プロローグ 『泥沼の夢』
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闇の中に光る一本の糸。何本もの細い糸で編まれたそれは、人では干渉することのできない無慈悲なまでに強い力に引っ張られ、呆気なく千切れてしまった。
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青々とした力強い木々。青い大地と空を飾る滲んだ桜色。水を張った田んぼが朝日を、反射している。これは、ある出来事のちょうど十分前のことだ。
人生、それは何が起こるかわからないものである。例え、トラックの一台も走ることのない、ド田舎在住の少年のだとしても。
灰色のジャージに灰色のパーカーを着て家を出た。春風が心地よいと思ったのも束の間、畦道を歩いていると若菜色をした蛙に白い目で見られているという異様な感覚。ときに畦に転がり、ときに水面に泡沫のように現れては消えてゆく嫌悪である。
心底腹が立っていたーー自分の存在を否定されているような気がして。
歩いている彼、田下 共は、ごく普通の高校生。だった……彼の高校は、廃校したのだ。生徒数減少からの経営破綻で。よってそれは、少し前までの話。
彼は、高三になれなかった。友人といえるか曖昧な位置にいる同級生達は、他の学校へ転入していった。しかし、彼は転入できなかった……。住んでいる場所が悪かったのだ。そう、彼が住んでいるのは、ド田舎だ。おかげさまで、高校生活を失った。
春休みはもうすぐ終わる。終わったところで彼はずっと休みだが。
「あーあ、これからは自宅警備員か。人よりも動物の数の方が多い、辺鄙なとこに建っている我が家を死守しようたってな……まあ、あと一年、まったりと、都会に行くための荷造りでもしよう。なんて、決心しても、どうせ俺は、これから一年、無為に過ごすことになるだろうけど。いや、無為というより、ネットの海に沈むのほうが正しいか。緑豊かな大自然に囲まれたこんな場所で、俺は何やってんだよ……」
日々多忙を重ねる都会のサラリーマンや学生は、休みが続くこと、田舎でのんびりスローライフを羨ましく思うかもしれないが、現実は違う。ド田舎というのは、退屈で憂鬱なのだ。
自転車で行ける範囲内にラノベを買うことの出来る本屋が無ければ、課金カードを買うことの出来るコンビニも無い。車で遠出したときに買い溜めていた物は全て漁り尽くした。ゲームもだ。
この季節になると、両親は田植えの準備や土地の管理で忙しくなる。車を出してくれる良心は無い。
となるとトモの退屈しのぎは、一家共有のパソコンでネットを開くことだけだった。勿論ネットは最高だ。だが、学生だったトモからすると、それは逃げ場であって、うんざりするような生活から逃げ込んだときに効果を発揮するものであった。トモを叩いてくれるムチはもうない。
そうでありながらも、特にやることがないトモは、春休みの間、敢え無くネットをしていた。故に惰性。管理人よりも長時間、管理をしていたトモの肩書きは、「ネットの海のライフセーバー」なんてのがお似合いだろう。
結果としてトモは、自由と孤独を手に入れたのだが、一人っ子で一人の過ごし方をそれなりに知っている彼でもこれからの一年は苦痛になるのだろうと。なんとなくだがそう悟っていた。
畦道を一人歩く。
田んぼの区切り、木の配置、山の形……
色こそ変わるが初めて見たときからこの場所は何一つ変わっていない。
「はぁ、つまらない、何もない、うざい……」
トモは、無表情で足元のゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロと鳴く、煩い蛙を潰して、潰して、潰して、潰して、潰して、潰す。飛び散った若菜色は、背を伸ばそうとしている雑草の中に溶け込んだ。
「うぅっ……」
突然、キーーンと耳鳴りがなってトモはしゃがみこむ。耳の奥深くで鋭い音が鳴り、突き抜けるのと同時に世界が揺らいで暗くなった。臭い。潰れて蒸発した蛙、草、泥の混じった匂いと湿り気が鼻に纏わりつき、トモの吐き気を加速させる。
暫くして、眩暈と吐き気がどうにか止まったトモはふらふらと立ち上がる。顔をあげた瞬間、日光が差し込み、トモは、眩しそうに目を細くした。
「あっぶねぇ、よろけて田んぼに落ちるとこだった。しばらく外に出てなかったし。貧血か ? 」
そう言ってトモは、目的地に向けて再び畦道を歩き出した。
目的地に到着した。目的地とは、家の近くにある緩やかな丘だ。坂道を越えると大きな桜の木がそびえ立っている。
春になると成長の証として、この木の幹に傷をつける。今春で十八本目になるこのイベントの発端は、一家の花見ついでに、たまたまあったナイフで。ということらしい。桜の木もとんだ迷惑だっただろう。十八年も続くのだから。
坂を越え、木の前についたときトモは、思わずハッと息を呑んだ。桜の花びらが散る景色に、存在してはならないものがうつり込んでいる。美しい春の風物詩の中に異物が混入しているとでもいった方がいいだろう……
「熊っ ! ? 何でこんな季節に……早起きすぎだろ ! 」
