十六話 石鹸
「これが泡石の代用品? 随分ツルツルしてるのね。匂いは……あら、良いわね」
初めて見る石鹸を、母さんは動物みたいに匂いを嗅いだり、まじまじと見つめたり舌でちょっと確かめたり。ひと通り怪しい検査を終えると、期待と不安の入り混じった顔でそっと肌に当てる。
そしてそれはすぐに喜びに変わる。
「な、なにこれ……っ! 泡立ちが良すぎて溺れちゃいそう! 良い匂いが、優しくて良い匂いが私の鼻腔に広がる!!」
顔の周りが泡だらけになって、母さんは半ばパニック。しかし次の瞬間、その泡からふわっと香りが広がり、彼女の表情は驚きから陶酔へと変わった。
しかし本当に驚くべき所はそこではない。
「なっ!? なんなの、この黒いの!!」
体を伝って流れ落ちる黒い液体を見て、母さんは悲鳴を上げる。
慌てて石鹸を見比べ、水を確かめ、手を擦って……最後は俺を睨む。
「俺は何もしてないよ。これは正真正銘母さん自身の汚れ。綺麗だと思ってた体も実はこんなに汚れてるんだ」
「そ、そんな……あんなに一生懸命……磨いて……」
母さんは否定するように首を振るが、流れる黒ずみは止まらず、肌は一段明るさを取り戻していく。貴族として、女としての誇り、どちらも揺らがせる衝撃。
「これが石鹸の力だよ。泡石じゃ限界があるんだ。それにほら、母さんって自分にできることは自分でする主義じゃない? たぶん手とかも他の貴族と比べて荒れてるんじゃないかな?」
そんな母さんを慰めるように俺は説明を続ける。
母さんは貴族では珍しく家のことはだいたい自分でやる。
フィーネが来る前は、父さんの仕事を手伝いながら社交の場にも出席し、さらに子育てと家事までやっていたという。料理はエルのサポート程度だったらしいけど、それでも十分すぎるほど。
フィーネとエルの二人体制になってからは減ったようだが、それでも皆無というわけではないし、食器洗剤や衣類洗剤と同じ用途のアルカリ性たっぷりの天然石では現状維持が精一杯。この世界の肌事情に詳しくない俺でも、その結論に辿り着くのは簡単だった。
「…………」
「否定しないってことは合ってるんだね? あ、別に責めてるわけでも馬鹿にしてるわけでもないから。むしろ立派だと思う。ぼくはただ石鹸ならそれも解消できるって伝えたかっただけ」
「汚れを落とすだけに飽き足らずそんな効能まで!?」
改良しようとして失敗したのか、するつもりすらなかったのかはわからないが、現在汚れ落としに重宝している泡石に出来ないことを石鹸はした。
この時点で洗浄力の差は歴然だ。
「まだまだ。すぐにはわからないだろうけど、石鹸を使い続けてたら肌がツルツルになるのが実感できるはずだよ。他にも乾燥肌やニキビ肌、脂性肌にも効果的だね……じゃなくて効果的らしいよ」
「なにそれ神アイテムじゃない!」
「驚くのは早いよ。この石鹸は体用で、頭や顔にはそれぞれに合った物を使えば、効果は数倍! 母さんが望むならフィーネと一緒に専用の物を作ってみようと思うけど……どうかな?」
「なんて良い子なのぉぉ~~~ッ!!!」
――サッ。
感極まった母さんが黒ずみの残る体で熱い抱擁をかましてきたが、俺はそれを無言で回避。アリシア姉との訓練の成果かもしれない。
受け入れてもらえると思っていたのか、母さんはジト目で睨みつける。
「……なんで躱すの? ここは『任せて!』ってガッツリ抱きしめ合うところでしょ?」
「言わないとわからない?」
「わかるから言わないで」
全身から黒い液体を垂れ流す妖怪は、汚名返上(物理)とばかりに、より一層気合を入れて体を洗い始めた。
「うふふ……どう? ねぇ、どうなのよ?」
「あーはいはい、ツルツルです」
石鹸と浴槽のお湯が目に見えて減った頃。心はともかく体は綺麗になった母さんが、気色の悪い笑みを浮かべながらピチピチの肌を自慢げに押し付けてくるようになった。
浴槽は狭い。俺と母さんが一緒に入れば自然と抱きかかえられる形になr。
物理的にも精神的にも避けられなくなった俺は、心と体を切り離し、体には相槌を、心には石鹸製造のことを思い出していた。
話はフィーネが塩調達に旅立つ少し前まで遡る――。
「石鹸、ですか?」
「ああ。この泡石、成分は貝殻に近いと思うんだ。石灰っぽいけど、もっとアワアワしてる。だから塩をゴチャゴチャしてできる苛性ソーダってやつと油を混ぜれば、もっといい洗剤になるかもってさ」
