二十九話 フィーネ泊まる
巨大な死骸を前に商会員達が右往左往する中、フィーネとユキは静かにその場を離れた。背後からは、なおもクレアの甲高い笑い声が潮風に乗って響いてくる。
「あの人、徹夜で皮算用してそうですね~」
「徹夜で終われば良い方でしょう」
二人は顔を見合わせ、肩をすくめた。
向かったのは町外れにある温泉宿。
港の喧騒から切り離された場所に建つその宿からは、ほのかに湯気が立ち昇っている。敷居を跨げば、硫黄の香りと共に柔らかな蒸気が鼻先をくすぐる。
「はぁぁ……いいですね~。お湯の匂いがするだけで癒やされます~」
「はしゃぎ過ぎて周りに迷惑をかけないでくださいよ」
「フィーネさんってほんとに真面目ですね~。温泉なんて、肩の力抜いて『あ~極楽~』ってするためにあるんですよ~」
「以前も森林浴で同じことを言って散々迷惑かけましたよね?」
「記憶にございませ~ん。過去は振り返らない主義なので~」
「あなたが覚えていなくても、私の記憶にはしっかり残っています。それに重要なのは過去ではなく今。この温泉宿で羽目を外すなと言っているのです。特に今回、私は正体を隠すのでフォローできないのですから」
「なんでエルフであること隠すんですか~? 全力で私の後始末してくださいよ~」
「面倒事は御免です」
力を持つ者は、避けられるか擦り寄ってくるかの二つに一つ。
そして美人で礼儀正しいフィーネは圧倒的に後者の割合が多い。エルフを従者にすることは権力者にとってこの上ないステータスなのだ。知り合いになれるだけで大きい顔が出来るほど。
「面倒になったら逃げれば良いんですよ~。別の地域を観光する切っ掛けにもなります~」
「私はあなたほど無責任ではありませんし、既に永住の地を見つけました。ルーク様、ひいてはオルブライト家の皆様にご迷惑がかからないよう、正体や作業内容を隠すのは当然のことです」
有限実行。受付に人の気配を捉えたフィーネは、口を閉ざし、フードを目深に被って歩を進めた。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
受付にいた女性がにこやかに出迎える。
「はい。一泊で、夕食と明日の朝食は部屋にお願いします。それと馬車小屋も利用します」
「かしこまりました。料金は銀貨五十三枚になります」
うわ~いい値段しますね~と言いかけたユキの口を塞ぎつ、フィーネは懐の革袋から提示された金額を取り出す。
幸い、金には困っていない。
「おーっ、さっすが高級温泉宿! 部屋も豪華ですね~!」
部屋に案内されると窓からは海が一望できた。遠くには、クラーケンのいる海岸へと向かう解体船の影が見える。
「……あれはしばらく騒ぎが続きそうですね」
「あの場でスパスパっと解体してあげたら良かったですかね~?」
「余計なお世話でしょう。職人の腕の見せ所ですし、そういった時間も含めて楽しんでいるはずですよ」
布団の上に大の字で転がったユキを横目に、フィーネは窓際で荷台を確認する。
風の結界で覆われた塩樽は当然のように無事。外見はよくある防犯結界に見えるが、その実、誰も突破できないほど強固な結界だった。
ふと、視線の先に大浴場から立ち昇る湯気が見えた。
「ユキ、温泉に行きましょう」
「温泉♪ 温泉♪」
ユキは布団から跳ね起きると、備え付けのタンスをごそごそ探り始めた。
「……何をしているんですか?」
「決まってるじゃないですか~。温泉といえばタオル。肩にかけるか、頭に乗せるか、体に巻くかで通ぶれるかどうかが決まるんです~。タオルがここにあることは調べがついてますからね~」
「片っ端から開け閉めした時に偶然見つけただけでしょう。そのような基準は聞いたことありませんし、大浴場には今誰もいないので通ぶることも出来ませんよ」
「通ってのは誰かに見せるものじゃないんですぅ~。己がどう思うかなんですぅ~」
「そうですか」
おそらくタオルの使い方も持論なのだろう。
そう解釈したフィーネは適当な相槌を打ち、タオル片手にブツブツ呟く友人を放置して大小一枚ずつタオルを手に脱衣所へ。
「あっ、そのタオル良いですね! 私のと交換してください!」
――向かう前に待ったがかかった。
「どれも同じでしょう……」
