『ドーバーの悪魔』事件
――王国南東の港町、ドーバー。
チャーリーが謎の少女と邂逅したのとほぼ同時刻。
「あぁもう、すっかり遅くなっちゃったわ」
ランタンを片手にアン・ニコルズは家路を急ぎ足で歩いていた。
小さな貿易業を営む両親は半月後まで大陸に出張。そのため街の集会に代理で顔を出すよう頼まれてのことだった。
とはいえ十九歳のアンにこれといった役割はなく、数時間ただその場に居るだけという非常に退屈な時間を過ごす羽目になった。
それゆえ、帰る前に恋人の家に寄ったのも仕方のないことだ、とアンは誰ともなく言い訳する。しかし互いに激しく求めあい、気が付けばすっかり日が変わる直前というわけだ。
「……あら?」
ふと道端の茂みが揺れたのに気付き足を止める。
一年前、町外れの墓地で屍喰鬼が発生したのを思い出したのだ。最下位の怪異といえど、魔術の素養がないアンが素手で対処出来るモノではない。
慎重に、いつでも逃げられるように構えて茂みを見やる。そして。
「にゃあ」
「……なんだ、お前か」
ほっと一息。茂みから飛び出したのは魚目当てに港に住み着いた猫の一匹だった。
特にこの黒猫は、よくアンの自宅の庭先に顔を出すもので、可愛がって時たま餌を与えている。
「ほら、こっちにおいで」
「……にぃ」
しゃがんで手招きするが、黒猫はアンに目もくれず――何かに怯えるかのように――闇の中へ走り去っていった。
「妙ね……まぁそんな時もあるか」
常ならば呼ばずともすり寄ってきておねだりをする猫に違和感を覚えたものの、すぐに立ち上がって再び歩き出す。
――がさっ。
「ん?」
だが茂みを通り過ぎたところで再びの音。
先ほどの黒猫は他の猫と喧嘩でもしていたのだろうか。そう思って振り返ったアンは。
「な……んだ、い。お前……」
茂みから這い出してきた影に言葉を失った。
それは、猫よりも二回りほど大きかった。
だが、その体躯の三分の一は頭が占めていた。
一方で、身体もそれを支える四肢も異様なほどひょろ長かった。
そして、一本の体毛さえ見当たらず体色は白に近い銀灰色であった。
何より異常なのは、ランタンの明かりを反射するその頭には、目も、鼻も、口も、耳も――一切の感覚器が存在しなかった。
「ひ」
謎の怪物が首を巡らし、存在しないはずの目が合った気がした。
これが亡霊や屍喰鬼などの、よく聞き知った怪異であればアンもここまで驚かなかったであろう。なんならいっそ吸血鬼でも構わない。
しかし今目の前にいるそれは、そこにいること自体が有り得ないと本能的に感じる。そんなわけのわからないものであった。
腰を抜かした拍子にランタンが手から滑り落ちる。地面を転がりやがて明かりが消え、夜闇に包まれる。
月明かりに慣れたアンの目に最期に映ったのは、頼りない脚のどこにそんな力があったのか、大きく跳躍し自分に向かって飛びかかるその悪魔の姿だった。
――Case.Ⅰ 『ドーバーの悪魔』事件