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19.

 目が覚めたとき、辺りは薄暗くなっていた。寝台から腕を出すと、空気が素肌に冷たく、肌があわ立った。そろそろと身を起こし、イーズは周囲を見回した。だれもいない。


 イーズはしばらく呆けていた。さっき聞いたことや起きたことが夢だったのではないかと思ったが、残念ながら現実だった。のろのろと寝台から這い出して、着ていたものをかき集め、身につける。そのたびに身体についた痕が目について、心をひっかいた。


「……どういう状況なんだろ」


 イーズは床を這い、扉に近寄った。隣室から物音はしない。シグラッドはいないようだ。出ようとしたが、扉は動かなかった。外側から開かないように固定されている。


「だれか! だれもいないの!? 開けて!」


 イーズは激しく扉を叩いたが、応答はない。嵐の前触れのように、棟全体がしんとしていた。イーズは背筋に冷たいものを感じ、扉を開けようと必死になった。拳がじんじんと痛みはじめた頃、唐突に、扉が開く。


「あ、いたいた、姫サン。やっぱりここだった」


 いつもと変わらない調子でひょっこりあらわれたのは、バルクだった。イーズに手を差し出し、歯を見せてにっと笑う。


「さ、行きましょ。あの二人を止めに」

「止めに……って」

「姫サンはこのまんまでいいワケ? どっちかが死んじゃっても平気?」


 イーズは口をつぐんだ。しかし、すぐにバルクの手を取ることもできない。シグラッドの行動にシャールは賛同し、アデカ王は協力的だ。


「オイラ、だれにもいいませんヨ。内緒にしますヨ」

「バルクはどうしてそんなことをいうの?」

「いったでしょ? オイラはティルギスの敵じゃないけど、完全な味方でもないって。オイラには、アデカ王の決定に従うギムはない。姫サンのしたいことを手伝いますヨ。今ならここの警備も手薄だし。だれにも内緒で出て行くのは簡単だ」


 さらに近くに手を差し出されると、イーズは手をとった。引かれるまま、一歩、二歩、と歩き出す。四、五歩すすんでから、バルクがおっと、と立ち止まった。


「杖、杖。床に忘れてるヨ」

「あ、そうだ」


 イーズはあわてて引き返し、気がついた。バルクの手は、もうはなしている。はなしているのに、立っている。何の力も借りず、一人で。


「え……?」


 自立している足に、イーズは瞠目した。バルクも驚いていたが、すぐにこりゃあいい、と手を打って喜んだ。


「好都合だ。これなら脱出しやすい」

「う……うん。そうだね」


「イーダッド様は背骨を傷つけたのなら完治は無理っていってたけど、姫サン、打った感覚、なかったんだろ? じゃ、最初から悪くなかったんだよヨ」


「悪くなかったなら、どうして? 本当に動けなかったのに」

「思い込みってヤツじゃない? 心が身体を守ろうとして、無意識のうちに、歩けない、歩きたくないって身体を支配しちゃったんだよ」


「そんなに皇妃になるの嫌だったのかな、私」

「最初は本当に事故のせいだったかもしれないケドネ」


 バルクのいう通り、警備は手薄で、イーズたちはあっさり棟の裏口から出ることができた。


 空はうすい藍色に染まり、夕闇が迫っていた。うっすらかかった半月を振り仰いだ時、咆哮がひびいた。かがやく星々をふるわせるような咆哮が。


「何すか、今の?」


 バルクは城内に似つかわしくない獰猛な咆え声に目を白黒させていた。イーズの方は事態を把握し、眉間にしわを寄せる。


「……レギンだよ。早くしなくちゃ。シャールたちに退治されちゃう」


 咆え声は、本宮よりもさらに北、妃妾の棟からだった。突然の咆哮におびえる召使や雑夫たちを尻目に、イーズたちは北へと急ぐ。


「姉サンたちだ」


 本宮を通過する際、向こう側に、同じく北へとむかうシャールを見つけた。翼の縫い取られた真っ赤な制服――飛竜隊を引き連れている。これから相手にするもののことを分かっているだろうに、兵たちの顔に畏れや迷いはない。一糸乱れぬ足取りでシャールに追従している。


「いったい、本当はいつから戦いが始まっていたんだろう」


 イーズは泣きそうな声でつぶやいた。シグラッドはシャールに兵の訓練を任せた。それはきっと、ティルギスと協調するためだけではなかったのだ。


 竜を傷つけることをこの国の人々は畏れ多いといって避ける。だが、異国の人間であるシャールならばためらわないだろうし、指揮官のいうことは絶対ということを刷り込まれたシャールの兵もためらわないだろうと見越したのだ。


