番外編1 幼馴染の性癖
私の幼馴染は自他共に認める唇フェチだ。
真野拓真。
彼と私は家も近かった。その家から幼稚園も近かったので同じところに通うことになり、また小学校、中学校も同じ学区だったことでいつの間にか母親同士が仲良くなり、高校も同じところに通うことになったことで、結果的に幼馴染的関係にある。
拓真はなかなかによくできた男だ。
拓真は年頃の男子特有のガキっぽい行動をしない。悪戯したり、好きな女子の気を引くためとかの悪さをするとかもしないし、思春期特有のつっぱったところもなかった。
ずっとそんな調子だったので、もう幼稚園の頃からずっと女の子は拓真に王子様像を見てしまいがちだった。
優しく、穏やかで、女心を察してくれる。
恥ずかしい話だが、私の初恋はそんな幼馴染だった。
しかし、そんな学年の中でもなかなかに評判のいいその男の唯一の欠点らしい欠点。
私がその片鱗に気付いたときから、自然と淡い初恋は風船の空気が抜けていくように萎んでしまった。
小学校のときだった。
3年生になって久しぶりに同じクラスになった幼馴染。あの時はまだ、彼を好きだった。
周りの女の子たちも真野くんってかっこいいよね、なんて話していた。それでも一番騒がれていたのは違う子だったけど。あの年頃の女子というのは不思議なもので、かけっこが一番速い男の子が一番もてるのだ。拓真は速かったけど一番ではなかった。
まあ、それでも十分モテていたけど。
しかし、私は知っていた。拓真がまだ初恋すらしたことがないということを。
拓真は誰にでも優しいが、それだけなのだ。
本人にも聞いたことがある。
幼稚園のときに「たくまは好きな女の子いないのー?」と聞いた。拓真は「みんな好きだよ」とぬかした。
子供とは恐ろしいもので今では聞くことが躊躇われることもズバリ聞くことができてしまったりする。
私は「違うよ! ちゅーしたりけっこんしたいなって思う女の子のことだよ!」と更に問い詰めると拓真は困ったように笑いながら「……うーん、今はとくにいないや」と言った。
思えばあのころにはすでに、大人びた子供だったように思う。
彼は優しい。けど、誰かを特別扱いしたりもしないのだ。
なのに。
小学校で同じクラスになった彼は初めて誰かを特別扱いした。ただそれだけならよかった。初恋の相手が自分以外の誰かを特別扱いする。ただそれだけなら。
あろうことか、人間ではなかった。それがいけなかったのだ。
彼が特別扱いしたのは、うさぎだったのだ。
彼のうさぎにたいする溺愛ぶりは、周囲がドン引きするほどだった。
一時期だけクラスで預かることになったうさぎの飼育係に立候補すると、休み時間のたびにうさぎの元へ行く。
そして人目も憚らず抱き上げ、頬ずりし、撫で回した。
クラスのほかの子たちも、当然、うさぎに触りたがった。
それを邪魔したりはしなかった。しかし、その様子を必死な形相で見つめ我慢する様子はまるで恋する男のようだった。
周りの子供や先生たちもそんな彼の様子に引きつつも、それでも「動物好きの優しい子」といってまあ、好感度は上がってすらいたように思う。
しかし、私は聞いてしまったのだ。
うさぎに手ずから餌を与えている彼の独り言を。
「もごもご口を動かして貪って……やばいなぁ、必死になっちゃって……食べちゃいたいくらいもごもごもごもごもごもご」
そのときの彼の目といったらない。あれは小学校3年生のする目ではなかった。目が潤んで目元が赤らんでいた。心なしか呼吸が荒かったのは気のせいと思いたい。
私は一度出会ったことのある変質者のおじさんの視線と似たようなものを感じて、背筋がゾッとしドン引きしてしまった。
彼自身の良さはわかっている。いいやつだ。その気持ちに変わりはなかったけど、一度でもそうかんじてしまったが最後。私の初恋は終わりを告げた。
