春待ちの恋
歯の根が合わなくなるほど寒い夜。
一人の男が降りしきる雪をザクザクと踏みつけるようにしながら、家路を急いでいた。口から吐き出す吐息は葉巻をふかしたときと同じく真っ白で、息を吸い込めば喉の奥が凍り付いてしまいそうにひりついた。
先ほどから外套の下、騎士服のポケットに突っ込んだ両手の感覚も曖昧になっている。このまま朝まで立っていたらその先に待つのは凍死だ。
こんな日に警邏を任されなくて良かったとは思うが、逆にこのまま屯所で詰めている方が余程楽だったのではないかという気もしてくる。
一時間から二時間交代での警邏に出る必要はあるが、少なくとも屯所には熱い酒と、ストーブの火がある。気のいい仲間と愚痴りあいながら夜を過ごすのも、まあそれなりに楽しい。警邏担当用にと油を塗りこんだ特別製の雪靴もあるし、外套も特別のやつを貸してもらえる。平の身ではひっくり返ったって買えないような高級品だ。
そこまで考え、いやいや、と男は首を振った。誰がこんな雪の日に仕事をしたいものか。ただでさえ独り身で寂しいというのに、夜の町を警邏して歩くともなれば、窓に浮かぶ明りの先に暖かな家庭やら恋人やらを目の当たりにする羽目になる。そんなの御免こうむりたい。
年の瀬を間近に控えた冬の町では、どの家にも明かりが灯されて酷く暖かそうに見えるのだ。だがこれから帰る我が家には男を待つような者は一人もいない。自分で暖炉に火をくべて、温まるしかないのだ。
(頑張れ俺。もうちょっとで家につく。)
ガチガチと音を立てる歯を食いしばり、雪のせいで妙に明るい夜空を一睨み。
さあさっさと家に帰ろうと歩く速度を速めた男の視線が、不自然なものを見つけた。――こんな田舎の国であっても、騎士になるにはそれなりの素質を要求される。男の目はかなりいい。闇夜にあっても敵の矢じりを見つけるくらい造作もないほどである。だが視界に映ったものは、この場にあってよいものではありえず――ごしごし、と何度も目を擦り、それが間違いでないことを悟った瞬間、本気で男の顔から血の気が引いた。
男の家の目と鼻の先辺りに、女が倒れていたのだ――それも、ほとんど素っ裸に近い恰好で。
慌てて駆けだして、男は女を揺すった。反応がない。
「おいっ、おい! 大丈夫か!」
顔面から雪に倒れ込んだままの女を抱き起す。じっとりと濡れた金の髪が女の顔半分を隠していた。それを片手で払いのけ、ぐいと顔を覗き込めば、もう唇は青ざめていた。慌てて首筋の脈を確かめる――良かった。弱弱しくもまだ反応がある。
ああ死んでいない、生きている。一刻を争う状況であることに変わりはないが。しかしそうなると気になるのは、どうしてこんなところに倒れているんだろうか、ということだ。まさか怪我でも――とひっくり返した全身を検めようとした瞬間、視界一杯に肌色が飛び込んできた。そこで相手があられもない恰好をしているのだとようやく思い出した男は、きつく目を閉じ、音がするほどに顔を反らした。
いかんいかん。ドキドキしている場合ではない。
正体不明、あまりにも奇怪な状況だが、家の目と鼻の先で行き倒れた相手を見捨てるという選択肢は男にはなかった。
慌てて外套を脱ぎ、女の全身に巻き付ける。とにかくまずは家に連れ帰って体を温めてやるしかない。命にかかわる怪我はなさそうだし、だとすればまずは体温を上げてやらなければ。医者にかかるにしたってその後だ。
外套でぐるぐる巻きにした女を抱き上げようとしたとき、ふる、と女の瞼が震えるのが見えた。ようやく上がった白い瞼の下からは、宝玉のような見事な緑の瞳がのぞく。だがその美しさに気を取られることもなく、男は大慌てで女に問いかけた。
「大丈夫か!」
「……はち、を……。」
「はち?」
冗談を言っているようには思えない。震える唇が何かを必死で伝えようとしている。もしや何か大切なものでも――と雪の上を確認した男は、そこに植木鉢が倒れているのを見つけた。小さなものだ。男の片手に収まりそうな、素焼きの鉢植え。雪の上に落ちたためか、幸いにも鉢は割れていない。かすかに土が零れているが、それだけだ。
「おねがいします、その花も……。」
花、と女が繰り返す。だが何度確認しても植木鉢には花は咲いていないようだった。だがどうやらこれは、女にとってとても大切なものであるらしい。それきりまた気を失ってしまったらしい女を片腕に抱えたまま、男は植木鉢を拾い上げた。そして、足早に家へと向かって歩き出した。
※ ※ ※
「助けていただき、誠にありがとうございました……。」
ベッドに半身を起こした状態で、深々と女が頭を下げている。男は照れ隠しに頭を掻き、彼女から目をそらした。
あれから三日が経っている。風が吹けば吹き飛んでしまいそうないかにもはかなげな風貌の女は、なんと人間ではなかった。
――この世界には沢山の種族が住んでいる。一番多いのは人間。次に多いのは獣人。さらにその次に多いのが妖精族。それぞれの種族の中にはさらに細かな分類があるらしいが、男はそういう知識に疎い。ともかく、彼女はその三番目に属する人であった。
しかし本来妖精族は他の種族と交わることを嫌い、遠く空を泳ぐ浮遊大陸や、閉ざされた土地を住処にしている。間違っても田舎とはいえ人の住む町にやってくるなんてありえない。それがいったいなぜ。
「どうしてこんなところに?」
当然のように男は疑問を口にした。だが女は困ったように眉を下げ、下を向くばかり。
「質問を変えるぞ。あんたはどうして……その、素っ裸でぶっ倒れてたんだ?」
素っ裸、という単語を口にした途端、枯れるには早すぎる男の脳裡には不可抗力で焼き付いた女のあられもない姿が舞い戻りそうになる。いかんいかんと頭を振って、男は妄想を追い払った。
「私、浮遊大陸に住んでおりました。」
「それで?」
「お会いしたい方がいて……どうしても諦められなくて、定期船に紛れて地上に降りたんです。」
そこで女の緑色の瞳が悲し気に曇る。
「ですが街についた途端、人さらいにつかまってしまって……。」
「街って、まさかここか!?」
だとしたらそいつをとっちめてやるとばかりに意気込む男に気圧されたか、女があわあわと手を振った。
