8.
ブレーデンが去った後、焼け焦げた東の棟はとり壊され、更地にされた。後にはアニーのいっていた通り、練兵場が造られはじめた。
更地にしてから練兵場の着工までには、少し間があった。内郭に練兵場なんて、と反対する意見があったからだ。
だが、ブリューデルがいなくなり、ゼレイアがもどった宮廷はシグラッドに有利だった。竜王祭から半年が経った頃には、皇帝の思い通り工事がはじまった。
「シグは軍備を増強したいんだね」
「ニールゲンの広大な領土を守るには、強い軍隊が必要ですからネー。先代のときに軍の予算大幅に削られちゃって、ニールゲンの兵は質が下がってんですヨ」
バルクの説明によると、先々代の皇帝が軍事に力を入れ、侵略戦争を繰り広げていた反動からか、先代の皇帝は内政や治水に注力していたらしい。
北方の国エルダが侵略してきたのも、ニールゲンの兵力が衰えたことが一因なので、防備のため出陣したゼレイアなどは軍備の増強を危急の事案としているのだという。
「でも、こんな場所に造る練兵場なんて、小さいよね。足りるのかな」
「とりあえず精鋭部隊を育成して、それを各地に派遣して、部隊を育成するらしいです。
ただ今、部隊人員を絶賛募集中だそーで。タタールのおっちゃんなんて、ヘーカに勧誘されてましたよ」
「ええ!? タタールを? シグって、なんていうか……節操ないなあ。イーダッドおじ様も勧誘してたし」
「ヘーカは、優秀な人間はそれにふさわしい扱いを受けるべき、血筋よりも働きに応じて身分を与えたいっていう主義だからネー。身分が低かろうが他国の人間だろーが、気にしないんでショ。
パッセン将軍も基本的にそういう主義だから、序列の低い属国の人とか、下級貴族の方々からは大人気よ」
「うわ……なんかシグとレギンが対立せざるを得ないわけが分かってきたよ」
革新的で軍国主義な皇帝派と、保守的で反軍国主義のレギン皇子派。根深い宮廷の勢力図が見え、イーズは嘆息した。
「これからどうなるんだろう」
「心配する気持ちはわかるけどネ。まあ、ニールゲンのことはニールゲンの人たちに心配してもらって。姫サンは目の前のことに集中しんさいな」
「ティルギスのことだね?」
「今朝、ティルギスからの使者が城下についたらしいヨ。アデカ王から、これからのことについて色々指令が下るんじゃないカナ」
午後になって、くだんの使者が入城してきた。まずは皇帝に謁見し、ティルギスへの援助の申し出について礼を述べた。アデカ王もニールゲンと協調関係を築いていくことを望んでいるようだ。
「当面は、イルハラントの攻略に力を入れるつもりでおります。成功の暁には、イルハラントから得た財宝の半分を献上いたしましょう」
「楽しみにしていると伝えしてくれ。ご武運を」
「ありがとうございます」
謁見の後、使者はイーズの部屋にやってきて、大使たちが投げかけた諸々の案件に関する回答をし、また、イーズにねぎらいの言葉を伝えた。刺客に襲われたり、事故で足を悪くしたり、父親が死んだりと、災難つづきなので、アデカ王はイーズのことをかなり心配しているらしい。
「ハルミットがしようとしていたように、身代金が用意できて、皇帝陛下の了承が取れるなら、婚約解消して帰国を許すとおっしゃっていますが……」
「もうその気はございません。引きつづきお任せくださいと、お伝えください」
イーズが迷いなく答えると、使者は感心したようにうなずいた。アデカ王の家紋が入った懐剣を差し出してくる。
「どうぞこれを。ハルミットの分も役に立ちたいといった貴女の気概を買って、アデカ王はあなたをハルミットの後任としました」
「私を? いきなりそんな大役は」
「実際の交渉は、これまで通り大使たちに任せてよいのです。本来なら大使が妥当なのですが、ニールゲンは経歴よりも王族の孫という肩書きの方が重要な土地柄でしょう? それもあって、貴女にするだけですよ。
ゆくゆくは後任の役目を果たせるようになるのが一番ですが。そう難しく考えず」
与えられた懐剣は、今までイーズが持っていたものよりも当然立派だった。腰に挿すと、いつと重みが違う。イーズはそわそわと、何度も位置を調整した。
最後に、タタールたちへ処罰が申し渡された。処罰といっても、万事イーズの指示通りにということだったので、イーズの希望がそのまま通った形だ。ようやくタタールは旅の荷物を背負って、城を出ていけることになった。
「よくやれよ、アルカ。なるべく早くつれて戻れるように努力する」
「頼りにしてるよ。あと、これ」
イーズは手のひらいっぱいに装飾品を差し出した。
「旅費の足しに」
「いらん」
「自分のためじゃなくて、ティルギスのためだと思って受け取って」
「おまえは、俺がそれを持ち逃げするとは考えないのか」
「タタールはまじめだもの。死刑も覚悟で事を起しちゃうくらいに。だからそんなことしない」
