4.
タタールたちの処分を決め終わったところで、昼になった。イーズは食堂へむかおうとしたが、その前に侍女がやってきて、皇帝の不在を知らせた。ゼレイアと視察に出かけ、もどりは夕刻だという。
「視察なんだ? シグも今日はお休みだって聞いていたけど」
「将軍様がもどられたので、じっとしていられないご様子で」
「シグは働き者だね。見習わなくちゃ」
連日、ごちそうつづきでお腹の空いていなかったイーズは、昼食を取るのはやめた。代わりに午後の予定を考え、シャールにたずねる。
「シャールはブレーデンってどうしているか知ってる?」
「ブレーデン殿下ですか? さあ……東の棟は火事で焼けてしまいましたから、別の場所で療養なさっているのだと思いますが」
「迎賓館にいると思うヨ。アスラインの宗主様が面倒見てるんじゃないカナ」
書簡から顔を上げず、バルクが口を挟んだ。
「アスラインの宗主様は、ブリューデル皇太后様の弟。ブレーデン殿下の叔父さんだからね。姫サン、会いに行くの?」
「落し物、届けようと思って」
イーズは仮面を手に取った。金をうすく延ばしてつくったうろこが貼られた、値の張りそうな品だ。竜王祭の夜、ブレーデンが落としていったものだった。
「どうしているか気になるし、どうなるのかも気になるし。皇太后様がいらっしゃらなくなって、ブレーデン、これからどうなるんだろう」
「心配するコトないですヨ。ブレーデン殿下って、成人したらアスラインの宗主になる予定の人だから。叔父さんがちゃんと面倒見るでショ」
「でも、あの状態は、どうにかなるものなのかな」
シャールたちは黙り込む。皆、中途半端に竜化したままの、化け物のようなブレーデンの姿を思い浮かべていた。
溜まっていた案件に一区切りをつけると、イーズは迎賓館に出かけた。お供はバルクで、移動にはさっそく緑竜を使った。竜王祭が終わり、招待客が帰郷の準備をはじめているせいで、迎賓館は混雑していた。
アスラインの宗主も同じで、帰り支度に忙しそうだった。突然姉に起きた不幸の対応にも追われているので、つかれた様子だ。恰幅の良かった皇太后とちがい、やせぎみの宗主はイーズの来訪に恐縮した。
「わざわざ落し物を届けに。ありがとうございます。ブレーデンに渡しておきます。まさか外に出ていたとは……」
仮面を受け取りながら、宗主はちらちらとイーズを気にした。ブレーデンの素顔を見られたことを、警戒しているようだった。
「ブレーデン皇子はどちらに?」
「部屋におります。このたび、私とアスラインに行くことになりましたので、その準備を」
「会ってもよろしいですか?」
「今はご遠慮願えませんか。母親のことがあって、体調を崩しておりまして。仮面を届けてくださったことは、伝えておきますから」
跡取りである甥が、人目を憚るような姿になったことを隠したいのだろう。宗主はあれこれ言い訳する。
「ブレーデンがどんな様子かは、これを拾ったときに知ってます。でも、人に言いふらすようなことはしていませんし、するつもりもありません。信じてください」
「しかし、女子供には刺激に強すぎる姿ですから」
「平気です。私、最近、竜ってかわいいって思いはじめているくらいなんです」
イーズは窓から顔をのぞかせた緑竜に手をふった。宗主は納得して、イーズを別室へと案内した。そこは迎賓館でも奥まったところにある部屋で、人通りも少なく、陽のあまり射さないところだった。
部屋の中も暗い。昼中だというのに、雨戸を閉め切っている。ブレーデンは部屋の隅で、頭からシーツをかぶっていた。
「だれ?」
弱々しい声が、シーツの下から発せられた。わがままで強気な少年が、たったの数日で人が変わってしまったことにイーズはおどろいた。
近づいていくと、ブレーデンは壁にぴったりと身を寄せ、おびえた。イーズは躊躇したが、思い切ってシーツを無理矢理はいだ。
「――ずいぶん愛嬌のある顔になったね、ブレーデン」
二度目とはいえ一瞬絶句する容貌だったが、イーズはにっこり笑ってみせた。
「前よりかわいげがあるよ」
ブレーデンの方も動きを止めていた。だが、仇敵とも言うべき相手の登場に、すぐさまに反応した。抱えていた枕をイーズに投げつける。
「うるさい、ブス! 何しに来たんだよ」
「これを返しに来たんだよ。この前、落として行ったでしょ?」
「そんなもの、もういるもんか。ただ笑いに来たんだろ。さっさと出てけ、ブス!」
「そんな暇じゃないよ。なんだ、心配してたけど、その調子なら大丈夫そうだね。元気じゃない」