「いえ、違います。もっと大きな場所でした。ここじゃありません。すぐに身ぐるみ剥がされて馬車に詰め込まれて……どのぐらい時間が経ったのか分かりません。この町の傍の峠でなんとか逃げ出して……雪がいっぱい降っていて、とても寒くて……。」
そりゃあそうだろう。三日前はここ最近でも一番多く雪が降った日だ。そんな中、あんな――ほとんど下着姿みたいなもので道端に転がっていたら、そりゃあ寒くもなる。
「……同情はするが、なんて無茶な。一歩間違えれば凍え死んでいたろうし……。」
いや、それ以上に陰惨な結果を招いた可能性だってあると男は口にせず考えた。これだけ美しい生き物だ。変な奴に捕まったらどんな目に遭わされたことか。最初に人さらいに捕まったというのも、なるほどうなずける話だった。
それにしても。
朝日が差し込む家の中で見る彼女は、とにかくこれまで男が出会ったどんな女性よりも美しかった。柔らかそうな金色の髪に緑の瞳。鋭くとがった長い耳。雪でしもやけになってしまったがそれでも柔らかそうな丸い頬。真っ青だった唇は、今はまるで紅を掃いたように赤い。じっと見ていると変な気分になりそうだ、と男はツイと目をそらす。
その先には女が執心していた植木鉢があった。こぼれた土を整え直し、テーブルの上にちょこんと置いた、何の変哲もない植木鉢。あんな状態になっても大事に抱えていたのだ、何かしらそこにも理由があるのだろうなあと男は考えた。
「それで? どこか行く当てはあるのか。会いたい人がいるんだろう? つってもな、冬の間はこの辺りは外の町にすら出られないくらい雪がふるしなあ……。」
困ったなと頭を掻く男に、女は「あの、」と控えめに切りだした。
「あなたがお嫌でなければその……。しばらく私を、こちらにおいていただきたいのですが……。」
「……は!?」
あまりにも予想外のことを言われて、男は面食らってしまった。
「いや、いくらなんでもそりゃマズイ! 俺はまあ、別に好いた女もいないし、気楽な独り身ではあるが、あんたみたいな若い女が男の家に転がり込んでるなんて後でバレたらお互いにいいことないしな!?」
何も疚しいことはないが、かといって誤解されるようなことをするのもどうなのか。外聞が悪すぎる。こんな小さな町では、噂はあっという間に広がってしまうだろう。男には現時点で女をどうこうしようなんて気はまったくない、だが危険は回避するに限る。
「ですが私、本当に行く当てが……。」
「教会でもなんでもあんたが行けそうな場所を紹介してやるから! な!?」
だが女は泣きそうな顔で「お嫌なんですね」としょげ返るばかり。
挙げ句の果てには、
「……でしたら私、出て行きますから……。」
とまだおぼつかぬ足でベッドを降りようとする始末。慌てて男は彼女を止めた。そもそも、医者からもしばらくは安静にと言われているのだ。この状態で外に放り出したらいったいどうなることか。
(少なくとも町中の男どもが片っ端から悩殺されるだけだ!)
格別豊かでもない辺鄙な国の、そのまた辺鄙なド田舎だ。皆気のいい奴ばかり。だから、男どもをしてひとからげに狼の群れ……とまでは言うつもりはないが。それでも彼女をそこらに放り出すのは危険な気がしてならない。
うう、と唸りつつも男は白旗を上げた。元来お人よしの気があるこの男、困った人を放っておけるような性格ではないのだった。昔からそれでトラブルに巻き込まれるのが常なのだが――。
「分かった! 分かったから!!」
「……よろしいんですか?」
よろしいも何も。まさに脅迫に等しい言葉でこの家に居つこうとしているのはこの女の方だ。げんなりと息を吐き出しながら、男は最大限の譲歩をすることにした。
「……冬が明けるまでの間であれば、だが……。」
「! ありがとうございます!」
ぱっと女の顔が輝いた――それこそ、春先に咲く花のように。間近で咲いた笑顔に当てられ、男の心臓が音を立てる。いやいや待て待て。落ち着くんだ俺。いくら女日照りだからといっても、単純すぎやしないか。
バクバクと変な音を立てる心臓をなだめながら、男は名を明かすことにした。しばらくの間同居することになるのだったら、お互い呼び名が分かっていたほうがいい。
「笑うなよ。俺の名前はスノウだ。スノウ・スプリング。……おい。言ったそばから笑うな!」
言ったとたん女が軽やかに笑い始めた。とてつもない美女のくせに、その笑い方はまるで幼い子供のようだ。なぜだろう、不思議とどこかで見たことがあるような……。
男の胸の奥がぽっと熱を持つ。彼女はと言えばスノウの様子に気が付いた様子もなく、実に楽しげに笑っている。
「面白いお名前ですね! 雪と春……ふふっ。」
「はぁ。今までだって散々からかわれてるからもうなんとも思わねえけどよお……。」
がしがしと頭を掻きながら、男は「それで? あんたの名前は?」と問いかけた。女は僅かに姿勢を正し、ニコリと微笑んだ。
「私の名前はローズです。よろしくお願いします、スノウ。」
本名なのか偽名なのか分からない。まあいいか、とスノウは考え、「よろしく」と手を差し出し――すぐに汗ばんでいることに気が付いて慌ててズボンで拭う仕草を、ローズが優しげな瞳で見ていたことなど、緊張に緊張を強いられていたスノウはついぞ気が付かないままだった。
※ ※ ※
見た目の麗しい、しかし素性の怪しい同居人は、あっという間にスノウの日常になじんだ。そもそもスノウはこの町の守護を担当する騎士のうちの一人だ。朝は早くに家を出て、夜は遅くに帰ってくる。ローズと過ごすことになる時間は必然、それほど多くはないのだ。
しかし想定外はそこかしこに転がっていた。
たとえば。
「……あの、料理を作ってみたんですけども。」
ある日の夜、家に戻ると妙にいい匂いがした。懐かしいような香りだ。驚いたスノウがテーブルを見ると、そこには随分と豪勢な夕食が並んでいる。
「これは……?」
「勝手に食材を使わせてもらってしまって申し訳ありません。夜、何も食べずにお戻りになっている様子だったので、少しは足しになればいいかなと思って。」
まじまじと見ればそれは、ここらの土地の郷土料理だった。干し肉を酒で煮込み戻したもの。保存してあった根菜を鍋に入れて煮込んだもの。どれもこれも生前母親が作ってくれた料理とそっくり同じだった。
「……この料理は……。」
「えっと……昔、食べたことがあって。その時のことを思い出して作ったんですけど。スノウ、もしかして怒ってますか……?」
