一人でなく、二人で
「ただい――うぉっ!?」
チャーリーが自室のドアを開けた瞬間、蓋を開けた鍋のように黒煙が溢れだしてきた。
「ちょっ、メアリー!? これは一体……!?」
袖で口元を抑えながら部屋に駆け込む。メアリーがいようがいまいが、火事など起きていれば一大事だ。
そう慌ててキッチンに向かうと。
「マスター。お帰りなさいませ」
常と変わりなく、無表情なメイドが鍋をかき混ぜていた。
当たり前の光景に一瞬安堵するチャーリー。が、よく見れば煙はその鍋から噴きだしている。
「? どうかなさいました?」
「どうしたもこうしたも……っ!」
指を弾いてカダスを行使。油火災の可能性を考慮して水を出すのではなく鍋回りの空気を遮断する。
煙が小さくなっていく間に窓を開ける。その間もメアリーはぼうっと立ち尽くしていた。
「で?」
ようやく換気が済んだところで従者を振り返る。チャーリーが動き回っている間に状況を把握したのか、申し訳なさげに肩を落としていた。
「普段は嫌味なくらい完璧なメアリーが、らしくないじゃないか」
フランツにはアドバイスされたものの、どうやってこの鉄面皮メイドに打ち明けようかと考えていたところにこれでは、調子が狂うというもの。
しばらくその赤い眼を見つめていると、メアリーは小さく息を吐き出して。
「……今日、買い物に出たときにフローレンス様とジェーン様に出会いまして」
「買い物? 言ってくれたら僕が行くなり荷物持ちに付き合うなりしたのに」
しかしメアリーはふるふると頭を振る。
「気分転換も兼ねていたので。ですが、お二人は私を見て様子がおかしいと」
その時の様子を想像する。
僅かの失態すら犯さない料理でこれほどの大騒ぎだ。街を歩いている時も――
「私はただ、ムガル産の香辛料を百トンほど一括購入出来る問屋を探してただけですのに」
「おかしいから! それは誰でも心配するから!」
新しくカリーショップでも開くつもりだったのだろうか。
「それで、昨日から考えていたことをお二人に相談することになりました」
「考え事?」
「その……マスターのことで、少し」
歯切れ悪くそういう顔は、わずかばかり朱に染まっていた。
「従者として、主人を諌めることは本当に正しいことなのか、などと」
「あぁ……」
「それで、詳しいあらましはぼかしてお話しした次第です」
何のことはない。メアリーも主人同様、昨夜のやりとりで悩むことがあったのだ。
そのことをチャーリーはほんの少しだけ嬉しく思う。
「――異界“式”機構・歪曲多面機関起動」
その矢先、メアリーが呟いたのは己の機構に対する起動の言葉。
「――漆號【闇に棲みつく者】」
メアリーの影が花弁のように開き、その身体を包み込む。
数秒して、影はその形をメアリーとは違うものに変え――
「もう、ダメですよメアリーさん」
「な――」
顕れたのは、右手は腰に、左手は人差し指を顎に当て、正面に立つチャーリーを可愛らしく怒るジェーンの姿だった。
しかし、その視線はチャーリーの顔よりやや低めで、ちょうどメアリーのそれくらいを見ている。
「確かにチャーリーさんは普段こそ押しの弱いヘタレっぽいところがありますけど、自分がそうだと決めたことはとにかく譲りませんし、間違ってると思ったことも、自分に出来ることならどうにかしようと動く人ですから」
「メアリーもだけど、僕そんな普段ヘタレて見える?」
「そんなわけで、チャーリーさんは他人がどういったところで自分の意見を変えたりはしませんよ。そんなにお利口だったら、今頃ロンディニウム大学始まって以来の問題児とか、言われてないでしょうし」
チャーリーの言葉を無視するジェーン、いやジェーンの姿を再現するメアリー。
おそらくこれは、つい数時間前にメアリーに語りかけた姿なのだろう。
「だけど、メアリーさんが一声かけて、それで一度冷静になるのは間違いないと思います。どうしてと言われても……正直女の勘としか言えないんですけど」
たはは、と苦笑して頬を掻く。
「だからもしチャーリーさんがまた『あ、これまずいやつだ』と思うようなことをしそうな気配があったら、メアリーさんは迷わず止めていいんです。それで、一緒に考えてあげてください」
それは奇しくもフランツの意見と対になっていた。
「……ふぅ」
言い終ったのかジェーンの似姿が黒に染まり、溶けるように流れ落ちて元のメアリーの姿に戻った。
「今のがジェーン様からのアドバイスです。非常に参考になる意見でした」
「……そうだね。それに、僕もフランツからアドバイスを貰ってさ」
悩んで悩んで悩み果てて、その結果出した自分の本当にしたいことを包み隠さず伝えて、メアリーにも悩んでもらえ。
「僕は自分のやりたいようにやる。メアリーには申し訳ないけど、それを聞いて一緒に悩んで欲しい。僕としては協力してくれるのが一番だけど、もし危ないと思うなら縛り付けてでも止めたっていい」
「……それは、マスターがずっと昔から考えていることと関係が?」
面食らうが、よく考えるとメアリーはチャーリーの記憶を共有しているのだ。
だからその『考え』を知っているのも、ある意味では当然のことだった。
「そうだね。僕は自分を赦すためにも、前に進まないといけないから」
円卓という生きた伝説に警告されて、メアリーを悲しませたことで折れかけたが。
「立ち止まっていられない――もう一度歩くためにも、そのけじめとして僕はあの怪異と決着を付けないと」
「前回は私も油断してしまいました。一生の不覚です……ですが、それを抜きにしても、あれは危険です。それでもマスターは?」
頷く。これ以上の問答は必要ないと思ったから。
「でしたら私も、油断や侮りは捨てましょう。私の半身はマスターのもの、心の全てはマスターのもの。であれば私への侮辱はマスターへの侮辱。そんなことが許せましょうか?」
「心強いよ。僕も、今度こそ傲慢は捨てよう」
何でも出来るという傲慢はいらない。必要なのは、何でもするという決意。
「では予定外でしたが、夕食には豚カツも追加しましょう。必勝祈願に」
「どこの文化だい、それ?」
「それではさっそく準備いたします……その前に、片付けが必要ですが」
すっかり中身が炭化しこびり付いた鍋を見て、二人は顔を見合わせ苦笑した。




