1.
魔境は広くて、蒸し暑くて、わたしとエリカの命は、ここで蒸されつくしてしまうんじゃないかってくらい、気力も体力も吸い取られていた。
ゼロに続いて魔境を歩きはじめて、もう何日経ったかも覚えていない。五日までは覚えていたけれど、それから先が、数えるのも面倒くさかった。
でも、ここに現れる魔物に関しては、もう全然怖くなかった。だって、あいつら頭悪いんだもの。怖い魔物はゼロに任せて、弱い魔物達をわたしとエリカが相手をするのだけれど、片方がおとりにさえなってしまえば、簡単に背後を取る事が出来てしまうのだ。
魔法の使い方も、ここ数日でかなり上達したんじゃないかって思う。まあ、《火》だとか、《水》だとかとなると、話は別だけれど。魔物を倒すっていう上では、全然問題ない。
気になるのは、最初に魔物と戦った時に、勝手に魔物を倒してしまったあの魔法だった。あれから、わたし達があの魔法を見ることは一度もない。ゼロはもはや気にしていないようだったし、別にあんなに強い魔力がなくても、命の危機を感じることはないからいいのだけれど、それでも、わたしは、あの魔法を放ったのが誰なのかっていう疑問が、頭について離れなかった。
『きっと、マル達を助けたかったんだろうね』
でも、あれは、だれだったんだろう?
『マルを知っている人なのかな?』
いったい、だれ?
『マルが知っている人なのかな?』
「マル」
エリカに名前を呼ばれて、わたしははっとした。いつの間にか、バツとの会話に耽っていた。気付けば、ゼロが大きな目をこちらに向けて、何かを示そうとしていた。わたしはエリカと共に、ゼロの示すものをじっと見つめてみた。
そして、理解した。
リヴィアの村を出発して、何日経ったかは分からないけれど、魔境と呼ばれる領域を、たくさん歩いてきた。森もあったし、山もあった。谷もあったし、野もあった。それぞれに住む魔物達が、わたし達を敵とみなして襲ってきたり、わたし達をただの通りすがりとして傍観していたり、とにかく色々だった。
ここ数日間のことを考えると、今にも倒れそう。特に、やっと視界に、かつての聖地と呼ばれるオセロットらしき都が見えてきたとなると。すごく遠い場所だけれど、とにかく目には見えているんだ。オセロットは、わたし達のいる崖の下。砂地になっている大地を真っ直ぐ進んでいった所にぽつんとある。
『こういう場所の事、砂漠って言うんだよね』
砂漠は崖を降りた場所から突然始まっていた。森を抜けたばかりだったから、最初はびっくりしたけれど、オセロットらしき都に気づいた今となっては、どうでもいいことだった。早く、あの都に辿り着いて、まともな休息を取りたいっていうのが、わたしの正直な気持ちなのだから。
『ボクだって同じだよ』
さすがにバツも疲れているみたい。
「さて、オセロットについたからといっても、油断は出来ないぞ」
ゼロが声を潜めて言った。
そうだった。今から行く都は、ゼロいわく魔法使いにとって最悪の都であるという。ゼロが引き揚げるときには、まだ逃げ出さずに閉じこもっている魔法使いもいたらしいのだが、どうなっていることやら。と、まあ、わたしにとっては、こうしてみる限り、普通の都にしか見えないのだけれどね。
『ボクには寂れた都に見えるよ』
バツってば、いつも一言多いのよね。いつかだって、明らかにおかしい組み合わせのファッションをしていたアマナツ先生の前で、変なことをぽつりと言うものだから、吹き笑いをこらえるのに必死だったんだから。
バツのことは、放っておいて、わたしはゼロに続いてエリカと一緒にオセロットへと向かった。砂漠の歩き心地はとても珍妙。なんせ砂漠なんて写真でしか見たことないんだから、仕方のない事かもしれない。ふかふかした砂の感覚は、わたしの足を受けとめるにはちょっとくすぐったいくらいで、まるで浮遊の魔法でも覚えたみたいな気分になった。
『ボクはじゃりじゃりして嫌だな』
時々、なんでバツみたいな子がわたしの中にいるんだろうって思うけれど、今はあまり気にしない事にしよう。
オセロットまではすぐそこに見えたけれど、歩いても、歩いても、ちっとも距離は縮まらない。炎天下の砂漠を歩き続けるのは、その黄金に輝く地面からも日差しの攻撃を受けているようで、はっきり言えば辛かった。でも、ふわふわした感覚は面白かった上、なんせ、目的地が見えているのだ。特に心が折れてしまいそうな危機感とかは、なかった。
「あと少しだ、がんばろう」
ゼロが振り返って、そう言った。黒い毛並みはこう言う時、見るだけで熱そう。まるで太陽からの熱で焦げてしまったかようで、気の毒なほどだ。エリカはエリカで、もう汗だくで、今にも倒れそうな中を必死に歩いているという感じだった。
大丈夫よ、もう目的地は見えているんだから。