「何が大丈夫だよ! すごく痛くて苦しくて、死にそうだったんだぞ!」
「こら、やめなさい、ブレーデン! アルカ殿下になんてことを」
自分の周りにあるものを片っ端から投げるブレーデンに、宗主は真っ青になった。イーズを抱えたバルクはいったん外へと避難しようとしたが、イーズは止めた。何も投げるものが無くなったのを見計らって、ブレーデンの前に下ろしてもらう。
「竜王祭の日から、全然、元の姿にもどれてないの?」
ブレーデンは自分の姿を恥じてうつむいた。アスラインの宗主が沈痛な面持ちで口を挟む。
「一昔前、先々代の皇帝の御世にも、竜涎香を使って、ブレーデンと同じようなことになった者がいたと聞いております。
その者は時の皇帝陛下がお助けになったそうですが……今の陛下はご存知でない。先代様に選ばれてなったわけではございませんから、その方法を知らなくても仕方ない」
「兄上をバカにするな! 選ばれてなっていなくたって、王様は兄上だ!」
ブレーデンは噛み付くような勢いで叔父に反論した。イーズは一つ気になって、恐る恐るブレーデンにたずねた。
「ブレーデン、火事のときのことってどのくらい覚えてる?」
「どのくらいって、覚えてるわけないだろ。さっきもいったとおり、死にそうに痛くてそれどころじゃなかったんだから」
「そう……」
火事のとき、シグラッドはブレーデンの母親をこの世から永遠に消し去った。兄を慕うブレーデンには残酷すぎる出来事だ。知らなくてよかった、とイーズは安心した。
「せっかく兄上が竜涎香をくれたのに。立派な姿になって、兄上の役に立つって約束したのに。こんなみっともない姿にしかなれなくて……」
何も知らないブレーデンは、上半分がうろこに覆われた顔をくしゃりとゆがませ、いびつな形の指にぽろぽろと涙を落とす。なおもシグラッドを慕うブレーデンに、イーズは胸が痛んだ。
「そんなことないよ。ブレーデンはもう役に立ったじゃない。手紙、手に入れてきてくれて、本当にありがとう。おかげでシグはとっても助かったんだよ」
バルクやアスラインの宗主には聞こえないよう、イーズは小声でささやいた。まばらに髪が生えている頭をそっとなでる。
糸が切れたように、ブレーデンは泣きはじめた。イーズは背中をさすってやりながら、ブレーデンの気が済むまでそれに付き合った。憎たらしい未来の義弟だが、シグラッドを慕う素直さと一途さはいじらしくて、どうにか助けてあげたくなる。
「すみません、あれは姉に甘やかされて育ったものですから」
部屋を出たあと、アスラインの宗主はイーズにブレーデンの非礼を詫びた。大きくため息を吐く。
「跡継ぎはあの甥しかいないのに、困ったことになりました」
「多少の困難は、人を強くする材料です」
「だといいのですが」
宗主はやはり嘆息する。甥にはそれを期待できていないらしい。
「アルカ様のお国では、優秀であれば女性でも偉い身分につくそうですね」
「そうですね。私の護衛をしてくれているシャールは、以前は中隊の隊長をしていましたし、養母も似たような地位にいました」
「そうですか。……ニールゲンでも前例がないわけではない……しかし」
宗主の独り言を、耳ざといバルクが聞きとがめた。
「宗主様の長女さんは、器量もよければ頭もいいって評判ですよネ」
「よくご存じで。自分でいうのもなんですが、できた子です。姉に似て気の強すぎるところが難ですが、男だったらと惜しむほど聡い子で」
宗主は熱っぽく娘のことを語る。イーズは不安になった。アスラインの跡継ぎという座がなくなれば、母もおらず、人前にも出られない身となったブレーデンがどういう扱いを受けるか。一生、どこかに幽閉されるかもしれない。
「宗主様、私、ブレーデンをもどす方法を調べてみます。調べれば手がかりくらい見つかるかもしれません」
「そこまでお手を煩わせるわけには……」
「陛下と結婚すれば、ブレーデンは私の義弟です。放っておけません。陛下にも私から相談してみます」
「なんとありがたいお言葉。ぜひ、よろしくお願いいたします」
アスラインの宗主は、イーズの言葉に感激した。迎賓館を出てから、バルクがぴゅうと口笛を鳴らした。
「ナイス姫サン。これでアスラインに恩を売れますネ」
「別にそんなつもりはないよ。ブレーデンがこのままじゃかわいそうだから」
「姫サン、情に流されても、舵を取ることを忘れちゃダメよ? これから人の上に立つなら」
「う……分かったよ。気をつける」
