14.
ルナ先生が研究室に戻った途端、急にわたしは心細くなった。
電気を点けても、この部屋は暗くて、埃をかぶったものもいっぱいあって、白いシーツで隠された何かがひしめきあっている。でも、誰かが通った道は埃が払われているから、すぐに分かった。モモだけじゃない。最近、数人の人が、この部屋に立ち入っている。
動かした形跡のあるものもすぐに分かった。使った物も、戻した後の物も、埃と影と跡で、すぐに分かった。たくさんの物に見つめられている空気が、わたしの体をぎゅっと締めつけるけれど、でも、これに負けちゃいけないという気持ちが、わたしにはあった。
床には、猫の足跡がいくつかあった。
このうちのどれかがモモのものだろう。
猫の足跡の一部が、部屋の奥の方までまっすぐ伸びていっている。一際大きなシーツで隠された何か。あまり埃を被っていないところから、それが最近動かされた物だという事が分かった。猫の足跡は複数ある。それが、同じ足跡なのかどうかは分かりにくいけれど、少なくとも一人は、この物体の前に来ていた。
それがモモである可能性は十分高いと思った。
『開けてみる?』
バツに言われて、わたしはシーツの端を引っ張った。埃はあまり被っていないといっても、やっぱり少しは被っていて、咽る程だった。埃のなかで涙ぐむ目で、どうにかわたしはそれを見つめた。
わたしの背丈よりも大きなそれ。
鏡だ。
立派な鏡。黄金に縁どられて、両端には妖精。神秘的な蔦に囲まれて、所々にわたしの知らない花が咲いている。てっぺんには、女神がいる。ラッパを吹きならす、美しい女神の上半身が鏡の前に立つ者をじっと見降ろしている。
わたしは鏡に触れた。ずっと保管しているだけにしては綺麗。汚れは少ない。でも、間近でよくよく見たら、所々に手垢のようなものがついている。誰かが触った? でも、誰が? 指紋のようなものではなく、指先で誰かが触れたような跡。ちょうど、猫の鼻先くらいの大きさだった。
モモのもの?
『わからないね』
もっと近くで見てみないと分からない。わたしは鏡に手を押しあててみた。妙に温かい。この部屋は少し寒いくらいなのに、不思議なことだった。シーツに覆われていたから? それにしては、この温かさは、鏡の中の方から伝わってくるような気がしてならなかった。
『この鏡、なんかおかしい』
バツがそう言った時、鏡に触れるわたしの体にしびれが走った。何かが起こる直前に感じる緊張。そういったものに近い。何だろう。この感覚。この雰囲気。わたしに何かを訴えてくる全身の反応。
『鏡から、離れて!』
バツの忠告は、少し遅かった。わたしが動こうとした時、体はすでに鏡に呑みこまれはじめていた。鏡の向こう。あり得ない空間。そちらにだんだんと呑みこまれていく体。動けない。動きたい。ただ黙って呑みこまれるままではダメだ。そう思ったけれど、そう分かっていたけれど、わたしは何も言えなかった。何も叫べなかった。すぐ隣の部屋にルナ先生がいるのに。それも分かっていたのに。体が動かない。
そう。わたしは、何も言えなかった。何も言えないままだった。バツが何か言っている。でも、その声も、よく聞き取れない。
わたしはただ、鏡に呑みこまれていく感覚を、味わっていた。