「このままレギンを止めに行って、うまくいくかな」

「いや、まずいネ。止める前に飛竜隊につかまる」


「どうしよう。シグが集めて、シャールが育てた隊だよ。城内最強の精鋭部隊だ。今からだれかに知らせて、レギンたちに迎撃態勢を取らせたって、かなわないかもしれない」


「姫サン、切り札を忘れてますネ?」

「切り札?」


 イーズは半瞬考え、服の隠しから鍵を取り出した。


「そっか。オーレックがいた」

「奇襲には反則技デス。急ぎましょう」


 足が動くようになったとはいっても、筋肉は昔より萎えている。北の小屋にたどり着いたとき、イーズは肩で息をしていた。何度か大きく息をした後、鍵を慎重に鍵穴に挿す。金属の、硬い、たしかな感触が指先に伝わってきた。


「……いい、よね」


 自問して、イーズは鍵を回した。怖いほどにあっさりと錠は解けた。地下へとつづく落とし扉はバルクが開け、イーズは先に階段を降りた。疲れてうまく動かない足を歯がゆく思いながら、最下段を踏み、内扉に鍵をさす。最後の扉を開けると、暗闇がイーズを迎えた。


「――ようやく来たね、私の主」


 紫色の炎が、宙に踊る。少しすると闇に目が慣れて、イーズは黒竜の姿を捉えることができた。


 宝箱を椅子のように積み上げて、黒竜は座っていた。大仰に足を組み、女帝さながらに。それ自体が宝石のように美しい黒いうろこにおおわれた身体を、紅玉や黄金や水晶の飾りで彩り、頭には輝かしい宝冠を頂いて。足元にぶちまけた、宝箱の中身である金銀財宝をざくざくと踏みしだき、イーズに微笑む。


「待ちかねていたよ、この時を。何年何十年と待ち焦がれた。もうこんな暗い地下で、宝を唯一無二に抱いている必要はなくなった。私がこれから抱くべきは宝は目の前にある。さあ、命じてくれ。私の甘く優しい鎖。私はおまえの言葉に縛られたいんだ」


 オーレックは厚ぼったい唇を小さな唇に押し付けた。跪き、すがるようにイーズの手に頬を寄せる。


「オーレック、私はオーレックのご主人様なんかじゃないよ。形式的にはそうだけど、友達だからね。命令なんかしないよ。お願いはするけど」

「ふふ、いいよ。おまえがそうしたいならそれで。おまえのいうことは、私の至上規則なんだから」

「もう、浮かれて酔ったようなこといわないで。今、大変な時なんだ。助けてもらえる?」

「何が起きた?」

「とうとう赤竜様と青竜様が正面衝突する事態になったんデス」


 バルクが補足すると、オーレックは表情を引き締めた。ほお、といって立ち上がる。


「どんな状況だ? 何をすればいい?」

「レギンが竜涎香で竜化して、暴走してる。退治っていう名目で、シグたちと私以外のティルギス人がレギンを殺そうとしてる」

「おまえ以外は、全員参戦か。アルカ、いいのか?」

「……よくないよ。でも、このまま終わらせるなんて、できない」


 イーズは胸元をつかんだ。熱い。じんじんと胸の奥底で何かが燃えているのが分かる。もはや、守るべき言いつけも、故国への忠心も、頭にない。長く、鎧のようにぴったりとイーズに張り付き、行動を抑制していたものは剥がれ落ちた。イーズの疲労に萎えた肉体にふたたび活力がみなぎり、絶望に押しつぶされた心がよみがえる。


「私にだって私の正義がある。私の欲しい未来が。世界中を敵に回したって、戦うよ」

「いい顔だ。それでこそ私の娘」


 毅然としたイーズの姿を、オーレックは誇らしげにした。腕を思い切り上に向かって伸ばす。


「では、仕方ない。レギンの手助けをしてやるとするか。世話の焼けるやつだ」

「ありがとう、オーレック」

「その点、赤竜はたいしたものだ。仲良くなりたくはないが、嫌いじゃない。目的のためには手段を択ばない冷徹さと、手段の巧妙さ、完遂するための根回しの良さは感嘆に値する。相手にとって不足なしといったところだ」

「こっちは泣きそうなんだけど」


 意気揚々と準備運動をはじめるオーレックとは対照的に、イーズはほとほと疲れたというようにうなだれた。宝の山に近づいたバルクが、何か掘り起こす。


「姫サン、これ、どうっすかね? 表立って動くのはまずいっしょ。これで変装したら、ど?」


 バルクは銀のうろこのついた仮面を投げた。それなら、とオーレックも宝の中から白銀の外套を引っ張り出す。


「これもどうだ。フードがついているから、全身隠せる。火鼠の毛で織られた布で作られてるから、耐火性もあるぞ」

「いいですネ。黒竜様に仲裁役を命じるのは、竜の中の竜。銀の竜だ。かりそめの姿にしては、ぴったりじゃないですカ」


 火鼠の外套を羽織り、仮面をつけたイーズに、バルクが手を叩いた。オーレックも満足げにうなずく。イーズだけは、たいそれた仮面と外套に落ち着かなさげにしたが、そのまま地上に出た。


 夜風が外套をあおる。風に乗って、騒ぐ声がここまで届く。イーズは咆哮の響く方向を見据え、こぶしを握った。


「行こう、オーレック」

「ああ。天に代わってお仕置きだ、銀竜」

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