ダイブ・トゥ・ユー
今日は、彼女と映画を見て、お茶して、買い物ーーのお決まりデートコース。
土曜日、午後1時20分。
僕は駅の待ち合わせ場所で、20分の待ちぼうけをくらっていた。
僕は構内の柱にもたれ、ぼんやりと改札口を眺めている。
行楽日和のばあちゃん連中。手を振って駆けていく少女。休日ならではの、浮き足立った混み合い。
彼女はたまに遅刻する。だが、電車一本逃したりで、せいぜい15分程度だった。
さては、もう一本乗り遅れたのかな。
僕は、手袋をはめた手にスマホを持ち、画面をちらちらと眺めはじめる。
ーーいいよいいよ、待つから。
今さら、30分ぐらい、どうってことないさ。
僕は、こぼれかけた溜息を、喉に押しこんだ。
僕らが付き合い始めた頃は、互いにどんなに忙しくても、週に一度はかかさず会っていた。
どれだけ仕事に埋もれようと、その波をかきわけて。
一人暮らしの雑用が溜まっていても、その山をどうにか乗り越えて。
一緒にご飯を食べるだけでも、ちょっとした買い物に付き合うだけでも、顔を見て、声を聞いて、同じ時間を過ごせるだけでよかった。たぶん、お互いに同じ気持ちだった。
僕は理由もなく、腕時計と駅の時計を見比べる。1時40分を回っていた。
映画、もう次のになるな。気長に待つかーー。
だが、付き合いはじめて8ヶ月が経ったあたりからだ。
彼女は、けろっとした顔で言うようになった。
「どうしても外せない用事があるから」「あした、朝早いから」「出張」「休日出勤ね」
僕はにっこり笑ってうなずくだけ。
土日のどちらかぐらい、開けてくれたっていいのにーー。
近頃は、デートが半月に一度になることも、ざらじゃない。
僕は手袋をつけたり、はめたりしている。
気づけば、待ち合わせの時刻から、一時間が過ぎようとしていた。
美奈子、どうしてもあの映画みたいって、何ヶ月も前から散々言ってたくせにーー。
封切りが待ち遠しいって、あの二枚目半の俳優がでるからってさ。
雑誌の小さな切り抜き、手帳に挟んで持ち歩いてたくせにーー!
苛立ちが、つのる。
待ちぼうけのまま、一時間半が経過した。
僕は音沙汰のない、スマホの小さな画面を見つめていた。同じ姿勢を続けて、首の後ろが強張っていた。
今、こいつが鳴りだしたら、僕は怒鳴り声をあげてしまうだろう。
僕は、こんなに君に会いたがっているのにーー!
三週間、どれだけ心待ちにしたと思ってるんだ?
先週なんか、金曜日の夜に電話がかかってきて。
「ごめん、仕事終わらないから、会社泊まる」
君にとっての僕は、なんなんだ。
ーー恋人だ。
そうだけどさ。
僕の心は今、ひしひしと、宙吊りの感覚を味わっている。
さながら、都会の屋上のバンジージャンプ台に立って、そそり立つビル群の谷間を見下ろしているようだ。
飛ぶのか、飛ばないのか。
眼下には、虚空が広がっている。
僕という、世界の中のあまりに小さな一点に、様々な感情が流れこむ。
それは三つに分裂して、ぼんやりと、人の姿を取っていく。
「怒り」心頭に発するには、身勝手な気がして。
「不安」というには、別に嫌われたわけじゃない。
「さみしい」というには、また会えるのがわかっているわけだし。
三人の「僕」が、ジャンプ台に腕を組んで、仁王立ちしている。
我慢比べだ。
牽制しあって、出し抜かれまいとして、互いに顔色を伺っている。
皆が皆、不機嫌な面持ちをしている理由はーー何よりも、こんなに胸が苦しいのは。
僕だけが、こんな気分でいることだ。
彼女は同じ気持ちじゃない。
知ってる。忙しいんだ、君は。
能天気に、なんとなく世の中を渡っている僕に比べたら、ずっと。
スマホのデジタル時計が3時を回っていた。
不満を通り越して、さすがに、心配になり始める頃だ。
やっと、スマホが鳴いた。犬の声で。電話じゃない、メールだ。
僕はすかさず画面をタッチする。
もう許さない。許さない。謝ったって、ゆるーー
『ごめん、風邪ひいて死にそう(>人<;) 今日は家にこもるから、パスね〜』
僕の怒りが先に飛び降りた。
なんで。こんなにあっさりしてるんだ!
僕はこれだけ、楽しみにしてたのに。
次、いつ会えるかもわからないのに。
見事な捨て台詞が、空虚なビルの谷間にこだました。
僕はスマホをぎゅうっと握りしめている。微妙にサイズの合わないケースが、キチキチと音を立てた。
怒りは遥か眼下、歓喜を上げてびょんびょん跳ね回っている。
堪りかねた不安が、きりもみして後を追う。
ずるずると引きずられていったロープが、ぶぁんと弾んで、ピィン、と張った。
僕は無性にイライラして、いても立ってもいられなくなった。
頭ではすでに理解しているのだ。また、彼女に会えない長い時間を、宙吊りのまま悶々として過ごすことを。
僕はすぐにメールを打ち返そうとして、ためらった。
落ちたはずの不安が、往生際わるく、さみしさのロープを引っ張るのだ。
『なんで会えないの? 今度はいつ会える? 』
わかってる。いくらなんでも、病人に気苦労をかけちゃいけない。
文字入力の画面は真っ白なまま、再び、手がわななく。
『あれだけ、身体に気をつけろ、無理はするな、っていったのに!