そう言いながら、わたしは歩き続ける。風に砂が舞って目が痛い。けれど、前は分かるから歩き続けられる。そう思いながら歩き続けていると、ふと、ゼロが低い声で口走った。
「止まれ。じっとしていろ」
乱暴な命令口調にイライラしたけれど、そんなことよりも何だか嫌な空気が漂い始めた気がして、わたしとエリカはゼロに従って、立ち止まってじっと辺りの様子を窺った。なんだろう。とても嫌な予感がする。もう少し行けば目的地だというのに、その目的地の前に、大きな壁があるようなそんな気がする。
『目的のモノの前に大きな敵がいるのはお約束だね』
バツの能天気さは、いまだけは救いだった。
わたしは足先から、大地の動きをじっと感じた。テレパシーの能力も、こういう時にちょっとは役に立つものだ。些細な動き、僅かな動きが、手に取る様に分かるのだから。静かに、感覚を研ぎ澄ませて、じっとそれを待っていた。
「マル……怖いよ……」
エリカが怯え始めた。無理もない。わたしだって怖い。だって「そいつ」は確かに深い深い地中から昇ってきていて、わたしとエリカとゼロにだんだんと迫ってきていたのだから。それが、手に取る様に分かるのだから。怖いのは、当たり前だった。
『蛇のような、ミミズのような、そんな感じ』
バツがそう吐き捨てた瞬間、砂埃が舞って、地面が盛り上がって、その「蛇のような、ミミズのような」ものがはい出してきた。口は禍々しくて、歯がぎっしり生えていて、とても気持ち悪くて、もしも噛まれたらと想像するだけで気色悪い。
ゼロは後ろへと飛び退り、茫然とその化け物を見つめるわたしとエリカに怒鳴った。
「さがれ! 近すぎるぞ!」
化け物が動く。
わたしはとっさにエリカの手を握って、化け物から距離を取ろうと走りだした。砂漠の砂の柔らかさが、今となってはうざったいほどだ。あんなに楽しかった感触も、今じゃ、嫌味でしかない。
化け物はただ単に現れたんじゃなくて、わたし達を確実に狙っていた。
『人を食べるんだ』
他人事みたいにバツがそう言った。
わたしが食べられるってことは、バツも食べられるってことなのに、どうしてこいつはこんなにのんきなんだろう? でも、そんなバツの事を疑問に思っている場合ではない。とにかく逃げ回らないと、あの化け物はわたし達を頬張らないと帰ってくれないかもしれない。わたしは強張っているエリカを引き寄せて、じっと化け物の顔を睨んだ。どこが顔かなんて分からなかったけれど、たぶん、わたしが見ているのが顔なんだろう。
化け物が体を揺さ振った。何かの合図だって、わたしは思った。いや、バツが思ったのだろうか。ともかく、そんな予感がわたしの頭を過ぎっていった。耳鳴りがする。化け物の声なのか、甲高い耳障りな音が、わたしの思考を狂わせる。
『マル、マル……』
バツが呼んでいる。けれど、それに答えられない。答える集中さえ途切れてしまう。
「マル!」
不意に体を引っ張られて、わたしの体は柔らかい地面の上に投げ出された。その直後、わたしがいた場所に砂埃が舞う。化け物がやったんだ。化け物の体が、地面を叩きつける音が響いた。すごく煩かった。頭が痛くなるくらい、すべてが煩わしい。煩わしいのは、あの化け物のせい。あの化け物がいなくなれば、どんなに快適だろう。見るのも煩わしい、あの化け物。
『マル、マル……』
「マル!」
揺さ振られて、わたしははっとした。何だか変な感じ。思考が勝手に動き出して、暴走しているかのよう。そんなわたしの目に辛うじて映ったのは、心配そうにのぞき込む、エリカの顔だった。
……ああ、さっきわたしの体を引っ張ったのは、エリカだったんだ。
「マル、しっかりして! あいつが襲ってくる!」
エリカの怒鳴るような声に、曇っていたわたしの頭がはっきりとしてきた。化け物。そうだ、化け物が、わたし達を確実に襲おうとしている。戦わなければっていう思いよりもずっと、逃げなくては、逃げなくては、逃げなくてはという思いが思考と体を支配していて、その回線は混雑していて、わたしはうまく体を動かせなくなっていた。
エリカが何か魔法を使った。それは些細な魔力だけれど、今のわたしにとってはものすごく頼りがいのある魔法だった。しだいに砂埃が化け物の周りを固め始め、わたしとエリカの姿を化け物の視界から遠ざけてくれた。
「ゼロに任せよう! あたしたちじゃ無理だ!」
エリカはそう言って、わたしの手を握ってさらに後退した。
しかし、その時、砂埃の壁が大きく破られてしまった。化け物が突進してきたのだ。わたしは思わず悲鳴を上げた。このままじゃ押しつぶされて終わり。そう思ったからだ。叫んだ瞬間、ゼロも何かを叫んでいるのが聞こえてきたが、なんて言っているかは結局のところ分からなかった。
わたしとエリカはこんなところで、こんな砂漠で……。