資金調達と衛生という二つの側面から、泡石に変わる洗浄用品を作ることを思いついた俺は、フィーネに相談を持ち掛けた。
「素晴らしいです、ルーク様!」
やけに嬉しそうだ。
俺が自力で辿り着いたことが嬉しいのか、単純に女として美意識が高いのか、はたまた別の理由なのか。
「その油に魔獣を使えないかな? 例えばガルムとか。ほら、エルの失敗作をちょっといただいてさ」
石鹸の構造なんて小学生でも知っているし、ちょっと痛い中高生なら異世界転生した時のために作ってみたことぐらいある。問題はそれをどうやってその世界のもので作るか。
真っ先に思い浮かんだのは、エルが食料にしようとして失敗している魔獣ガルムの肉。あれならタダで手に入る。というか毎回処分に困ってる。これを試さないなんてあり得ない。
「……成功だな」
筋張った肉から取れる油が、塩や泡石と相性抜群。
しかしまだ足りない。これではまだただの石灰石鹸もどきだ。
「品質を上げるには苛性ソーダにしたいけど……電気分解なんて無理だよなぁ」
「電気はわかりませんが、塩の成分なら属性術式で分離できますよ」
「マジで!?」
これまたあっさり成功。
塩素の好む土属性、水素の好む風属性、炭酸ナトリウムの好む火属性の魔法陣を繋げ、塩水を入れると勝手に分離された。
電気分解やらイオン反応やらアルカリ性やら、難しい原理が必要な地球とは程遠い石鹸づくりだ。
「……完璧だ。これは俺の知ってる石鹸だ」
出来上がった石鹸は試作品第一号にもかかわらず見事としか言いようのない完成度を誇っていた。少し使っただけで現代日本で作られているものと比べても遜色のないものだとわかる。
さらに試行錯誤を続けると、塩メインの二号や泡石メインの三号より出来がいいのは、泡石が結合剤の役割を果たしていたからだと判明した。
塩より泡石の方が原価安く、今取り扱ってる連中も困らず、かさ増しできるので良いことづくめだ。
「しっかし、こんな簡単ならすぐ真似されそうだな」
「それはどうでしょう。属性術式は三方向から引っ張ることが重要なのでこの組み合わせでなければならず、貴重な塩をこのように使用するのはおそらく世界初です。完成形をご存じのルーク様だから辿り着けたのですよ。そもそも高級塩を油に混ぜようなんて、誰も考えません」
「……なるほど。じゃあ当分は独占できるか」
原因はわからないが、塩の中でも特に高いものしか石鹸にならなかった。そしてフィーネほどの精霊術師でなければ見抜けない相性。そう簡単にたどり着けるものでない。
しばらくは独占販売ができるだろう。
そしてある程度資金に余裕ができたら技術を広める。そうすれば他の企業や工房が真似するし、さらにすごい商品を作ってくれるかもしれない。その流れに乗れば、この世界そのものが少しずつでも豊かになる。
「世界の人達は今食べ物がなくて苦しんでいるのに、そのためにすることが将来のための仕事と健康って矛盾してるよな」
金や食料を差し出した方が感謝されるだろう。偉い人達はこれまでそうしてきただろうし、もし俺達が塩や食料(とも呼べない肉だが)をこんなことに使っていると知られたら、怒る人もいるかもしれない。
だが世界を変えるというのはこういうことだ。誰かがどこかで流れを断ち切らなければ先に進めない。そもそも俺達には即物的な援助はできない。
苦しんでいる人々を見捨てるつもりもない。
「ただ今のままじゃ採算が合わない。魔獣油の搾り方も確立してないし、塩は高すぎる。十個作ったら月給が吹き飛ぶぞ」
「……やはり、私が行くしかないのですね」
「その通り。頼んだぞ、フィーネ」
石鹸の価格設定がどうなるかはフィーネの塩確保に掛かっているのだ。
こうして生まれた石鹸は、美容・健康・金の三味一体となって、我が家に風呂場を生み出す力となった。
「アラン、お風呂よ! 石鹸工場を作るの! 従業員を集めて! 私は明日から近所の奥様方に自慢……じゃなくて広めるわ!」
「お、落ち着いてエリーナ。まずは資金だよ。それに近々レオの高等学校進学と、アリシアの入学祝いパーティも控えてるし……」
「お祝いって名目で成金貴族が押し寄せるだけでしょ! 工場とお風呂が先よ!」
「こ、こら口が悪いよ……スラムに仕事を与えるのは確かに意義があるけど、それもこれも先立つものがあってこそで……」
「そのための石鹸よ!」
鬼気迫る様子で父さんを脅している母さんの姿を見たのは、俺が夜中トイレに起きた時のことだった。