そりゃ、それだけ無理してりゃ、風邪もひくよなあ!
……お大事に。』
不安がビルの壁を這い上がろうとして、もがいている。
いや、風邪ひくなんて、不可抗力だろ? 誰かにうつされたんだろうなあ。
僕は両の手袋を脱ぎ捨てて、バックスペースを指の腹で連打する。
『全然平気! 身体、ホントに大事にしろよ! また今度の週末な!』
あまりに嘘くさいので消去。
勢いをなくした怒りが、ずっと下のほうでケラケラ笑っている。
こんなメールを送っておいて、今度の週末にもし会えなかったら、僕がいい加減ぶっ壊れてしまう。
さみしさが、屋上から身を乗り出して、宙吊りの不安の手を取った。
『わかったよ。お大事に。』
……無愛想すぎるかな?
これが、僕の精一杯だよな。
画面をしばらく見つめて、やっぱり、付け加えた。
『身体、大事にしろよ。仕事のことは一旦忘れて、ゆっくり休んでくれよ。
何かあったら、僕に言ってくれ、いつでもーー
その時、スマホが震えて、画面が切り替わった。
電話だ。彼女から。
僕は電話に出ようとして、激しくむせた。さみしさも足を滑らせたのだ。
相手に聞こえないように、頭から電話を離したから、彼女の声が聞こえてくるのが先だった。
はじめに、ひどい咳が響いてきた。
『……ッは、ごめんごめん、待たせちゃったでしょー。もう、カツアキサマの刑事姿、スクリーンで見たかったのに! 封切り直後のこのタイミングで! 風邪ひくなんてありえない!』
彼女があまりにいつもの調子だったので、僕の腰から力が抜けていった。
それにしても、パスね〜なんて軽く言ってたくせに、力説するんだなあ。
三人の分身がそろって虚空に吊られ、ビル風にぶらんぶらん揺れている。
ここで、スタジオの僕にお返しします。
僕は、途方に暮れたまま、表舞台に上がる。
『いいよいいよ。しょうがないだろ、映画はがまんしろって』
けど美奈子は、次僕に会う前に、一人でこの映画、見にいってしまうんだろうなあ。
映画俳優>僕
やはりなにかが腑に落ちなかったが、僕は彼女の声に安堵してもいた。
再び、離れたところで咳の音が聞こえてくる。
『ーーァッ、ごめんごめん、そういうわけだからさ』
『大丈夫?』
しばしの、沈黙があった。
『……実は、ちょっとだけ大丈夫じゃない』
『病院行った? 薬とか、家にあるのか?』
『うー……ひと寝入りしたら、夕方までには行こうと思ってるけどーー』
『看病しに行こうか?』
『エ゛ッ』
どこかで、エールの三重唱が聞こえた。
舞台裏で、三本のロープがぐるぐる絡まって、一本の絆になる。
僕は足の間に挟んでいたバッグを拾い上げて、構内を歩き始めた。
『えーと、快速乗って二駅だよな? そこから乗り換えで、三駅』
『ヤ゛ッ、いいよいいよ』
ーーそういや、美奈子、僕に口癖似てきたよなあ。
『もー、いいから寝てろって。今からそっち行くから』
『チョッヤダ、こんな格好で会えないってばーーーー!!!!』
ーー知ってる。君はたいがい見栄っ張りだ。
『かすれ声で叫ぶなよ……何か買ってきてほしいもんはあるか?』
『いらないいらない。来ないでいいってば。全然ヘーキ』
ーーこれはどっちの口癖だっけ。
『別に、用事もないし。パジャマぐらい見てもいいだろ』
ーー思い出した。僕も見栄っ張りだったよ。
『あたし今、起きたとこでスッピ……』
『改札通ったぞ。あと4分で電車来るみたいだから』
『モーヤダ、このヘンターイ!!』
『はいはい』
君の声が、どことなく弾んで聞こえるのは、気のせいじゃないんだろう。
ひょっとしたら、この絆の先は、まっすぐ君につながっているのかもしれない。
僕だってーー
いま、君に会えることを、心底喜んでいる。
君も宙にぶら下がったりするんだろうか、僕と同じように。
僕は電車に乗りこんで、こみあげる笑みをこらえた。
とりあえず、甘やかしてやろう。
掃除でも、料理でも、病院への付き添いでも、なんでもやるさ。
君は始終ふくれっつらで、僕も普段通りにしているだろう。
嬉しいなんて、一度たりとも口には出さず。
不謹慎かな?
今なら、そんな君の姿も愛おしい。
お読みいただき、ありがとうございました。
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夜薙歌茅(ヤナギカガヤ)と申します。
かってに短編強化週間、5作品めです。毎朝7〜8時ごろ、掲載予定。