「いーえ! 私にはわかります! それは肩用のタオルだと! どうせフィーネさんは耳を隠すために使うんでしょう? 本来の使い方ではないので是非私に!」
「はぁ……勝手にしてください……」
「ふっふっふ~。これで頭と両肩のトリプルタオルが出来ます~」
誰もいなくて良かった。
廊下でお手本を見せるユキを眺めながら、フィーネは正体を隠すのとは別の理由で安堵した。
「うひょ~! 貸切りですよ~!」
「服は畳んで籠に入れ……はぁ……」
脱衣所に入るなりユキは勢いよく衣を脱ぎ捨て、止める間もなく大浴場へ駆けていった。
フィーネは深いため息をつきつつ、几帳面に二人分の衣類を畳む。
「おお~っ! 海の塩っけとはまた違う、トロ~リ系のお湯ですよ! 絶対お肌ツルツルになりますよこれ!」
直後、ざばーんという派手な水音。そして歓声。
「飛び込むなと入口に書いてあったでしょう」
「飛び込んでませんよ~。ちょっと採集し過ぎたので温泉を戻しただけです~。飲泉はご自由にって書いてありましたし~」
「それは『飲む』であって『呑む』ではありません。湯船から消えるほど呑み込まないでください」
海水と同じように温泉も凝縮して取り込んだのだろう。ユキの奇行はいつものことなので、気にせず注意喚起だけする。まあこれも聞くとは思えないが。
「フィーネさん、まだですか~? 誰もいないんだからいいじゃないですか~」
案の定である。
「念のためですよ。それに私はあなたのように解放的にはなれません。一応外なのですからタオルぐらい巻いてください」
子供のように服を脱ぎ散らかして湯船に飛び込んだユキとは対照的に、フィーネは服を丁寧に畳み、頭にタオルを巻いて長い耳を隠すと、楚々とした仕草で大浴場に足を踏み入れた。
束ねられた長い銀髪。タオルの上からでもわかる胸元の膨らみ。湯気によって生まれた水滴が弾けるような美しい肌を伝う。
同性であれば嫉妬を通り越して見惚れ、異性であれば性を意識したことのない少年から枯れ果てた老人まで思わずガッツポーズを取る、美の女神が降臨した。
――が、残念ながらここにいるのは、すっかり脱力した雪の精霊ただ一人。
「エルフは大変ですね~」
出てくる感想と言えば、支度に時間のかかる友人への同情。
「あなたが早すぎるんですよ。もう少し身だしなみというものをですね」
「まあまあ。それより早く入ったらどうですか~。気持ちいいですよ~」
「……そうですね」
と言いつつ、フィーネが向かったのは湯船の横にある洗い場だ。
「洗浄魔術を使ってるのに体洗うんですか~?」
ユキはそんなフィーネを不思議そうに見つめる。
一週間以上も野外活動していたにもかかわらず、彼女の身なりが整っていた理由が、これだ。魔術で服の汚れや体臭を瞬時に洗い流し、常に清潔さを保っていた。
そのまま湯に浸かっても問題はない。それ以前に風呂に入る必要すらない。
「汚れを落とすのが目的ではありませんよ。使ってみたいのです」
最新の水回りや昔ながらの温泉事情について調べるのも、フィーネがアクアにやってきた理由の一つ。それ等は必ずやルークの風呂作りの参考になる。
「それに汚れていなくても掛け湯をするのがマナーですよ。体を湯に慣れさせる効果もあるようです。どちらも我々には意味のないことですし、誰も見ていませんが、これは心構えの問題です」
「フィーネさんってキッチリしてますよね~」
どうやらユキには響かなかったようだ。今後も服を脱ぎ散らかし、肌を隠さず闊歩し、湯船に飛び込むだろう。
内心ため息を吐きながら、フィーネは備え付けの小さな椅子に静かに腰を下ろした。湯を張った桶で手と顔を清め、黄色い泡石を手に取る。
「……なるほど、果実ですか。自然由来の成分によって泡石の洗浄力を向上させ、色や匂いをつけることで高級感も出しているのですね」
「そ~なんですよ~。贅沢ですよね~。果実風呂もぽかぽかで良い感じでしたよ~」
湯の中からユキの間延びした声が返ってくる。既に各種湯船を満喫した後らしい。
「体にも良さそうですね」
泡石を泡立てながら、滑りにくい床材の感触や、排水の流れ方、蛇口の水量調整機構などを細かく確認していくフィーネ。
「こういうところは今も昔も変わりませんね……」
水捌けが良く、滑りにくく、耐熱性と耐水性に長けていて強度もある、便利ゆえに手を加えるところがない石材が使用された床だ。