迎賓館を去ると、イーズはさっそくシグラッドの部屋をたずねた。そろそろ帰ってくる時間だったが、まだいない。
部屋に入って、イーズはすぐに部屋の変化に気がついた。壁の絵がない。以前かかっていた母親の肖像画は取り外され、丸めて机におかれていた。代わりらしい絵が、机の上に広げられている。赤い竜たちが飛んでいる絵だ。イーズが鑑賞していると、じきに部屋の主が帰ってきた。
「だれかと思ったら。おはよういってきますただいまだな、アルカ」
「おはよういってらっしゃいおかえり、シグ。視察に行くと知っていたら、私もがんばって早起きしたのに」
「ついて行きたかったって? 行動力は半減しても、好奇心は以前同様だな」
つづいて入ってきたゼレイアはくたびれた様子だったが、シグラッドは元気だった。食事だ食事、と服を着替えはじめる。
「絵、変えるの?」
「気分を変えようと思って。もう終わったから。いいんだ」
シグラッドは丸めた肖像画を手に取った。人一人焼き払うほどの猛火を宿した目と同じに思えないほど穏やかに、黄褐色の瞳がやさしく細められる。
「もう貴女を苦しめる者はいない。どうか心安らかに暮らしてください、母上」
シグラッドは今一度、絵を広げると、肖像画の母にうやうやしく口付けた。丸めて筒に納め、着替えをつづける。
「次は何の絵がいいと思う? 机の上の絵が候補なんだが、迷っているんだ」
「そうだね、何がいいかな?」
イーズは絵のあった場所をながめた。ふだんは絵に隠されている、壁をくりぬいて作られた隠し戸棚がむき出しになっている。その中に赤い瓶を見つけて、イーズは手をのばした。入っている円錐形の香は、竜涎香だ。開けると、甘ったるいにおいがただよった。
「触るな」
イーズはぎょっとした。金色の竜の目が間近にあった。
「手に匂いが残ると、私が竜化するからな。今日の夕食のデザートがアルカになるぞ」
いいながら、シグラッドはイーズの耳にかみついた。イーズが飛び上がらんばかりにおどろくと、にやりと笑う。
「つまみぐい」
「夕飯全部食べていいから!」
「陛下、早くお着替えください。女性の前を、そんなかっこうでうろついてはいけません」
ゼレイアは咳払いをしながら、半分裸の主人に服をかぶせた。シグラッドは生真面目な家臣に不平をたれつつ、そでに腕を通す。
「……シグはすぐ元に戻るんだね」
着替え終わったとき、シグラッドの目はふだんと同じだった。イーズは小首をかしげる。
「どうやってもどっているの?」
「どうやってといわれてもな。自然にもどるから、意識したことがない」
「ブレーデンはもどれていないんだって。もどす方法、知らない?」
「……わからないな。私は全てを受け継いだ訳ではないから」
ブリューデルにいったことと同じことを、シグラッドは口にした。だが、イーズは回答が腑に落ちず、さらにたずねた。
「でも、それならどうして皇太后様に取引をもちかけたの? 知らないなら、取引にならないじゃない」
「息子のためなら目の色変える皇太后だ。騙すのはたやすい」
シグラッドは哂った。イーズはかすかに眉間にしわを寄せる。
「最初から、ブレーデンのこと、元にもどす気がなかったってこと?」
「正直、そこまで考えが及ばなかった。一矢報いようと頭に血が上っていたからな。母につづいてアルカにまで手を出されて、黙っていられるか」
シグラッドはイーズの頭に手を伸ばした。指先で黒髪を梳く。自分とちがってやわらかい感触が気に入っているらしい、指でもてあそぶ。
「ブレーデンには、危険だと忠告はした。それでも使ったなら、自己責任だ」
シグラッドは話は終わりとばかりに言い切り、イーズを抱えあげた。イーズはまだ続けたかったが、シグラッドはもう関心がないようで、話題を変えてしまう。
「町で色々おもしろいものを見つけてきたんだ。アルカへのみやげだ。アルカの部屋に運ばせたから、夕食の後に見よう」
「……うん。ありがとう」
「またケガが増えてるな。何してたんだ」
「ちょっとぶつけただけだよ」
ブレーデンに物を投げられた時にあたった場所が、青黒くなっていた。シグラッドは顔をしかめたが、イーズは少しも気にしなかった。むしろ、こんな傷を気にかけるよりも、ブレーデンのことを気にして欲しいと思った。
「姫サン、笑顔笑顔」
晴れない表情のイーズに、バルクがささやく。バルクは人差し指を使って無理に口角を上げ、笑ってみせた。
「ティルギスが今持ってる一番強力な駒は、ニールゲンなんですカラ」
「……うん」
イーズは心と裏腹に、ぎこちない笑顔を作った。