勝手に食材を使ったことを怒られると思ったのか、伺うような上目遣いで見上げられて、スノウは思わずたじろいだ。本当にやめてほしい。恐ろしくきれいな女にこんな顔をされてしまうと、心臓が変になる。
「いや、そんなことはない。有難く頂く。」
「ほんとですか!」
飛び跳ねんばかりにローズが喜んだ。その様子にまたしてもスノウの心臓は変な音を立てはじめ、誤魔化すためにスノウは頭をボリボリと掻く羽目になった。
どうしてこんなものが作れるのか、という疑問は一口匙を含んだ瞬間に吹き飛んだ。料理はまるで亡き母親が作ったもののように美味かった。
ある時、ローズが屯所にまでやってきた。
目立つ髪や耳をフードで隠し、全身モコモコになるほど衣服を着込んではいるが、僅かに見える顔だけでも明らかに目立ちすぎている。いや、どうしてお前外に出てるんだよ、頼むからおとなしくしててくれよと悲鳴を上げそうになったスノウの背中に、同僚がニヤニヤ笑いでのしかかってくる。
「オイッ、スノウ・スプリング! 隅に置けないなあ、お前いつこんな彼女が出来たんだよ!」
「いや、そういうんじゃないって……あだだだ!」
「彼女さん、お名前は? この町の子じゃないよねえ? それにどうしてこんなむさくるしい所へ?」
「あの……私、ローズと言います。スノウが家にこの袋を忘れていたようなので。」
とおずおずと差し出された白い手に載せられていたのは、スノウが日頃肌身離さず持っているお守りが入った革袋だった。慌てて懐を探れば――案の定、ない。
おそらく他人から見ればたいしたものではないのだろうが、その中には両親の遺品とともに、スノウの名前を彫りつけた木の板が収められているのだ。辺境とはいえ騎士は騎士。何か事があれば死ぬこともある。それが領内であれば良いが、たとえば遺体を持ち帰ることが難しい場所だった時。遺体のかわりに仲間に持ち帰ってもらうための、いわば名札のようなものだった。
「済まない……! まさかこれを忘れるとは。」
今まで一度もそんなことはなかったのに、とスノウは己の気のゆるみを恥じた。礼を言って受け取ると、一瞬きょとんと眼を見開いたローズが、ぱあっと満面の笑みを浮かべる。
「いいんです。」
ローズが笑った。それだけで男臭さでむせ返りそうな屯所が、花でも撒いたように明るくなった気がした。恐るべき威力だ。その笑顔だけで何人もの騎士が心臓を押さえる羽目になっている。
「お役に立ててよかったです。」
スノウはと言えば、最初の一撃こそなんとか躱したものの、ひっそりと伏せられたほの赤い瞼にとうとう心臓をやられた。ぐえ、と妙な声を上げたスノウの背中を、部隊長が「この野郎」と言って容赦なくぶっ叩いた。
またある日、スノウはこの日、休暇を得ていた。……と言っても特別やることもない。目が覚めた後もベッドの中でゴロゴロとし、ようやくそれにも飽きて起き上がった頃には昼を回っていた。
今日は随分冷え込んでいるようだ。ストーブの消えた部屋の中、窓の辺りはびっしりと結露に覆われている。布団を押しのけたスノウは、裸のままだった体に手早く下着と衣服を身に着けた。
なんとなく肌寒い腕をさすりながら自室の扉を開け、リビングにたどり着いた時。ふとその向こう、台所に立つローズの背中に目を奪われた。彼女はふんふんとよく分からない鼻歌を歌いながら、実に楽し気に鍋を掻き混ぜているところだった。ストーブの上ではやかんがカタカタと音を立てている。テーブルの中央には、あの訳の分からない植木鉢が鎮座している。おそらくスノウが知らないだけで、いつも通りの光景なのだろう。
窓の外は一面の吹雪だ。出勤していてもおそらく警邏などやりようがないほどの。――だが、部屋の中は暖かい。彼女が、ローズがいるから。彼女が家に火をともしてくれているから。
誰かと暮らすって、こんな風だったのかとスノウは思った。両親が生きていた頃は確かにこんな風だったかもしれない。両親の不在に慣れ、一人に慣れた――そう思っていたけれど。
いや、しかし。
彼女は、いずれここを出て行くのだ。――そう思った瞬間の心もとなさよ。
出会ってから一月も経っていないのに。スノウは、文字通り愕然とした。
「あら、」
とローズが振り返った。適当にまとめられた金の髪がふわりと揺れて、緑色の瞳がいとおしげに細められる。そんな顔をされると困る。勘違いをしそうになるじゃないか。
(会いたい人がいるんだろうに……。)
そしてそれは俺ではない。スノウは静かに己の心臓に語り掛ける。静かにしていてくれよ、と。
「おはよう、スノウ。よく眠れました?」
「……ああ。」
「お昼に間に合うようにスープを作っていたんです。よかった、もうすぐ食べられるから丁度いいわね!」
絵本の中のお姫様もかくやというほどに美しいくせに、ローズの笑顔はいつだって子供のもののように屈託ない。似つかわしくなさそうなそのアンバランスさに、しかしどうしようもなく惹かれてしまう自分がいることを、最早スノウは否定しきれなかった。
※ ※ ※
「雪があまり降らなくなりましたね。」
「そう言えば三日降っていないな……そろそろ雪が明ける時期かな。」
ある日の夜の会話だ。帰宅したスノウは、ローズの質問にそんなふうに答えた。この辺りの地方では、雪が降らない日が一週間続くようになると、冬の明けはじめに差し掛かる。長く続いた冬が明け――その先に待つのは、短くもうららかな春。涙が出るほど待ち遠しい、愛おしい季節だ。
「冬の間はなんにもない場所だが、春になれば祭りがある。花を撒いて祝うんだ。」
花籠を作り、町中に花を撒いて春を祝うお祭りだ。都会の祭りに比べればささやかなものだが、その日は文字通り、町中すべてで春を祝うことになる。かつて両親が存命の頃は、母親も花籠を手に町を練り歩いていた。父は広場に設けられた祭壇で、若衆と一緒に踊っていた。花を撒くのは女の役目。踊りを奉納するのは男の役目。
きっとローズには似合いの季節だろう。花に囲まれて立つ彼女を想像すると、スノウの胸はシクリと痛んだ。彼女には目的地がある。この町を、遠からず旅立つことになるだろうから、そんな姿を見ることはできないわけだ。
(最初は、さっさと春が来ればいいと思ってたはずなんだがなあ……。)
