひっくり返したかのように、床が鮮血で染まる。
「トモ ! くそ、私は回復魔法を使えない。このままではトモが……」
出血量が多すぎる、それにピクリとも動かない。このままでは、確実に死ぬ。
「トモに触れないで ! 」
トモの隣で跪くオルフェウスに向かって、氷の結晶がテーブルや椅子を巻き込みながら、波のように押し寄せる。
殺意を感じ取ったオルフェウスは咄嗟の判断で、氷を回避する。氷は、トモの周りを囲い込むように走っていった。
「何をする ! 」
オルフェウスの燃えるような瞳が、フェルを睨む。だが、その炎は、一瞬で消え去った。紅の騎士オルフェウスは、血の気の引いた青白い顔で立ち竦む。
「今のでエナを使い果たしたな……誰がトモの腹を塞ぐんだ ! 」
失望の中で、眼だけが、怒りに燃えている。
「私がトモを助ける。私が……トモを。私のトモ……私の……邪魔よ……」
「出て行って ! 」
怒りに満ちた、甲高い声とともに、風が吹き荒れた。オルフェウスは、暴風に、殴り、刻み、締め付けられ、いとも簡単に扉から外へ放り出された。そんな中、一度だけ、暴風を起こした張本人を見ることが出来た。
「ーーーーっ ! ! ! 」
「お前は、いったい ! ? 」
放り出された、オルフェウスが扉に急ぐ。その頬からは燃えるように紅い血が流れている。扉に手をかけ、全身全霊で開こうとしたが、オルフェウスの力を持ってしても、扉が開くことはなかった。
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