二十四話 フィーネ塩を作る
水の都アクア。
その名の通り、水路と橋に囲まれた美しい交易都市である。
大小さまざまな水路が縦横に張り巡らされ、石造りの橋の下では小舟が行き交う。市場には新鮮な海の幸や異国の香辛料が所狭しと並び、山から流れ込む温泉目当ての旅人も訪れることから、セイルーン王国でも有数の観光地として知られている。
「これは……ひと気のない海岸を探すのに苦労しそうですね……」
街門をくぐった瞬間、フィーネの視界に飛び込んできたのは広い石畳の大通りと、その両脇を流れる透き通った水路だった。往来の人の数はヨシュアの比ではない。
思わず小声が漏れる。
塩づくりを町の外で行えばどうしても目立つ。樽十個分を積み上げて、一人で昼夜作業を続ければ、怪しまれるのは避けられない。それを運び込むにも運び出すにも説明が難しい。
伝統的な水回りや最新技術を探るには町中が理想だが――。
「悩んでいても仕方がありませんね」
フィーネは行き交う人々から視線を逸らし、人波に溶け込んだ。
「ついさっき水揚げされた新鮮なサーモンだよー!」
「香辛料はいかが! 南の島から届いた珍しい胡椒だ!」
「温泉宿はこちらー! 湯浴みで旅の疲れを癒していきなー!」
雑踏の中を歩くフィーネの耳に、威勢のいい呼び声が次々と飛び込んでくる。
市場を抜けると、交易船や漁船で賑わう港に出る。街灯がずらりと並び、船乗りの中には魔術師のような装いの者も混じる。夜になっても人の気配が途絶えることはなさそうだった。
フィーネは少し離れた個人所有の船が停泊する小さな船着き場に足を向ける。
「魔獣がひしめき合い、自然環境も厳しい海辺は、ひと気が少ないと思ったのですが……」
が、そこは期待に反して人で溢れていた。
船は隙間なく並び、漁から戻った男達が休憩所で騒ぎ、飲食店は行列、子供達の笑い声まで響いてくる。地元移民の生活空間の一部と化していた。何か準備もしているので夜釣りもやるのだろう。
これでは塩を作るどころか、魔力を少しでも解放すれば一瞬で怪しまれる。
「あぁン? なんか言ったか?」
不意に声を掛けられ、フィーネは振り返る。
そこには、着古した白いノースリーブのシャツを纏った中年の船乗り風の男が立っていた。酒気を帯びた息を吐きながら、じろじろと値踏みしてくる。
「いえ。ただ……これほど海上交易が盛んな町を初めて見たもので。つい感嘆が声に出てしまいました。皆さん、遅くまで精が出ますね」
「へっへ~! そうだろう、そうだろう! なにせここはセイルーン王国で一番の交易都市だからな!」
声色から相手が女性だと気付いた男は鼻を擦り、得意げに語り始めた。
これ幸いとフィーネは話を広げる。
「ひと気の少ない静かな海岸をご存知ありませんか?」
「ガハハッ! あるわけねぇ! それがこの町の取り柄みたいなもんだ! 磯浜は釣り人とガキどもでいっぱいだし、砂浜は観光客や流れ着いた珍品目当ての連中でひっきりなしよ!」
「そ、そうですか……」
ここまではっきり言われるとは。
下品な笑い声と視線と共に語られた内容に、いろいろな意味で呆れの感情を抱いたフィーネは、感謝の言葉を述べると足早にその場を離れた。
その後もフィーネは暗くなるまで海沿いを歩き続けた。
だが目に映るのは人の生活の痕跡ばかり。店舗、民家、観光客の集う浜辺、あるいは水路や漁港。どこも日常的に使われていて、人知れず作業を行えるような場所は見当たらなかった。
「まさか本当にアクアにはひと目につかない海岸がない? ルーク様が楽しみにしているのに塩が作れない? フフフッ、あり得ないですね。ええ、あり得ませんとも。いざとなれば力ずくで……フフ、フフフフ……」
もしこの場に一流の冒険者がいれば肌で感じ取るはずだ。震え上がるような殺気混じりの魔力のざわめきを。実際、近くを飛んでいたカモメが突如羽ばたき、馬車や竜車は路上で動かなくなる。
――だが、実際に暴挙に踏み出すことはなかった。
「……ようやく見つけました」
街の外れにある断崖の影に、小さな入り江。
足場は悪く、船も寄せ付けない急流と岩場。誰にも使われていないその隙間こそ、フィーネが求めていた空間だった。
「では早速……」