冬は人に寂しさを突きつける。冷たい冷気とともに押し寄せる雪が死を匂わせるのがいけないのだろうか。雪の中倒れ伏していた彼女を助けたあの日から、思えば遠くに来てしまったものである。
「まあ、あとひと月はかかるだろうが……春になればあんたも探し人のところに行けるな。」
「そう、ですか……。」
スノウの言葉に、なぜか彼女が打ちひしがれたような顔をした。
それからというもの、彼女の様子が変わった。
あれほど浮かべていた弾けるような笑顔は失せて、代わりに痛々しい、悲しみの混じった泣き出しそうな笑顔を浮かべることが増えた。いったい何が彼女を悲しませているのか。あるいは苦しませているのか。この家からほとんど外に出ることのない彼女に何かした相手がいるとしたら、それは十中八九スノウしかありえず、しかし思い当たりがまったくないためにスノウは頭を抱える羽目になった。
一度、なけなしの勇気を振り絞ってローズに尋ねた。
「俺はあんたに何かしちまったのか?」
「は……?」
ぽかん、と目を見開いたローズは、しかしややあってから悲しげに瞼を伏せた。冬の日、同じように伏せられた瞼に心臓をやられたスノウだが、悲しげな様には胸をえぐられる心地だった。
それでも何とか沈黙に耐えきったスノウに、ローズが静かにこう言った。
「……あなたは、何も。」
「何もないわけないだろう。」
「いいえ。」
「嘘なんかつかなくていい。お前、基本的に外に出てないんだから、俺が何かやったか言ったかしかありえないだろうが。」
スノウの言葉に困ったように視線をうろつかせたローズは、やがて諦めたようにため息を吐き出した。
「本当に何もないんです。ただ……そうね、もう春が来るんだなって……。」
「春が来るのが嫌なのか?」
素朴な疑問だった。何の疑問も持たず口にしたその言葉で、まさかローズの瞳から大粒の涙が零れ落ちるなんて夢にも思わなかったのだ。みるみる緑の瞳が水に沈んだように潤み、眦から頬までが真っ赤に染まる。
「出て行けって……そういうこと、ですよね……。」
ドクン! と今まで感じたこともないほど心臓が音を立て。だからこそスノウの反応が遅れた。
慌てて彼女の腕を掴もうとしたがもう遅い。思いもかけぬ素早さで身を翻したローズが、宛がわれている部屋に飛び込んでいくのを、スノウはただただ茫然と見送ることしかできなかった。
ガチャリ、と鍵の音が響く。薄い扉の向こう、彼女が泣いていることは分かったが、この扉を蹴破るような真似は出来なかった。
(拒否されたのか。俺は。)
一気にしんと静まり返ったリビングで、スノウはよろけながら椅子に座り込んだ。酷い気分だ。女を泣かせた――それも、大切にしてやりたいと思うようになってしまった相手を。心臓がじくじくと痛みを訴え、背筋には冷たい汗が伝い落ちる。ああ、死んでしまいたい。辛い。泣きたい。それでも涙は出ない。両親が流行病で立て続けに息を引き取った時もスノウは涙を流さなかった。涙なんて枯れたものだと――だが、それが尚更に、今は辛い。
しばらくの間、そうしてスノウは心臓の上を抑えたまま、ひそやかに息をしていた。ゆっくりと意識的に呼吸を深め、時間をかけ、ようやく、顔を上げられるまでにかなりの時間を要した。
気が付けば日が傾きはじめていた。いつもならばローズが食事の下ごしらえを始める時間だ。だが今日は無理だろう。後でパンでも買ってこなければ。
ふと持ち上げた視線の先に鉢植えが見えた。テーブルの中央に鎮座する鉢植えは、相も変わらず何の変化も見せないまま、静かにそこにいる。春が迫っているとはいえ、まだまだこの辺りは寒い。暖かくなれば何か芽を出すのかもしれないが、今のところその兆しは欠片も見えない。
手慰みに素焼きの縁を人差し指でなぞりながら、スノウはため息を吐き出した。
「……ローズ。」
それは一度たりとも口に出して呼べたためしのない、彼女の名前だった。忘れたわけではない。だが、呼んでしまったらもう自分の気持ちが抑えられなくなる気がして、呼べないままでいたのだ、
こうして口にしてみると、触れがたいほどの美人のくせして、子供のように無邪気な彼女に、花の名前は酷く似つかわしいように思えた。だが彼女の名前を呼んでしまったら、きっとスノウは戻れなくなる。
いや、もう手遅れなのだろうか。だって心臓がこんなに痛い。彼女の不在を想像するだけで、こんなにも。
「ローズ……俺は、」
※ ※ ※
雪の降る日はみるみる減っていった。
間が三日開き、五日開き……ある時、とうとう雪が一週間ピタリとやんだ。まだ空気は冷たいが、吹く風はかすかに柔らかくなっている。雪に閉ざされ凍り付いていた大地がほどけ始めて、雪の下からは土の色がのぞくようになった。
そんなある日。
「春だねえ。」
「春だ、春。」
「祭りの支度もそろそろ始まるし……なあ、スノウ。ローズちゃん、どうすんの?」
「どうするって……。」
屯所でのいつもの世間話の折、仲間から投げかけられた疑問にスノウはぎくりと背筋を凍らせた。
「だってよお、結婚式やるんだったら断然春だろ? この辺り、春を過ぎたらあっという間にまた冬に逆戻りだしよぉ。」
「俺とあいつは別にそんなんじゃねえよ……。」
結婚なんて。とてもじゃないがありえないことだとスノウは自嘲した。
あれから半月ほど、ローズとは気まずい状態が続いている。会話の数は減り、明らかにローズはふさぎ込んでいる。まったく事情が分からないが、ローズを泣かせたのはスノウだった。
「はあ?」
男どもが一様に呆れた顔をした。
「……唐変木もここまで来ると罪深いな。」
「え? 何? まさかお前、スノウのくせにローズちゃんは遊びだったとか?」
「家に置いてやってるんだろ? まさかなんとも思ってない、なんてことは……。」
「あいつは、」
ああでもないこうでもないと騒ぎ始めた面々に、スノウはぴしゃりと言った。
「あいつはな、どうしても会いたい奴がいて、わざわざ故郷を出てきたんだ。変な噂立てるんじゃねえよ。」
珍しく不機嫌なスノウの言葉に、さえずりはピタリとやんだ。しかしそのうちの一人が納得いかないという表情で首を傾げる。
「……いや、なんかお前勘違いしてるみたいだから言うけど。確かローズちゃん、お前に会いに来たんだって言ってたよ?」
まさか何も聞いてないの?