タタールが急に剣を抜いた。シャールがぎょっとして構えたが、タタールは剣のみねをイーズの杖にあてただけだった。
「おまえに勝利と名誉を。私の剣を。捧げよう」
タタールは剣をしまうと、イーズの手から旅費を取って去っていった。イーズは呆気にとられていたが、気を付けてね、と大きく手をふった。
「そうか、ハルミットの後任はアルカに決まったか。ではさっそく初仕事だ、アルカ。これに署名してくれ」
使者との会見が終わると、シグラッドがイーズに書類をつきつけた。
「ニールゲンとティルギスの友好を深めるため、ティルギスからは軍事技術の提供をしてもらうことになった」
「軍事技術の提供って?」
「今、新しい練兵場を造っているだろう? そこで新しい部隊を育成するにあたって、指導をティルギスにもしてもらおうと思っているんだ。大使たちと話はついているから、アルカはここに署名してくれればいい」
いわれるがまま、イーズはおっかなびっくり署名をした。他にもいくつか書類に署名する。どれも文言が堅苦しく難解なので、イーズは十全に内容が分からない。大使に解説してもらいながら、初仕事を済ませた。
「ご苦労。最後にこれにも」
「これは?」
「ニールゲンでは、外国人が滞在するには許可がいるんだ。その許可を取るための書類」
「そんな書類があるんだね」
イーズはペンにインクをつけた。書類をのぞきこんだバルクが、げ、と汚い声を上げる。
「姫サーン、契約書の類いは読んでから署名しよー」
「へ?」
イーズは紙面を読み、目をむいた。
「シグ、書類間違えてるよ。これ、婚姻がどうのこうって書いてある」
「間違ってない。永住権獲得のための書類だ。別名、婚姻届とも言うだけで」
「ヘーカ、それって詐欺っていいません?」
バルクは婚姻届をつまみあげて非難したが、シグラッドはふん、と鼻を鳴らした。
「ちょっとした罰だ」
「罰?」
「アルカ、私に何かいうことがあるだろう」
シグラッドはじとっとイーズをにらむ。
「何かって……ええっと、ごめん、何かあったっけ?」
「私に弁明し忘れていることがあるだろう?」
イーズは思考を猛回転させた。最近の自分の言動を思い返すが、心当たりがない。
唯一あるとすれば――思いついて、イーズは表情が硬くなった。入れ替わりのことだ。まさかとは思ったが、イーズの心臓は早鐘を打ちはじめた。
「思い出したらしいな。皇太后に婚約を反対されていたとき、レギンと婚約話が出たらしいじゃないか?」
思っていたのと違ったので、イーズはきょとんとした。遅れて、ああ、とうなずく。話題が違ってほっとしたが、シグラッドの眦が吊り上ったので、これはこれでまずいと気を引き締める。
「誰から聞いたの? その話題」
「スケベジジイ」
「マギー老?」
「ヤツからだったから、本当かどうか疑っていたが、本当だったんだな」
「知らないうちに話が出ていたから、実感がなくて。すぐに断った話だったから、忘れてたんだよ。ごめん」
「ふーん、アルカもレギンも乗り気だったって聞いたがな」
「疑わないでよ。マギー老が今頃そんなこといったの、私とシグを仲たがいさせようと思ってじゃないの? 疑ったら思うつぼだよ」
イーズが抗弁すると、シグラッドは一理あると思ったようだ。婚姻届を引っこめた。
「アルカに悪気はなかったということで、今回は許してやる。でも、これからレギンのところに出入り禁止だ」
「どうして? ちゃんと断ったんだから、べつに」
「さっきのアルカの見解が正ければ、当然だろう? あのジジイ、アルカとレギンが話しているだけで、まるで密会のように言い立てて、変な噂を流しかねない」
「誰かと一緒ならいいでしょ? ちゃんと身の潔白を証明できるような状況で話せば」
またレギンのところを出入り禁止にされては敵わないので、イーズは必死で抗弁する。すると、ゼレイアが口をはさんだ。
「アルカ殿下、十三歳ともなれば、結婚もできる一人前の女性。高貴な身分の女性は軽々しく男性と会ったりしないものです。
竜王祭でお披露目も済んだことですし、シグラッド様の妻としてのご自覚をお持ちいただかないと」
「自覚って……レギンはただの友達ですし、シグのお兄さんですよ?」
「ご友人、ご兄弟。それは陛下のおっしゃることより優先されることですか?」
立場の圧倒的に弱いイーズは、ぐっと黙りこんだ。分かりました、としょんぼり承諾する。
「そんなに落ち込むな、アルカ。話し相手がいるなら、だれか連れてきてやるから」
「いいよ。気にしないで」
「遊び相手が欲しいなら、地下からもう一匹、緑竜を連れてくるぞ。それとも、他の生き物の方がいいか? 不死鳥とか、三つ頭の獣とか、人魚とか、アルカが飼いたいなら捕まえてくる」
「いや、本当に気にしなくていいから」
そんな物騒だったり幻獣レベルのペットは要らない、とイーズは謹んでご辞退申し上げた。
「会うなって言われると、よけいに会いたくなるのにな」
イーズはため息をつきながら、季節外れのロサの花をつついた。