相対したのは、熊だ。岩のようにずっしりとした体格。そこからくる威圧感は、背景に映る威厳があり堂々として立派であったはずの桜の木を細く弱々しいものに見せるくらいだ。
距離は十五メートルほど。両者は、見つめ合い、ピリピリとした緊張感を醸し出す。
そんな痺れるような展開の中でトモは、あることを思い出した。小さい頃から言い聞かされたものの理解できなかったことーそれは、この地で熊は山の神として、崇められていて、出会った者は、皆、敬意を払う必要がある。ということだ。
親も、一キロメートル以上離れたところに住んでいる一応ご近所さんの老夫婦も口を揃えてそう言っていた。
ここに来て、今春を迎えてやっと繋がった。
「ヒグマの生き残り……人々が崇め、守ってきた山の神……か」
本州にヒグマは生息しない。だが、相対している熊は、月の輪がなく、褐色がかった二メートルをゆうに超えるであろう巨体。
トモは、震える腕をゆっくりと上げ、敬礼のポーズをとる。理由も根拠もここにはある。トモに出来る最大限の敬意の表し方だ。
敬礼のせいだろうか、状況は一転した。
熊が動き出したのだ。動き出した瞬間、その眼は、捕食者の眼に変わった。よっぽど、腹がすいていたのだろう。犬歯を剥き出しにした口から涎をダラダラと流している。熊は涎を散らしながら、ゆったり、ゆったりと四足歩行で、近づいてきた。
「はっ ! おい、待て ! 山の神 ? ただの野獣じゃねえか……くそっ、今日の俺は夢でも見てんじゃ……」
トモはそう呟き、顔を引きつらせながらゆっくりと、一歩、二歩、三歩と後ずさる。大粒の鉛のような汗が彼の頬を流れる。気づいたときにはもう遅いと感じさせられるような状況。
熊との距離は、十メートル程になっていた。このままでは、確実に喰われる。そう思ったトモは、ポケットに手を伸ばしてナイフを握る。だが、リーチが短い。
目を潰して素手で撃退したとかいう話がネット上にあった気がするが、目の前にするとそんなことできるはずがないとすぐにわかる。接近したが最後肉塊になるのは予想がつく。
ーーだからといって、ここで死ぬわけにはいかない。こんなド田舎で最期を迎えるなんて最悪だから……
考え抜いた結論は、これだった、
「あと一年なんだよぉぉ。これまでのぉ、田舎での俺の苦痛はぁぁ ! 何がぁ山の神 ! こんな場所でぇ、お前なんかに、殺されてたまるかぁぁ ! 」
トモは、叫んだのと同時に、ポケットからナイフを取り出し、シースを外して思いっきり投げた。ナイフは、日光を反射しながら、美しい放物線を描いて、飛んでゆく。
熊は、空を飛ぶ銀色の物体に気を取られている。川魚を見るような反応である。
熊が目を離した隙に、トモは、気付かれないよう、静かに動き出し、坂を全速力で下る。
足には自信があった。数少ない友達 ? には、負けたことなど一度もないし、そいつらからは、田舎のチーターと呼ばれていた。井の中の蛙と言われても仕方のない環境だが。そして下り坂、トモはぐんぐん加速する。
景色が置き去りになる。ーーいける。そう思って後ろを見ると、とんでもない加速度で死が追ってきていた。三十メートル、二十メートル……と距離を詰められる。
「熊は下りが遅いって聞いたことがあったけど全然速いじゃねえかぁぁぁ。はぁはぁ、正面には田んぼ、地平線が田んぼでできたこの世界……もうこれに縋るしかねぇか ! 」
荒い鼻息が後ろまで来ている。トモは稲にもすがる思いで跳躍した。まだ水を張ったばかりで、稲などなかったのだが……
ーーよしっ ! あとは、熊×田んぼの相性次第だな。田んぼが長年の遊び場だった俺×田んぼの相性にかなうわけがないから入った瞬間勝ち確だ !
必死の跳躍は、相当な高さを生み出した。春風を全身に受けている。身体が灰のように軽い。このまま風に乗ってどこまでも飛んで行けそうだった。いっそ、飛んで行きたかった……
「ああああぁぁぁーーー」
爪がとどいていた。背中にこれまで感じたことのないような、鋭い痛みが走る。熱い、背中が燃えるように熱かった。そのままトモは、顔から力なく田んぼにドボン。日光に温められた泥に抱擁され、その生温さに、なんとなく安心感を得ながら、うつ伏せのまま沈んでいった。
ーー身体に力が入らない。ん? 田んぼってこんなに深かったか? 俺はもう死ぬのか? 田舎で沈みましたとかどんな異聞奇譚だよ……ああ、死にたくねぇよ……
彼には具体的な夢というものがなかった、なかったというより持てなかった。彼はわりかし何でも出来た。もし都会に産まれたら、なんて妄想は千を超える。もっと良い人生を送れたのかもしれない。自信はあった。だが現実は、田舎在住、高校中退、農業一家。
身体を形成してくれた野菜に罪はないのだが……
トモは昏い泥沼の底で田舎を呪い、都会を渇望し、絶望した。
紅一点、田舎に蓮の花が咲いた。
桜の幹には記念すべき十八本目が刻まれていた。
「ああ、タノシタ・トモ、君はなんて面白いんだ……ハハハハ、君に決めた。リンク ! 」
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千切れた糸が、その一本一本が逆再生するかのように再び結びついて、つながった。