スノウの頭の中が真っ白になった。
「ローズ!」
最低限の書類仕事だけ片づけ、すぐに自宅に取って返したスノウは、家の扉を開けるなり彼女を呼んだ。――だがおかしい。家の中はしんと静まり返っていて、火が焚かれた様子もない。リビングのテーブルの上にはいつも通り、あの植木鉢が静かに鎮座している。
「ローズ! いないのか!」
台所、風呂場、食糧庫。どこにも姿は見当たらず、スノウは自分の部屋の扉を開ける。当然そこにも彼女はおらず……ええいままよ、とスノウは彼女に貸し与えていた一室の扉を開けた。
――いない。貸し与えた当時とほとんど変わった様子のない部屋に、しかしローズの気配がない。……彼女が外に出ることは稀だ。厳しい冬の寒さが、慣れない人間に与える影響が心配だったこともある。それに、一番心配なのはまた人さらいや何かに目を付けられてしまうこと。あれだけ目立つ容姿をしているのだから用心するに越したことはなかろうと、ローズにはできる限り家の中で過ごすように伝えていたのだ。
その彼女がいない、となると。
「外か……!」
それしかありえない。
開けた扉を閉めることもせずに、スノウは走り出した。やはり開けたままの玄関を飛び出した瞬間、鼻先に触れた冷たい気配に、スノウの全身が凍り付いた。
空がいつの間にかどんよりと曇り、雪が降り始めている。朝は晴れていたのに――。
「まずい!」
春先、雪が降らない日が多くなる頃に、突然大雪が降ることがある。果たして彼女はそれを知っているだろうか。……いや、説明した記憶もない。きっと知らないはずだ。
※ ※ ※
季節外れの大雪は、あっという間に町を覆い尽くした。騎士の屯所には「子供が外から戻らない」とか、「馬車が泥濘にはまって動けない」とか、あれよあれよという間に大量の依頼が舞い込む。
家を飛び出したスノウは子供の捜索にでる一団と合流し、ローズのことも探してほしいと頭を下げた。
「まじか、ローズちゃんも!? この辺の子供らは雪のやり過ごし方も分かってるからまだいいが、あの子は……。」
「ああ。どこかでぶっ倒れてないといいが。」
言いながら脳裏をよぎるのは、出会った日の彼女の姿だ。糸の切れた人形のように雪の上に倒れた白いからだ。運よくスノウが見つけたから良かったようなものの、もしも見つけなかったら今頃彼女は物言わぬ骸と化していただろう。
「やべえな。とにかく手分けして探そう。どこか行きそうな場所に当ては?」
「ない……。」
「クソ、土地勘ないんだろ? いよいよまずいな……山の方とか行ってないだろうな? なんかないのかよ? 心当たりとか……。」
同僚の言葉に、そう言えばとスノウは思い起こした。
『お会いしたい方がいて……。』
同僚の話を信じれば、会いたい人というのはスノウのこと。
『出て行けって……そういうこと、ですよね……。』
だが、あの日の彼女は泣きそうな顔で、そう言っていなかったか。彼女がもしもこの町から飛び出そうとしたらどうするだろう。
確証はない。だがもしも……もしもこの町を出て、故郷までの定期船が出る街まで戻ろうと考えたとしたら?