何百年もの間、一切成長が見られない文明の利器に思わず苦笑し、気を取り直して昔から変わった部分に注目した。
「見てたらやりたくなっちゃいました~。私も洗ってください~」
と、フィーネの隣にちょこんと座ったユキは、白く細い背中を見せてくる。
いくら説教しても言うことを聞かないが、羨ましがらせたら自主的にやるようになる。まるで子供だ。
フィーネは再び苦笑すると自分の洗浄を中断。タオルに泡をしっかりと立てて、ユキの背中を撫でるように洗い始めた。
「はえー」
「……何ですか、その間の抜けた声は」
「いや~……なんというか、その~、食生活の違いですかね~」
「黙りなさい」
鏡越しに感じたユキの視線の意味を察したフィーネは、ピシャリと叱りつけ、それ以上の発言を封じた。
肌を隠していたタオルは体を洗うために使っているので、彼女は現在、首から下が無防備になっている。腕を上下させるたびにふるふると震えるそれは、湯船に浮かんでいる果実とは比べものにならないほど巨大で、柔らかで、高級な代物だ。
「いやぁ~、そうしたいのは山々なんですけど、目が勝手に……」
ユキが顔を逸らすも、すぐに視線が友人の豊かな胸元に戻ってくる。
「だとしても口は塞げるでしょう」
「目は口程に物を言うって言葉があるじゃないですか~。温泉によって堕落した私の目は、もう誰にも止められませんよ~」
「意味がわかりません。それにこれはただの脂肪です。感心するようなものではありません」
「何をおっしゃいますやら。そこには夢と希望が詰まってるんですよ~。私も長年生きてますけど、そのサイズは滅多にお目に掛かれるものじゃありませんからね~。ましてスレンダー種族のエルフでとか、歴代最高記録更新じゃないですか?」
「知りませんよ」
ぺちん、と軽くユキの背中を叩くと、彼女はむうっと唇を尖らせた。
「ちょっとそれを使って洗ってみて……いだだだだっ! つ、爪ッ! 指ッ! 肩に食い込んでますー! びっくりするほど痛いですー!?」
「好奇心もほどほどにするように。残りは自分でやりなさい」
「わかりましたよぉ……」
涙目で泡まみれになるユキを見て、フィーネはまたひとつ深いため息をついた。
「……はぁ……確かに、これは……」
肩まで浸かった瞬間、フィーネの口から声にならない息が漏れる。心の底からじんわりと広がる熱。直前の不快感が解きほぐされていくようだ。
湯船の縁の滑らかな石に身を預け、フィーネは軽く目を閉じる。
やがて、後ろからぱしゃりと湯をかき分ける音がして、ユキが満面の笑みを浮かべながら隣に滑り込んでくる。
「どうですか~? いいでしょ~?」
「ええ、とても……」
フィーネは短く応えながらも、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「温泉は服と常識を脱ぎ捨てる場所ですからね~。心も体も楽になるんですよ~。ほらほら、フィーネさんも『あ゛~~~』って言いたくなってきたでしょ~?」
ユキはお手本とばかりに豪快に顔を傾け、聞いたこともないような濁声を張り上げた。
その声は大浴場に響き渡り、フィーネの頬がほんのり赤く染まる。
「やめてください、恥ずかしい。私は常識も羞恥心も捨てるつもりはありません」
「ほほぉ~? つまり本当はやりたいんですね? 羞恥心のせいで我慢してるんですね?」
「揚げ足を取らないでください。やりたくありません」
「でも男の人は誰しも美人の濁声に興奮するんですよ~? ルークさんも絶対喜びますよ~?」
「……嘘をつかないでください」
「本当ですって~。後々に軽蔑することはあっても、その瞬間、または心のどこかで『あの人がこんなことを!?』と喜ぶんです~。希少ですからね~」
「妙に説得力を出すのはやめなさい」
「事実ですから~。私調べによると過去三百年、男性が欲しい能力ランキングで『透視・透明化』は一度もトップ5から落ちたことはありません! それだけ男性は、気になるあの子の秘密の場所や姿を知りたがっているんです~。一方的に見て優越感に浸りたいんです~」
「それはつまりルーク様にだけ聞かせるべきなのでは? 近くにいる時に実行してギョッとさせるべきなのでは?」
「……たしかに!」
(まったく……)
そんな他愛のない友人との会話に、フィーネは温泉とは別の安らぎを感じた。




