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 帰宅し自分の部屋に入ろうとすると、向かいにある姉の部屋からアコースティックギターの音色が聞こえてきた。那須野は姉の部屋の引き戸を開ける。姉はベットに腰かけギターを弾いていたが、那須野の姿を見付けると手を止めて顔を上げた。真っ赤な髪をかきあげる。

「おいおい、ノックはしろって何時も言ってんだろー。姉弟同士とはいえプライヴァシーは守ろうぜー」

 姉はベットの脇にギターを置きながらおどけた調子で言う。那須野は何を言うでもなく、ただ部屋の入口の所に立ち尽くしている。姉は何かを感じ取り、幾分柔らかい口調で言う。

「ん? どした、何かあったか? ま、取り敢えずこっちきなよ」

 姉に促されるままに那須野はドアを閉め、ベットに座る姉の横に腰かける。

「どしたんよ、元気ないなー。このお姉様が話聞いてやっから言ってみ?」

 那須野は何が言いたいのか自分でもよく分からず、口を開きそうになるがすぐに止まってしまう。何度かそれを繰り返したが、姉はただ横で那須野の顔を見つめ、黙って待っていた。那須野はどうにか頭の中を整理しようと試みるが、どうにも言葉にするには至らない。それでもどうにか、絞り出すように言葉を吐き出す。

「姉貴はさ、もし、魔法が使えたらどうする? 何でも叶えてくれる、便利で都合のいい魔法。ただし、一回しか使えないんだけど」

 姉は間髪を入れず答える。

「私なら、そんなの使わないね」

「え?」

「絶対に、使わない。だってさー、おもろくないじゃん、そんなんで望みを叶えたってさー。私が私でいる理由がこれっぽっちもいらないじゃん、そんなの」

「そう、なのかな?」

「ま、私の場合は、だけどね。私の考えを他人に押し付ける気なんて毛頭ないよ。それが血を分け合った姉弟だとしても、ね」

 姉は足を投げ出しばたばたさせる。長い赤髪が揺れ、窓から差し込む陽の光がそれを輝かせている。

「それにさ、私はもう、魔法を使えるんだ」

 そう言って姉は横にあるアコースティックギターと、窓際に立てかけられているエレキギターを指差した。そのエレキギターは、フェンダー・テレキャスターという種類のギターだと以前那須野は教わった記憶がある。

「こいつらがあればさ、私は何者にもなれるんだ。ヒーローにもなれるし、モンスターにもなれる。魔法の杖代わりだよ。私は、これさえあれば、もう何もいらない。だから私には魔法なんて必要ないんだ」

 微かに那須野の身体が震える。

「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ……。俺には何もない! 魔法も、ギターも、何もない! でも、何かをしなくちゃいけないって思いだけはずっと頭と心で渦巻いてんだ! なあ姉貴、俺はどうすればいい? 俺は一体どうすれば姉貴みたいになれるんだ?」

 切羽詰まった那須野を見て、姉はふっと笑う。那須野の頬を優しく手でつまむ。

「バーーーーーカ」

 頬をつかむ手に力が加えられ、那須野に苛烈な痛みが走る。

「いてててててててて! 痛いって!」

 手を振り払い立ち上がった那須野は涙目になっていた。

「人が落ち込んでるってのに何すんだよ!」

 姉は足を組み、右手の小指を鼻の穴に入れほじくっている。

「うっせーなー。そんなもんよー結局自分で探すしかねーんだよー。自分が何者か分からない? 何をしたらいいか分からない? そんな糞くだらねーこと考えてる暇があったら足掻け、足掻け、足掻け! みんなそうやってどうにかこうにか自分ってやつを獲得してくんだよー」

 那須野は姉から目線を逸らす。

「でも……」

「かーっ、まだウジウジ考え込んでのか? お前は生粋の馬鹿なんだからさーどんだけ考えたって無駄なんだよ。そんな時は身体を動かせ! ギターを弾け! バットを振れ! 走り出せ! さーさーどれがいい?」