「部隊長。この辺りを通ってる街道ってありましたっけ。」
「んあ? 峠の一本しかねえと思うけど……。」
「たぶんそれだ……!」
数名の同僚とともに駆けだしたスノウが彼女を見つけたのは、それからほどなくのことだった。
着の身着のまま、手荷物すらない。あの時と同じように、彼女は雪の中に倒れていた。
「医者の先生、手が離せないんだ。夜半過ぎになるかもしれねえ。とにかくまずは体をあっためてやれ。怪我はしてなさそうだし……。」
「スノウ! うちのカミさんからの差し入れだ! 台所に置いとくから、あっためて食えよ!」
「悪いな、助かる。」
「服は……脱がせた方がいいな、このままだと体温が上がらねえだろ。俺らは外に出るから……。」
「後で手が空いたカミさんたち連れてくるから! それまで頑張れ!」
同僚がバタバタと去った家の中、スノウはガンガンにストーブを焚いたリビングの床に彼女を下ろした。下にはいくつかタオルを敷いたが、それもすぐにじっとりと濡れてしまう。
「死ぬなよ……。」
冷たい頬。青ざめた唇。金の髪は重く湿り、どこに触れても氷のように冷たい。――だが、まだ生きている。死なせてやるものか。
濡れた衣服を脱ぎ捨てて手早くタオルで水気を拭い、すぐに彼女の衣服にも手をかける。躊躇いは一瞬のこと。恥ずかしがっている場合ではない。
あっという間に生まれたままの姿に変わった彼女の体は、どこもかしこも凍えるように冷たくなっていた。涙が出そうになる。なるべく見ないようにと努めながら、スノウは濡れた彼女の体を大きなタオルで拭ってやった。
ようやく水気が取れたところで、彼女の体を裸の胸に抱き込んだ。そうして二人の全身を覆うように、上から分厚い毛布を幾重にも背負いこむ。
ぱちぱちと薪が爆ぜた。部屋の中は暖かいどころか、少々暑いくらいである。だというのに、はじめて生身で抱きしめた彼女の体温は氷のように冷たくて泣けてくる。
「頼むから……。」
頼むから死んでくれるな。
男は祈った。両親が死んだ時でさえ祈らなかった神様に向かって、何度も何度も。まだ何も彼女の口から聞いていない。どうしてスノウなのか。あの植木鉢は? 春だってこれからだ。花に囲まれて笑う彼女はきっと美しいに決まっている。死なせるわけにはいかない。
――いや、この際もうはっきりと認めよう。彼女がいなくなったら嫌だ。スノウが嫌なのだ。向けられる笑顔に胸が疼く。甘い痛みを無かったことになんて、できない。惹かれているのだ。過ごした時間は短くとも、引き剥がされてしまったらスノウの心は今度こそ死んでしまう。
「置いていかないでくれ、ローズ……。」
※ ※ ※
危ない所を脱し、ローズが目を覚ましたのはそれから一週間後だった。
今回は本当に危うかった。何度も何度も危ういところを行ったり来たりしながら、しかし元来丈夫な娘なのだろう、ローズは結局、死なずに済んだ。
「……あの……わたし、どうして……。」
「ばかやろう……。」
どっと疲れと安堵が押し寄せた。彼女が眠るベッドの傍らで、さめざめとスノウは涙を流した。
ローズが目を覚ましたことはすぐに町中に知れ渡った。彼女が目を覚まさない間、町中の人がかわるがわるスノウの家を出入りしていたので、最早彼女がこの家にいることは秘密でもなんでもなくなってしまっていたのだ。
「良かったな。」
容体が安定してきたことを確認し、ようやっと仕事に出てきたスノウに、同僚の一人がしみじみと声をかけてきた。随分永らく職場を離れていたのに、皆一様にスノウとローズのことを心配してくれている。気のいい奴らだ、とスノウは思った。思わず胸が熱くなる。
あれからどうも涙腺が弱くなった。ローズの寝息を確認した時。誰かの心遣いを感じた時。地面の上、溶けかけの雪の狭間に花のつぼみを見つけた時。空が遠くまで雲一つなく晴れ渡った時。スノウの涙腺は情けなくも緩んでしまう。これまではまったく凍り付いたようだったのに。
「で? あの話、確認したの?」
あの話、というのはローズの探し人がスノウだったというあれのことだろう。
「いや、まだ……。」
「さっさと確認しておきなよ。春になって、ローズちゃんに逃げられたらお前、どうすんの。」
言われた言葉にぞっとした。あっという間に仕事を放り出して駆けだしていったスノウの背中に、同僚が呆れたようにため息をつく。
「……いや、もうそんなことないだろうとは思うんだけどね。」
「しかしあんにゃろうめ。仕事放り出していくとはいい根性だ。――いいのかねえ、ローズちゃんも相手になるのがあんなので。」
「蓼食う虫もって言いますから。でも、まぁ出世が望めるタイプではないけど、大事にはしてもらえるんじゃないですか? うちのカミさんはそういうのが一番大事だって言いますよ。」
「さりげなくのろけやがった!」
※ ※ ※
「ローズ!」
いつぞやの時と同じようにバンと扉を開いたスノウの目に、驚いたような顔のローズの姿が飛び込んできた。どうやら食事の支度をしていたらしい。慌てた様子で玄関までやってきた彼女は、上から下までスノウの様子を検めてからことりと首を傾げた。
「どうかなさいました? まだお仕事のお時間では? あっ。玄関開けっ放しじゃないですか! 閉めなくっちゃ、もう……。」
「お前、寝てろって言われただろうが! いや、そんなことより!」
横を通り過ぎようとしたローズの手首をガッシと掴み、スノウは叫んだ。驚いたようにローズの緑の瞳が見開かれる。
「そんなことより、聞かせてくれ。……お前の探し人は、俺だったのか?」
スノウの言葉に一層驚いたような様子を見せながらも、ローズはふ、と息を吐き出した。
「分かりました。お話しします。」
リビングの椅子に腰を落ち着けたところで、ローズが切り出した。
「……あなたは覚えていないと思いますけど。私、あなたに会ったことがあるんですよ。随分昔ですけれど。……あなたのお母様がご存命の頃ですから。」
「……十年以上前じゃねえか。」
その頃のスノウはせいぜい十代前半だろう。母親が亡くなったのは十五の時だ。記憶の山を漁ってみても、目の前の彼女に通じそうなものは何一つ引っかからない。
「私も小さかったですから。覚えていらっしゃらないのは当然ですよ。当時の私はまだ八歳でしたもの。」
八……とそこから指折り十年を数えてぎょっとする。随分と大人びて見えていたが、目の前の彼女はまだ十代ということか。下手をしたらスノウとは七歳近くの歳の差があることになるではないか。一歩間違えば犯罪だ。
まじかよ、と天を仰いだスノウに気が付いた様子もなく、彼女は静かに先を続けた。
「たまたまやってきた町で迷子になってしまって……泣いていたところを助けてくれたのが、あなただったんです。」
「まったく記憶にない……。」
少なくともこんなに見目の良い娘だ、小さな頃だって相応に美しかったことだろう。そんなものを目にしていれば、さすがのスノウとて忘れたりしなそうなものだが。唸るスノウに、彼女はクスリと笑った。
