第六話 ヴァネッサの日記20歳②
――そして、その日も黒い扉が目に映った。
あぁ、そうだ。私は起きたのか。眠りから目が覚めると、まず陰鬱な黒い扉が目に映る。
つまり、まだ私は生きているし、発狂もしていないということだ。意識があるというその事実に私は酷く落胆した。
あるいはここは地獄なのかもしれない。死後の世界に楽園が存在する等といった妄想に憑かれてはいないが、死後も私の精神は蝕まれ続けるといった想像をするのは余りに容易だ。
この地下室に閉じ込められてから何年が経過しただろうか?私は、この状況下で行えるあらゆる方法を以って死のうとしたが、それは出来なかった。私が死のうとする度、私の身体に電流がはしり、私は身体の自由を奪われる。足枷――この右足に繋がれた鉄の足枷から電流がはしるのだ。
それと同時に、私は何故、「私が発狂しないのか」が不思議でならなかった。
私は壊れて然るべきなのだ。あの男の慰みものとなって、無意味な拷問を受け続ける。ただの玩具として存在する私に精神など必要がない。その結果、当然と私は人間であることを終えるべきであった。
だが、私に意思がある。意識がある。思考がある。――私は此処に存在する。
これが幸福か不幸かと問えば、間違いなく不幸なことだ。あの災害で死んでいたら私はどれだけ幸福に人生を終えられたか。あの事故はまさしく私にとって不幸な出来事であったが、それ以上に「あの男」に拾われたことが、何よりも私にとって不幸な出来事だった。
私が無意味な思考をしていると、重苦しい音を立てて地下室の黒い扉が開く。あぁ、悪夢の始まりだ。私はどうすればいい?抵抗すればいいのか、それとも諦めて服従しようか。
「ヴァネッサお嬢様、お食事をお持ちいたしました」
執事服を着た男が、丁寧に盛り付けられた食事を持って地下室に入ってきた。ローデリッヒ=ダールベルク、表向きはクリスティアーネの執事をやっている。
彼は、場違いなほど丁寧な仕草で私の前に食事を置いた。先ほどクリスティアーネが食べたものと同じものだ。ただ、ところどころ齧られた後が残っている。要するに誰かの食べかけ。クリスティアーネの残し物が私の食事となる。
「食べないのですか?」
「お前のその汚い面を見ながら食えっていうのか?」
「ふふふ。その台詞は先ほどクリスお嬢様に言われたばかりですよ」
クリスティアーネ。私の姉。彼女はあの男――フランツ・フォン・ルードヴィヒの元で暮らしている。まるで幸せそうに暮らしているが、彼女は気付いていないのだ。
あの男の本性。あの男のどす黒く爛れた精神を分かっていない。その意味で、クリスティアーネも憐れである。意思を持たぬ傀儡。知恵を持たないがために自身が幸福だと疑わないエデンのエヴァ。
「全く、呑気なものですよ」
ローデリッヒがモニターを指しながら言った。
「貴女がここに捕まっているということも知らずに、毎日を幸福に生きている」
「お前らが私のことを隠しているのだろう?」
「まぁ、それもそうなんですがね」
地下牢獄。私が捕らわれているこの地下室には、僅かな灯りと、私を繋ぐ鉄の足枷、腐乱した屍体が幾つかに、拷問器具、そして私の届かないところに設置された巨大なモニターが設置されている。
モニターにはクリスティアーネが映し出されていた。彼女の生活が映し出されているのだ。何不自由なく過ごす彼女。思春期の悩みにふける彼女。天才と持て囃され栄華の中にいる彼女。そして幸福な彼女――
私の真逆を歩んでいる彼女の姿を、モニターは私に見せ続ける。
最初――私が地下室に閉じ込められてから、最初にモニターを見たときは、彼女の無事に安堵した。彼女の幸せそうな姿にほっとしたものだ。そして、届きもしない声を上げて彼女に助けを求めていた。
だが、何日かたって気が付いた。
クリスは私のことを何も覚えていない。
こんなにも私は苦しい思いをし、彼女のことを思い続けているというのに、彼女は私のことを何一つ覚えていない。名前さえも!!
私への拷問は日に日に酷さを増していった。私が、身を蝕む痛みに声にもならない悲鳴をあげているというのに、モニターのクリスは私の目の前で楽しそうに笑っていたのだ!!かつての友達が、私の目の前でただの変わり果てた姿に成り果て、断末魔の、怨嗟の叫び声を私に浴びせ続けているときにあの女は、無邪気な笑みをあの悪魔に捧げていたのだ!
私が飢えに苦しんでいるとき、彼女は自分の残した食事を犬にやっていたのだ!!
あの男は、私にクリスの幸せそうな姿を見せ続けた。私は次第にクリスへの親愛の情を失っていった。それがあの男の意図することだということも分かっている。だが、私は既にクリスを愛することが出来ない。
「それではお嬢様、本日の拷問を始めましょうか」
私が黙っていると、唐突にローデリッヒがにこやかな笑顔で言った。
「……」
「ご安心ください。貴女の身体に傷が残るようなことはしませんよ。死なせることもしません。その点は旦那様からきつく命じられております。わたしがするのは、ただ一つ」
――貴女を、苦しめることだけです。
そう言うと、ローデリッヒは執事服のポケットから透明な液体の入った小瓶を取り出した。
そして有無を言わせず私の顎を掴み、口を開かせ、その透明な液体を私の喉に流し込んだ。
「……ッ!!!!!!」
直接熱せられた鉄の棒を口内押し込まれたと錯覚するほど、喉が爛れ灼け付く!
粘膜が、舌が、捩じりきられるように、どろどろに溶けるヨうに、痛覚神経が暴れ狂い、息が、塞がれ、私は蟲が身体中を這い回るような怖気の中で、のた打ち回るのだ!
肺に焼け石をこれでもかというほどに詰め込まれ、胸がハレツし鼠うなほどの圧迫感が襲う!視界が歪ム、唾液が絶ぇず口内を満タシ、鼻腔から流れ落ちた鼻水とマジリ合い、胃液と同ジに吐きダサれる。
涙とアセと吐シャ物がヒザヲぐしゃグシャにして、きモちワルイ――
「いやああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
タスケテ、誰か、お願い、もう、やめて、私を殺して……
「コロセッ!!お願い……お願い、し、ます…殺してっ!!!げほっ、げほおお、おええええええええええッ!!!!!」
「ダメですよ。お嬢様が死んでしまったら、悲しいです」
ローデリッヒは、ニタニタと醜悪な笑みを浮かべている。私がのたうち回るのが楽しくて仕方が無いように。あぁ、そうだ。私は虫けらだ。子供が、虫を残酷な好奇心から殺すように、私は弄ばれる。
薄れゆく意識の中、私はこのまま消えてなくなりたいという希望と、復讐を遂げるため目覚めなければならないという絶望の狭間を漂っていた。
死は希望であり絶望だ。だがその本質は違うのかもしれない。
ただ、死の本質とは虚無なのだ。
だからこそ、私は問おう。
めまぐるしく変わる世界の先に、私は確かに抱いていた。