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暗闇が徐々に光を取り戻す。スクリーンに緞帳が閉まり館内にオレンジ色の灯りが灯される。他の客達が足早に席を後にする。今日のレイトショーは総じて六十五点くらいかなと那須野は採点する。飛びぬけて面白くもつまらなくもなかったなという感想。館内に設置された時計に目をやると既に0時を過ぎており、那須野の夏休みは呆気なく終わったことを知らせていた。那須野は憂鬱な気分になりながらも重い腰を上げ、席を立つ。
数歩進んだ所で、那須野はふと後ろを振り返る。そこにはもう誰もおらず館内は静寂を取り戻していた。何故今振り返ったのか、那須野は自分自身でも理由がよく分からなかった。誰かに呼び止められたわけでも何があるわけでもないのに、気付けば振り返っていた。那須野は首を捻りつつも改めて歩き出し、館内を後にした。
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映画館から戻り、待ち構えていた母親にしこたま怒られた挙句寝不足で久々に登校した教室内で那須野は一人静かに失望していた。
ここいる連中ときたら、何も変わっていない。
どいつもこいつも一学期と変わらない面をぶら下げている。つまらねえ。俺は違う、と那須野は自分自身に言い聞かせる。俺はこの夏休みの間、八本も映画を見てきた。その分、ここにいる奴らよりは前に進んでいる筈だ。そうだと、思いたい。
「よう、相変わらずしけた面してんなあ」
「おはよ、元気だった? 那須野」
頭に軽い衝撃を受け振り返ると高山と秋吉が立っていた。二人は那須野にとって数少ない友人の二人だ。
「いて―な。まあ元気だったよ、残念なくらい。二人はどうだった……って、高山の方は聞くまでもないか」
高山は日に焼けた腕を組みながらふんぞり返っている。
「そりゃサッカーに決まってんだろ! パスパスクロスシュートォ! ってさ」
一人でエアサッカーを繰り広げる高山を無視し那須野は秋吉の方に尋ねる。
「秋吉はどうだった?」
「僕? 僕は別に何も。普通に田舎に帰って普通に遊んで普通に宿題して、って感じかな。那須野はどうしてたの?」
涼しい顔で尋ね返す秋吉に那須野は口ごもってしまう。この二人にはまだ自分が映画館に通っていることは話していなかった。別に隠しだてする必要もないのだが何となく気恥かしくて言い出せないままでいた。
「俺も秋吉と同じ。特に何もない夏休みだったよ」
「まあそうだよね、高山みたいに部活に入ってなきゃそんなもんだよね」
「ったく、お前らも運動しろ運動を!」
秋吉は柔和に微笑み、高山は偉そうだが人懐っこく笑う。
高山は窓の下の床に腰を下ろし、水平にした右手を目の上に当て教室中をぐるりと見回す。
「それにしてもここの連中は変わんねえなあ」
「そりゃ所詮一カ月ちょっとの夏休みを挟んだだけだからね。そうそう人間なんて劇的に変わるもんじゃないよ」
教室の隅にある掃除道具入りにもたれかかりながら秋吉はそう言い、
「そりゃそうだ」
那須野は椅子に後ろ向きに座りながら笑っている。
「そりゃそうなんだけどよお、仄かな期待ってやつ? を抱きながら久し振りに通学路を歩いてきた俺の時間は何だったんだって話だよ」
「何って、そりゃ無駄だったんでしょ」
那須野と秋吉が笑い、高山も少し悔しそうに笑う。
「ならさ、高山はどんな風になってたら満足だったのさ?」
「そうだなあ……」と天井を仰いで深々と考え込んでから、高山は口を開く。
「例えば、一学期まで冴えなくて地味だった奴が急に可愛くなってるとか」
「案外普通だね。冴えない地味な奴って、このクラスだと誰かな?」
「そりゃ飯塚とか伊呂波とかじゃね?」
名前の出たクラスメイトを三人で顔を寄せ合い確認するが当然の如く変化は感じられず、高山は深い溜め息を吐き出す。
「あーあ、やっぱ事はそう上手くは運ばないよなー。あとはあれだ、背が高くてお嬢様でツンデレな転校生がやってくることを期待するしかないかー」