「仕方がないですよ。だってスノウ、あなた昔から同じように人助けをしてましたものね。そのうちのたった一度のことです、普通は忘れます。」
「どうしてお前がそんなこと知ってるんだ……?」
まるで見てきたかのように。ローズはまた小さく笑って、種を明かした。
「しばらくあなたのご家族と一緒に生活した、身寄りのない子供を覚えていませんか? それが、私です。」
――それは、覚えている。
スノウはその当時、両親と一緒に大きな街で暮らしていた。ある日市場に行った帰り道、通り沿いにぺたんと腰を下ろし、泣いていた子供に気が付いたスノウは、引き取り手が見つかるまでと親を説得して子供を自宅に連れ帰ったのだ。両親があっさり折れてくれたのはたぶん、もともと彼らが田舎の人だったからというのが大きいような気がする。むしろ都会では田舎のような人づきあいはあまりなくて、両親やスノウのおせっかいはつまはじきにされることが多かったのだが。善良な田舎者だった彼らは、明らかにこのまま放っておいたら死んでしまいそうな子供を無視することができなかったのだった。
衣服は薄汚れ、見ただけでは男なのか女なのかもわからない、緑色の目をした子供。風呂に入れてやり服を着せてやったところで辛うじて女の子だとは分かったが、そう――確か彼女の髪は。
「赤っぽい色をした髪だったような記憶があるが……。そうだ。それで名前を……って、あああああ!?」
ぼふ、とそれこそスノウの全身が音を立てたのではというほどに熱くなる。名前さえ覚えていない彼女に仮の名前を与えたのはスノウだった。当時母親が趣味にしていた花の名前を取って、ローズ、と。
「全然見た目違うじゃねえか! どうなってるんだ!?」
混乱のままに叫んだスノウに、申し訳なさそうにローズが言った。
「あなただって子供の頃とは髪の色が違うじゃないですか。……年を取るとそういうことってあるでしょう? 私の場合、髪の色が抜けて、金色に近い色に変わってしまったんです。」
「変わりすぎだ!」
「スミマセン……ええと、それで。しばらくしてご両親の働きかけのおかげで浮遊大陸まで戻してもらえたんですけど、やっぱり身内が誰なのかは分からなくて。私はこの年になるまでずっと、教会で生活していました。」
最初は家族を探そうと思ったのだという。スノウや両親の姿を見て、家族の元に戻りたいと思った。だが、まだ小さな子供だった彼女を探す両親はついぞ現れず、また彼女も両親の絵姿などを持っていなかったこともあり、記憶が薄れるにしたがってその希望は小さくしぼんでいった。
「それからは平和なものです。ごくごく静かに何年も経って……でも去年の春頃に、私のことを娶りたいという人が現れまして。酷い話ですけど、私の見た目が気に入ったのですって。教会の孤児を娶ろうなんて、すごく珍しいことなんですよ。それ自体はまあ、光栄なことです。ですけれど……。」
その時に思ってしまったのだ。もう一度あの人たちに会いたい、と。
「浮遊大陸から地上への船は、限られた人しか載せてもらえません。こっそり船に潜り込んで地上に来てからは、かつてのあなたの家を探しました。……でも、」
「俺たちは引っ越していなくなった後だった、と。」
「ええ。お母様が具合を悪くされてから、すぐにお父様の出身地に戻られたということだけは確認ができましたが。」
「で? 向かってくる途中に――。」
「はい。人さらいにつかまってから先は、あなたにお話した通りです。」
「随分無茶するよなあ……。」
はあ、とスノウはため息を吐き出した。
「でも、どうしてそんなこと? いや、会いに来てくれたのは嬉しい。でも、どうしてそこまで……?」
「いやだったんです。」
「は?」
「いやだったんです。私……あなたにどうしても会いたかった。教会を出て、結婚をしてしまったら、きっと二度とあなたたちには会えないと思いました。地上と浮遊大陸はほとんど断絶しています。あの日私を助けてくれた男の子にもう一度だけでいい、会って、話をしたい……でもその機会はもう二度とめぐってこない。私が自分で飛び出さない限り。」
俯いた彼女の眦から、一筋の涙が零れ落ちる。
「ずっと、ずっとあなたに会いたかったの。迷惑になるかもしれないと思ったけど我慢できなくて……。まさかこんな形で再会するなんて思っていなかったけど、あなたと一緒に過ごせるかもと思ったらもう、なりふり構っていられなかった。あなたはとても寂しそうに見えたし……。」
「俺が?」
「ええ。ご両親がいた頃のあなたとは、全然違った。見た瞬間にあなただって分かったけど、家の中がすごく、すごく寂しくて……。春まではここに居てもいいってあなたが言ってくれたから、私、自分に言い訳をしたわ。それまではここに居て、あなたと笑って過ごそうって。だってどうせ春までは帰れないんだもの。それまでだけなら、きっと神様もお目こぼしをして下さるわって。」
言われて、スノウはリビングを見渡した。
言われて見れば、そうかもしれない。両親が残した荷物は、ほとんど欲しがる人にあげてしまったし、自分の持ち物は最小限しかない。
ローズが来てから、確かにこの家は変わった。家の中のどこから引っ張り出してきたのか、母親が遺していたテーブルクロスがかけられ、余り布で作られた人形が並べられるようになった。使われないまましまわれっぱなしだった調理器具が掘り起こされて、ローズの手でぴかぴかに磨き上げられた。ローズはそれらを器用に操って、まるで亡き母が作ったものと同じような懐かしい料理を振る舞ってくれる。
かつて父と、母と囲んでいた食卓が――生活が。
懐かしい家が、戻ってきたかのようだった。
「私にとっての理想の家族ってね、あなたたち家族のことなの。ご両親にお会いできなかったのは残念だけど……。だからあなたが、少しずつ笑うようになるのが、一緒に居られるのがとてもうれしくて、離れがたくて……。ううん、たぶんそれだけじゃない。私はずっとあなたのことが忘れられなかった。
でも私には戻らなくちゃならない場所がある。いつまでも教会のお世話になる訳にもいかないし。時間切れよね、もう。」
そう言って一度笑ってから、ローズは静かに胸の辺りで指を組んだ。その細い指が微かに震えている。
「……ねえ、スノウ。お願いがあるの。」
「なんだよ。」
俯いたままだった彼女が顔を上げる。泣きぬれた頬にまた幾つもの涙が伝い落ちていくのを見つめながら、スノウは彼女の言葉を待った。
「お願い。もうこれで帰るから。もう二度と会いに来ないから。だから……私の、名前……あなたが付けてくれた私の名前を、ローズって、もう一度だけでいいから呼んで……!?」
心臓がギリギリと締めつけられた。たまらず椅子を蹴倒す。飛びつく勢いで立ち上がり、スノウはローズを椅子ごと抱きしめた。
なんて奴。なんて奴。なんて奴だろう!
「馬鹿野郎が!」
「!」
耳元で叫ばれて驚いたのか、腕の中の彼女がびくりと震える。なんて奴だ本当にとんでもない!