 姉はゆらゆら立ち上がると壁にもたれていたエレキギターを手に取った。そして思い切り振りかぶり、那須野の脳天めがけて振り下ろす。上体を逸らした那須野の目前をギターが通過する。フォンっという風切り音と共にギターが床に叩きつけられる。グォンっと鈍い音がする。

「危ねえじゃねえか!」

 那須野が姉を見ると、何というか、そこにはイッちゃってる目をした姉がいた。これは本気でヤバイ。那須野の頭上で警報ベルが鳴り響く。

「おらおら、どうすんだ? ここで死ぬか? それともさっさと走り出すかー?」

 姉は再びギターを持ち上げる。呼吸が荒くなっている。その眼球には「今度は絶対外さねー」と刻み込まれている。

「くそ、分かったよ、走るよ、走り出すよ! 覚えてろよ、この糞馬鹿姉貴!」

 那須野は前のめりになりながら転がるように姉の部屋から飛び出していった。

 それを見届けた姉は息を整え、ギターを置き、再びベットに腰かけた。サイドボードに置かれているラッキーストライク手に取り火を点ける。

「まったく手のかかる弟だよ、本当に」

 煙草を咥え、煙と一緒に天井目掛けそんなセリフを吐き出した。


 那須野は町中を疾走する。

 見たことのある景色も、見覚えのない景色も、走る那須野の横を糸のように流れて行く。制服を着たままで走りづらいことこの上ないが、それでも速度を落とさぬよう駆け抜ける。降り注ぐ日差しは強いが、不思議と走っている間はさほど暑さは感じず、むしろすれ違う風が全身に心地良かった。

 那須野は商店街を、古ぼけた喫茶店の前を、神社の石段の前を、線路沿いの道を走り抜けた。

 体力を限界まで使い果たし、立ち止まったのは見知らぬ住宅街だった。電信柱に手をつき呼吸を整える。爆発しそうな鼓動をどうにか沈める。止めどなく溢れる汗を制服の袖で拭う。すれ違う人々が、何事かと那須野を横目で覗いては通り過ぎていく。

 ようやく呼吸が平静に帰してきた。五感が正常に機能し出す。そこで聞こえてきたのは、女の子の笑い声だった。無邪気なその笑いが聞こえてくる方を、那須野は顔を上げて見やる。

 そこには、庭先で椅子に座り首元にタオルを巻かれ、髪の毛を母親に切ってもらっている女の子の姿があった。女の子はくすぐったそうに嬉しそうに笑いながら髪の毛を切られている。母親もまた笑いながら「危ないわよ」と言い、優しく慎重に髪の毛を切っている。二人の足元には黒猫がいて、降ってくる女の子の髪の毛と戯れながら芝生の上を転がり回っていた。

 那須野はただ、その光景を黙って見つめていた。呼吸はもう平常のそれに戻っている。那須野は何故その光景から自分が目を離せないのか、自分でも分からなかった。それでもただ、那須野はその二人と一匹の団欒の様子を眺めていた。

 と、那須野の後頭部に小さな衝撃が走る。カランという軽い音と共に足元に何かが転がり落ちる。「いて」と後頭部を抑えながら、落下してきた物体を拾い上げ、那須野はそれを近くで見る。

 それは、中身の入っていないキリンラガービールの五百ml缶だった。

 それが天から降ってきたようだった。那須野は、それが降ってきたであろう方向を振り返り仰ぎ見る。

 その目線の遠く先には、那須野の母校である九日市中学校の校舎があった。那須野はそのてっぺん、屋上を見る。那須野のいる位置からはそこに張り巡らされた銀色のフェンスしか見留めることが出来ず、人の気配も感じ取れなった。那須野は一度手にしたビールの空き缶を見てから、再び学校の屋上を容赦なく照り付ける日差しに目を細めながら見つめる。

「……夏目?」

 那須野はただ、夏の終わりの匂いと、女の子の笑い声にまみれていた。

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