それほどまでに、小学生にしてうさぎに興奮するあまり瞳を潤ませている姿というのは、あまりにも衝撃の強すぎる光景だったのだ。
うさぎがクラスとお別れすることになった日。
拓真は人目も憚らず号泣した。
あまりの泣きっぷりに、クラスメートたちは拓真が気になりすぎて自分たちが別れを惜しむことも忘れて彼を慰めた。
さて、私はこの時点では多少誤解していた。
拓真はウサギが興奮の対象であると思い込んでいた点について。
その誤解はすぐに解けた。
拓真が郊外学習でいったウサギのふれあい広場をスルーしたからだ。
私はあれ? と思って、彼に直接聞いてしまった。
すると彼は「ミミ(クラスにきたウサギ)じゃないウサギの口じゃダメなんだよね。それよりも今年 赴任してきた保健室の先生の方がまだクるなぁ……あの赴任してきたばかりで緊張した時のきゅっとした口元やばかったよね」という。
クるってなに。
同意を求められても困る。
彼はここで特に隠し立てすることなく堂々と主張したのだ。
口元……くちびるが好きなのだと。
このとき、私たちは5年生だった。
初恋がウサギ。次が保健室の先生。基準は全て唇。マニアックすぎると私は頭を抱えた。
拓真は特別自分の性癖について隠すことも自分から主張することもしなかった。
ただ、私が指摘したことをきっかけに、彼は私に唇談義を仕掛けてくるようになった。
そしてそのおかげで、私は特別好きでもないのに人を見るたび、「あ、あのくちびるの赤み具合、拓真好きそう」とか「あのくちびるはちょっと張りが足りないな」とか「あれはそう大して唇のケアができてないタイプだな」とか考えるようになってしまった。
「それでもなかなか運命の人には出会えないんだよね。どこにいるのかな?僕の運命の人」
これだけ聞くと、とてもロマンチックな人だと思う人もいるかもしれないが、運命の"人"のところに"くちびる"と入れてみよう。まったくロマンチックにならないことが理解していただけることだろう。
そんな彼が、"運命の唇"に出会ったようだ。
高校1年のときのこと。
入学して2ヶ月経ったころとある日に、彼が類を見ないほど興奮した様子で私のところへやってきた。
「一番見所のある子、見つけた!」
「……唇的な意味で?」
「唇的な意味で!」
ドン引きである。
「ざっと情報は仕入れてあってさ。3組の風見結衣さんっていうんだ。パッと見大人しそうなんだけど明るい子だって。斉藤情報では、いつも笑顔でエクボが可愛いんだって」
「ああ、あの女子に得点つけてる最低男の情報ね」
「うん。でも、一目見てわかったよ。いつも笑顔だから、口の端がきゅっと上がって綺麗なんだなって」
あ、最低男については軽く同意したな。こいつ周囲の評判ほど"いい人"じゃないよな。ただ"いい性格"してるだけだ。
ぼんやりそんなことを思っていると拓真は機嫌良さげに、ぐっと拳を握り締めていた。
「そして彼女の悩みがね……くちびるの乾燥なんだって!」
「……え? それって、拓真的にはアリ?」
そりゃそうだ。彼は、唇フェチであり、そして彼好みの唇の条件には、弾力のあるプルプルの唇は必須だ。
「うん、普段は乾燥している唇ってだけでいつもは食指動かないんだけどさ。今回はどうしてか、こう、そうして悩んでいる姿にぐっときたんだよね」
彼が言うに、彼女を初めて見たとき、彼女は廊下の隅の鏡を覗き込んでリップクリームを塗りつつ、落ち込んでいたのだそうだ。
最初は自分が好きなものと関係のあるリップクリームを塗る姿に目が向いただけだった。
しかし、鏡越しにちらりと見えた唇に目が奪われたらしい。
乾燥していてもわかるほど厚みのある唇。
引き締まった口角は落ち込んでいてもだらしなく下がることがない。
そして何よりも上下の唇面積の対比。
それは拓真にとってまさに黄金比だった。
ツンと柔らかく尖った上唇は程よく弾力がありそうで、決して狭すぎることはなく、下唇はきっと乾燥さえなければ更にプリッとした弾力と厚みを主張はずだろう、と。