秋吉が教室前方の入り口の方に目をやり肩をすくめる。
「ま、それもなさそうだけどね」
入口を勢いよく開き担任である矢野秀一が教室に入ってきた。勿論その後ろにはツンデレお嬢様どころか誰もついてきていない。
「お前らーもうすぐ始業式が始まるから校庭に集合しろよー」
矢野の号令に従い生徒達がぞろぞろ退室していく。高山も腰を上げ汚れのついた尻を叩きながら
「分かっちゃいたが現実はドラマやアニメのようにはいかねえなあ」
とぼやく。
「だからこそ、ドラマやアニメに需要が発生するんだけどね。それじゃ、僕たちも校庭に行こうか」
秋吉に促され那須野も立ち上がる。また、学校生活が始まる。何もない、怠惰な日々が始まろうとしている。少し前を行くクラスメイト達の雑踏を、那須野はただ遠い目で眺めていた。
始業式は特筆すべきこともなく終わり、その後生徒達は教室に再集合し連絡事項を一通り伝え終えるとすぐに解散となった。時刻はまだ十一時より少し前だった。
那須野の席の周りに高山と秋吉が集まる。
「いやー、思ったより早く終わったな。ラッキーラッキー」
「高山はこれから部活?」
「おうよ、早くボールを蹴りてーぜ!」
「んじゃ、那須野は僕と一緒に帰る?」
秋吉の問いに「ああ」と答えようとして、那須野の口が止まる。まだ、帰ってはいけない。何となく、そんな気がする。どれだけ記憶を探っても帰ってはいけない理由など見付からないのだが、何か大切な約束を忘れているような気がする。
「……いや、俺はもう少し残るよ」
「そっか。それじゃあ、僕達はもう行くね」
教室から去ろうとする二人。
「あ、あのさ」
それを那須野は引き留める。怪訝そうな顔で二人が振り返る。
「あのさ、もし、もしもの話な、もしも魔法が使えたとしたら、二人はどうする? 何でも叶えてくれる、万能の魔法。ただし一回だけしかそれは使えないとしたら、二人はどうする?」
高山と秋吉は不思議そうな表情で顔を見合い、那須野に向き直る。高山が答える。
「そうだなー、俺だったらやっぱりサッカーが上手くなりたい! かな? んでバルサとかインテルとかチェルシーとかでプレーすんの! スゲーだろ?」
秋吉も続けて答える。
「んー、僕だったらどうするだろう……。ぱっとは思い浮かばないけど、取り敢えずありったけのお金を貰うかな? 取り敢えずそれさえあればこの先困らないだろうし」
「お前夢がねーなー」
「そうかな?」
高山と秋吉は二人で笑い合っている。那須野は真剣な面持ちで
「そっか、ありがとう。引き留めて悪かった」
と言う。
高山と秋吉は首を捻りながら那須野に別れを告げ、教室を後にしていった。
那須野は当てもなく校内をふらついていた。何処にも行く予定などないのに、何処かに行かなければならない。そんな思いが那須野を校舎内に留めていた。
理科準備室の前を、音楽室の前を、三年二組の教室の前を、教職員用のトイレの前を、那須野は当てどもなく通り過ぎていった。
那須野がふと足を止めたのは、見覚えのない階段の前だった。それは最上階にある階段で、明かりもなく昼間だというのに薄暗い。那須野はその階段を見上げる。僅かに、鼓動が速くなっているのを感じる。
「ここ、か?」
那須野は周囲に誰もいないのを確認してから恐る恐る階段を上り始めると、すぐにどん詰まりに行き当たった。そこには扉があり、その周りには埃のかぶったバケツやモップや段ボール箱等が無造作に積まれていた。やはり薄暗く、心なしか空気も冷たい。徐々に胸が早鐘を打つ速度が上がっている。
それは、屋上へと続く扉だった。
那須野は、そこの扉に手を伸ばす。
ドアノブを掴み、そっと引く。
が、扉は開かなかった。
どうやら鍵がかかっているようだった。何度ドアノブを引いても扉は開く気配すらない。那須野はその扉を開けるのを諦め、元来た階段を下りて行った。
結局数十分の間校内をさまよい歩いた末に、那須野は帰宅の途に着いた。一体俺は、何がしたかったんだろう。