「どうして帰りたくないって言えねえんだよバッカ野郎!」
「……だって、」
あなた、すごく迷惑そうだったじゃない、とローズが涙ながらに訴えるので、スノウはああこん畜生と一方の手で頭を掻きむしった。顔はもうこれ以上ないほど真っ赤になっているはずだ。とても他人には見せられない。
ローズ以外には。
「ローズ。」
胸の中のすべてを吐き出すように、名前を読んだ。思いのほか切羽詰まった声に、ひゃ、と腕の中で彼女が震える。
「ローズ。お前がいなくなったら俺はどうすればいい。死ねっていうのか。」
「な、なんで……?」
「みんな死んだ。ようやく誰もいないことに慣れたってのに、お前ってやつは……。」
ローズは自らスノウの元に飛び込んできたのだ。覚悟がなかったなんて言わせるものか。心臓はばくばくと早鐘を打ち、早く早くとスノウを急かす。
今なら羞恥で死ねそうな気がする。
だがもう何だっていい。お前がここに居てくれるなら、それだけで。
「お前がいなくなるなんて、嫌だ。」
ここに居てくれ。柔らかな髪に顔を埋め、渾身の想いを込めて囁く。
「ローズ。恥ずかしくて死にそうだから、一度しか言わねえからな。俺は、お前が好きなんだ。」
長い、長い沈黙――。答えのかわりに与えられたのは、涙の味がする口づけだった。
※ ※ ※
冬のあとには、春が来る。
花祭りの時期を迎え、小さな町は歓喜に沸いていた。
「ローズちゃーん! 綺麗だよー!」
「クッソ、まさかスノウに先を越されるなんて……!」
やんややんやと祝福を受けながら、二人は手を繋いで歩く。二人の他にも何組かのカップルが、同じように歩いていた。周囲の人からは花びらと拍手を投げかけられ、そのたびに皆の顔から笑顔が零れる。
短い花の盛りは、恋の季節だ。この町では、この時期に結婚式を行うのが慣例になっている。突然決まったスノウとローズの結婚は、当然のことながら突貫で準備が進められることになった。同僚の奥方達が嬉々として手伝ってくれたおかげで、今日のローズはシンプルながらも美しい、白い花嫁衣裳に身を包んでいた。
彼女の片手には、あの鉢植えがある。最近、春の訪れとともにようやく新芽をのぞかせた鉢は、かつてスノウの母が育てていた薔薇の種を植えたものだと聞いた。別れの際に貰った種を、彼女は後生大事にとっておいたのだそうだ。それを、去年の秋にひっそりと鉢に植えた。この鉢植えが芽を出すまでだけ、スノウを探すつもりで。
妙な行動力がある反面、そういうところは、ひどくいじらしいと思うのだが――今後そういう心臓に悪い秘密は無しにしてほしいと思うスノウである。
「スノウ。」
「ん?」
くいと手を引かれ、スノウはローズを見て――真っ赤になった。今日も彼女は美しい。教養もそれほどなく、語彙もそれほどない。唐変木のスノウにはそれ以外の形容詞が出てこないが、本当に彼女は美しい。
かつての自分をほめちぎってやりたい。お前のネーミングセンス、くっさいけど正しかったぞと。
花嫁から突然贈られた愛のこもった口づけに、スノウは我慢しきれず彼女を横に抱き上げた。花よりもいっそう美しく、ローズが笑った。ああ、本当に美人だとは思うが――スノウが一等好きなのは、彼女のこの、子供じみた笑顔なのだ。
「愛してるわ!」
「バッカ野郎!」
照れ隠しに頭を掻こうとしたが両手がふさがっていてそれもかなわない。
ええいままよ、とローズの唇に口づけた途端、周囲の歓声が大きくなった。春風が流れる花弁を巻き上げて、青い空へと一直線に上っていった。
行き倒れの娘を助け、恩返しされるようなお話を目指して書いたのですが、仕上がってみたら想像以上に恋愛してました……おかしい……。
雪国生まれの親に、春先は涙が出るほどうれしいと感じる、という話を聞いたことがありまして、そのイメージと、上記の童話イメージを重ね合わせたところからこの話が出来ました。
どうでもいい補足。
●スノウ・スプリング
二四、五くらい。いかつい兄ちゃん。当然髪の毛は短い。黒髪イメージですがちっちゃい頃は色が薄くて茶色っぽかった。ぱやぱやな髪が成長したら剛毛になってた、みたいな。
ごつくて言葉遣いも乱暴な、まったく可愛くない感じのイメージです。そういう人がこういうことを頭の中でぐるんぐるん考えていたらすごい可愛くないですか。主人公なので、無口にし過ぎないように割と気を配りました。
スプリング=春、と作中では書きましたが、某テクノポップアイドルの曲でスプリング=バネと春をかけているものがありまして、そこから決めました。ファーストネームをスノウにしたのは、出オチっぽくていいかなという理由です。
ローズに再会した時、彼女をかつてのローズと分からなかったのは、彼が相手の顔の美醜に興味が無いからだったり。それでもローズという名前をつけてあげた辺りに、当時の精一杯感が出てればいいなと思ったり。
基本照れ屋なので素直に愛を示せない人ですが、ローズが押せ押せ&スノウの心情は態度でバレバレなのでなんの問題もないと思われます。末永く爆発してください。
●ローズ
本名不明の美女。記憶を失って放浪していたところをスノウに助けられて以来、ローズと名乗っているという設定。彼女の名付け親にして初恋の人がスノウ。実は一七歳くらい。もう一歩間違えるとスノウは犯罪者になるところだった。笑顔が子供っぽいのは実際若いからです。
本文がスノウ視点なのでほとんど描写はありませんが、金髪緑目の激烈な美女。髪の毛は肩より長めで、ちょっとふわふわしている。平均的な身長ですがボンッキュッボン。本人まったく望んでいないのに、普通に微笑むだけで妙なストーカーを量産してしまうことさえある、気の毒な身の上。
顔や体目当ての相手が多すぎて、スノウや町の人の素朴さには胸を打たれるところがあった。
初恋の君を引きずり、無計画にも故郷を飛び出してきた。スノウと会えなかったらどうするつもりだったんだ。
妖精族って書いてますが、イメージ的にはエルフさんです。