第五話―執事の日記②
私の一日は、お嬢様をたたき起こすことから始まる。
透き通るほど白い肌に、流れるような金色の髪と、大きい碧色の瞳が気品ある、雪の女王のような女性である我がお嬢様、クリスティアーネお嬢様は、意外にも朝が苦手である。
特に冬ともなれば尚更だ。死に物狂いでベッドから出ようとしないその姿は、決死の覚悟で篭城戦を挑むアラモ砦の勇士を思わせる。いや、これではアラモ砦の勇士に失礼ではないか。せいぜい、冬眠中の狸が妥当ではないか。
「お嬢様、おはようございます。入りますよ」
「……」
返事が無いことを確認し、合鍵を使ってドアを開ける。なお、お嬢様の部屋への潜入成功率はおおよそ75%といったところだ。ほぼ成功する。
ちなみにお嬢様は、私が合鍵を持つことを最後まで反対していた。その理由といえば、信じられないことに「ロイが私を襲ってきたらどうすんの!」というものであった。一体どうして、この紳士という概念を固形化したような私がお嬢様如きを襲うというのか。厚かましいにもほどがあるというものだ。
確かに、とても見てくれは良いお嬢様であるため、普通の男が劣情を催してしまう可能性も無いわけではないのかもしれない。だが、曲がり間違っても執事であるこの私が、お嬢様を襲うなどという暴挙に出るはずがないのである。
「お嬢様!朝ですよ!」
私が大声でお嬢様に朝の到来を告げると、彼女はゲリラ戦で銃声を聞いたときの兵士を思わせるほど俊敏に起き上がった。
「お前は、何を、やっているのか?」
気が付けば、お嬢様がそのお美しい顔を大層歪ませて、親の仇でも見るかのようにこちらを睨んでいた。
「繰り返し聞く。お前は、私の部屋で何をしているのか?」
「お嬢様を起こしに参りましたが、何か?」
私は極めて冷静かつ紳士的な返答をした。
「……この」
「なんでしょうか?」
「変態執事がっ!毎朝毎朝、人の部屋に上がってきやがって!何が、『安心してください。私がお嬢様を襲うはずがありません』だ!こっちは、毎朝貞操の危険を感じているわ!安心してぐっすり眠れもしないわ!」
「お嬢様、淑女にあるまじき言葉遣いですね。しかし今日は惜しかったです。もう少しで上着を剥ぎ取れるまでいけそうだったのに……」
「剥ぐな!」
「それはそうとお嬢様、もうそろそろ大学のお時間ではありませんか?」
「なんですって?そんなはず無いわ。だって目覚まし時計が鳴っていないもの……」
「その時計なら、ほら」
お嬢様のベッドの下には、無惨にも大破した時計が転がっていた。
「なんてこと!なんで壊したの!?」
「それはご自身の胸にお伺いください。壊したのはお嬢様ですし。むしろ、どうやったらこんなに大破させられるのかをこっちが聞きたいですよ。余程時計に恨みを持った人間の犯行ですよ、これは」
「そんな馬鹿な!今何時!?」
「今はですね……」
私は腕時計をお嬢様に見せた。時計の針が、無常にもお嬢様の遅刻を告げていた。
「嫌ああぁぁ!!なんで今まで起こしてくれなかったのぉ!?」
「貞操の危機を感じている割には、随分とぐっすり眠れているようで何よりです、お嬢様」
お嬢様の一日は、大抵の場合、絶叫から始まる。
ちなみに遅刻というのは嘘だ。朝に弱いという致命的な欠点を抱えるお嬢様のために、腕時計の時間は1時間程度ずらしてある。ほっと安堵して再度シーツに潜り込もうとするお嬢様を引っ張り出し、「今度寝たら下からひん剥きますからね!」と釘を刺した。私は顔面を二三発殴られた後、お嬢様の部屋を出た。全く損な役回りである。
クリスティアーネお嬢様は、「真珠の都の悲劇」の生き残りだ。都市の殆どの住民が一夜で死に、残った住民も疫病などで命を落としていったこの未曾有の大災害において、生き残った数少ない人間である。お嬢様は大災害以前のことを殆ど覚えていない。災害のショックが、彼女の精神に大きな負荷をかけたことは言うまでも無い。
だが、お嬢様は私のことを覚えていないが、私はお嬢様のことを覚えている。そして、もう一人のお嬢様のことも。
「ローデリッヒ、おはようございます」
広間で待っていると、私服に着替えたお嬢様がやってきた。お嬢様は公の場でもない限り、余りドレスは好まず、普段はスーツ姿でいることが多い。
「おはようございます、お嬢様」
寝起き時の粗暴なお嬢様は鳴りを潜め、すっかり淑女となったお嬢様を朝食の席に案内した。二十人余りの席がある長方形のテーブルに、お嬢様一人だけが席に着く。私は「二人分」の朝食をお嬢様の席にそっと差し出した。
「ねぇ、どうして毎日二人分出すのかしら?」
「旦那様より仰せつかっておりますので……」
「貴方の分ではないのよね?」
「はい、お嬢様、これは私の分ではありません」
「どうしても教えてくれないのね」
少々哀しげな目を私に向けたあと、お嬢様は無言で食べ始めた。静寂の中に食器の音だけが響く。この「二人分」の食事の意味をお嬢様は知らない。彼女は何も知らないのだ。
朝食を済ませ支度を終えると、お嬢様は大学へ向かう。お嬢様はこの国でも有名な才女であり、いくつも飛び級を重ねていた。若干20して、科学系の大学の博士課程で研究を行っており、論文の功績もいくつか認められている。
若く、容姿も美しく、更に天才と呼ばれる財閥令嬢。世間は彼女を賞賛し、また彼女もその期待に応えた。お嬢様は、今まさに光の栄光の中にいるのだろう。だが、光があれば暗闇が存在するのは必定である。
「では行ってくるわ、ローデリッヒ」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ。お嬢様」
門までお嬢様を見送ると、私の第二の仕事が始まる。
もう一人の生き残り。彼女の片割れ。
さぁ、暗闇の話をしよう。