「リップクリームを唇に馴染ませるんだけどそれでも乾燥しちゃうみたいでね。唇同士をすり合わせる仕草もやばかったけど、なにより、それでうまく馴染まなかったことが不満だったみたいに下唇を軽く噛んでいる姿が……わかるかな?」
「あんたの気持ちはわからないわ」
「そう? とにかく言いたいのは、乾燥していようと風見さんの唇は僕の理想そのものだってこと」
ドン引きである。
しかし荒ぶる彼は止まらなかった。
「くちびるってその人の人生を物語っていると思うんだよね。普段暗い顔ばっかりしている人は表情筋がどうしても衰えるから、自然と唇にも張りがなくなったりしちゃうんだよね。風見さんは表情豊かなんじゃないかなぁ…あの下唇、触りたいな……思ったとおり、唇の乾燥に悩まされているみたいだし。唇の乾燥隠すみたいにセーターの袖で口元隠す風見さんも可愛かった……僕が風見さんの唇を柔らかくしてあげたいな。それでせっかく馴染んだリップクリームを舐めとって意味のないものにし……」
「まてっそういう性癖入った話を私に聞かせないでって言ってるでしょ! あんたのは生々しいのよ!!」
拓真は悪びれもなく「ごめんごめん」と謝る。しかし私は謝られている気がしない……。
こいつは基本的にいいやつだ。
高校生になっても、もてていると思うし、私もそれに関しては納得だ。唇に関わらなければむかつくくらい気の利く男なんだから。
しかし、彼自身の色恋(=唇)になると、途端に変た…いや、残念になってしまう。
拓真は思案気に顎に手を当てて首を傾げている。
「違うクラスだし、どうやって声かけようかな……別に、普通に話しかけたり、友達通じて知り合うんでもいいけど……」
「……普通に知り合ってもどうせ拓真はくちびるから目を離せなくなるに決まってるでしょ。そんなくちびるガン見されたら、コンプレックスに思ってる子からしたらいい気持ちしないんじゃない?」
思ったまま意見すると、拓真は「それも一理ある」と頷いた。
「確かに、喋っててくちびる見ない自信ないな」
「まあ、どう声かけるにしても、そのスイッチはいると生々しくマシンガントークし始めるのだけは、なるべく隠すことね。せめて、彼女を落とすまでは」
それさえばれなければ、この男は単なる"いい男"なのだ。
高確率で女子を落とせることだろう。……こんなこと確信している自分が嫌だなぁ。
「ほんと、所には敵わないなぁ。おっしゃるとおりです」
「アドバイス料は駅前のイチゴチョコブラウニークレープでいいわ」
「えっ?有料なの?!」
「女子ネットワーク使って風見さんにあることないこと吹き込んでもいいんだけど……」
「奢らせてください。お願いします」
低頭した拓真のつむじをみて、私は満足げに頷いた。
「それでいいのよー」
「くっそ……なんで僕の周りの女の子ってこんな強いの?」
紳士面やめないからそうなるのだ、とは言わないでおいた。
その後、拓真は2年で結衣ちゃんと同じクラスになり、それから半年以上経った頃にようやく、彼女に接近することができた。
それまでの期間で、クラスメートたち(結衣ちゃん以外)は拓真が結衣ちゃんを好きであることに気付くだけでなく、拓真の残念な性癖についても(知りたくなかったけど)知れることとなった。一部の女子(私を含む)が結衣ちゃんを哀れに思ってことごとく拓真の接近を妨害した。拓真に王子様を夢見てたのに残念だった事実に怒った女子が腹いせにやったとか、そんなことではない。……多分。煽ったのも私ではない、もちろん!
幼馴染の性癖に対して思うところは大いにあるが、別に反対したいわけでもないのだ。拓真は良いやつだと思うし、結衣ちゃんは可愛い子だ。ふたりともどこかちょっと変なところあるけど。
とうとう付き合い始めたふたりを祝福しつつ、「今後もクラスぐるみで弄ってやろう」と心の中でニンマリほくそ笑んだ。