意気揚々と飛び降り、海藻に覆われた足場を土魔術で盛り上げて整えると、懐から貯水ボックスを取り出す。
「……ろ過が終わっていない?」
実はここへ来る前、海で戯れるふりをして海水を汲んでおいたのだ。
あとは岩場を削って作った容器に移し、魔獣を狩って稼いだ金で持ち運んでも怪しまれない樽に移し替えて、荷台と竜を買って帰還。
そんなフィーネのプランは最初の段階で躓いた。
「汲んだのは三十分も前ですよ? どういうことでしょう……」
オルブライト家で見せた反応とはまるで違う。貯水ボックスの機能が目に見えて鈍っている。
海水に不純物が多すぎるのか、真水以外では分解速度が落ちるのか、それとも使用回数による制限なのか。
「ペロリ……一応、塩分は濃くなっていますが……」
味見の結果に、フィーネは安堵と同時に絶望を感じた。
間違いなく塩分濃度は高くなっていた。真水との分離も始まっている。構造に欠陥はない。だがそれは、今の速度が貯水ボックスの限界ということでもある。
「ようやく……ですか。時間が掛かりすぎです」
他に代わりの貯水ボックスはない。精製を切り上げることもできず、じっと待ち続けること二時間。ようやく一杯分の海水をろ過することには成功した。
だがこのペースでは、休みなく続けたとしても目標の量に届くまでに三カ月以上掛かってしまう。自身の心情は無視するとしても、それほどの期間土地を占拠し人目を避け続けることは難しい。
さらに、完成した塩を一粒舐めてみて、フィーネは眉をひそめた。
「……ルーク様がおっしゃっていたほど綺麗な塩ではありません。私の知っている塩と大差ない程度です。やはり不純物が混ざっているせいでしょうか」
その少量の塩も品質が悪かったのだ。
塩になっていれば問題ないとは言われていたが、そうは言いつつも間違いなく期待していたはず。
「海水をそのまま使うのではなく、ある程度の下処理をすれば速度の向上が見込め……いえ、駄目ですね。それはルーク様の望むものではありません」
ろ過、蒸留、精霊術による浄化。
フィーネの脳内にいくつかの方法が浮かぶが、いずれも一朝一夕では済まない。それに彼女の愛する主様は、この魔道具からどれだけの塩が作れるのか、無料で手に入れた塩で社会を変えられるのかを知りたがっている。
重要なのは塩の量ではなく情報だ。
少なくとも樽一個分は、誰が精製しても同じ結果になる今のやり方で作るべきだろう。
「ですが、手を加えた際の効率も知っておくべきでしょう」
そう自分に言い聞かせて、フィーネは海面へ手をかざした。すると、波がざわめき、海の底から透明な球体がゆっくりと引き上げられる。
「……深層水でも駄目ですか」
しかし精製速度は変わらず遅いまま。水分が抜けきるまで待ったが、海面で汲んだ水と比べても多少マシになった程度。品質もほぼ同じだ。
「仕方ありません。長期戦で頑張りましょう」
もし実験が成功していたらどうなったのかは彼女にしかわからないことだが、兎にも角にも
フィーネはルークに会いたい気持ちを抑え込んでアクアで腰を据えて塩づくりをすることに決めた。
「シャギャァ!」
「うるさいですよ」
そんな決意を邪魔するかのように海中から飛び出してきた魚型の魔獣を、八つ当たり気味に葬り去る。
この五時間で二十二回も襲撃を受けている。群れで襲い掛かってくることもあるので、数で言えばその倍はくだらない。
「陸地が少ないので海洋魔獣に見つかりやすいのでしょうね。もしくは元々集まりやすい入り江だったか」
原因はどうであれ、この場所を拠点にする限り、魔獣との戦闘は避けられない。
しかし、討伐した魔獣の死骸をそのまま海に流すわけにはいかない。腐敗すれば悪臭で人を呼び寄せ、骨が残れば異常に気付かれる。死骸に釣られて新たな魔獣も現れるだろう。結界を張れば今度は、より強力な魔獣や厄介な強者を呼び寄せかねない。
「……持ち帰って売るのが一番ですね」
フィーネは冷静に呟くと、土魔術で台を生成し、魔獣の死骸をその上に並べた。
量が量だけに目立ってしまうだろうが、ここが見つかるよりはマシだ。塩づくりと並行して資金の補填にもなる。
再び貯水ボックスに海水を注ぎ込んだフィーネは、換金のために冒険者ギルドを目指した。




