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第四話 クリスの日記20歳②

 白い天井。


 私がはじめに目にしたのはそれだった。蛍光灯の白い光が目に痛く、私はすぐに瞼を強く閉じる。それでも光が強かったので、手で影を作ろうと腕を動かそうとするが、動かない。そもそも、腕がそこにあるという当たり前の感覚がない。そこで、初めて私は身体の自由が利かないことに気付いた。


 「……」


 私は、誰だろうか。


 考えてみれば分からないことが何処までも暗く深くなってゆく。私はなんでこんな場所にいるんだろう?何処までも無機質な白塗りの壁が四方を囲っている。染み一つ、埃一つ見あたらない白塗りの部屋は、清潔と言うよりもむしろ病的な精神性を表しているようだ。

 

 そんな部屋の中央に置かれたベッドの上に私は寝かされていた。


 「……」


 時間の感覚もない。白い天井の向こう側には、蒼い空が広がっているのだろうか。それとも星が輝いているのだろうか。


 ふと、懐かしい景色が瞼に浮かんだ。これは何処の風景だろう。絶えず水の流れる音がする。煉瓦造りの町並みに、入り組んだ街路を人が行き交っている。海鳥が潮風に乗ってやってきて、甲高い鳴き声を上げていた。私はそんな中を走っていた。心が高揚している。


 私は、誰かに追われているの?


 あぁ、でも私はなんでこんなに楽しそうなんだろう?瞼に映った私は楽しそうに走り回っている。まるで追っ手に追いついて欲しいかのように。


 その時、教会の鐘がなった。私は教会の扉を開ける。


 ――あぁ、だめだ。其処に行ってはいけない。


 私は其処で確かに何かを失ったのだ。その何かが分からない。何を、私は、失ったのだろうか?

 そして、光が爆ぜた――



 私は、其処で目が覚めた。


 白い天井が目に映った。だがしかしこれは私の部屋だ。私が事故直後に寝かされていた病室ではない。いつもながらに酷い夢だ。ここ数日やけにこの夢を見ることが多い。


 「疲れているのかなぁ」


 恐らくそうだ。そうに違いない。最近、論文の執筆に根を詰めすぎただろうか。だが、例え疲れているにしても、この夢の元々の原因はやはり私の心的外傷である。


 事故のショックが私の記憶を欠落させているのだろう。私には事故以前の記憶がない。私の持っている最初の記憶は、「白い天井」。あの病室の白い天井が、クリスティアーネ・フォン・ルードヴィヒとしての私の最初の記憶である。


 あとは、夢に出てくる抽象的な町の風景は、今は消えてしまった真珠の都の記憶だろう。私は其処に住んでいたらしい。何度も思い出そうとしたが上手くいかない。記憶障害の起こりうるメカニズムも学んだし、カウンセリングの手法も得たが、どうも理論と実現の間には超えがたい壁があるようで。特に自分の問題ともなれば、いくら書物の知識を蓄えようと、それが訳に立った試しがない。


 時計を見れば、時刻は七時を回ろうとしていた。


 支度を済ませ部屋を出ると、使用人のローデリッヒが立っていた。


 「お早うございます、お嬢様」

 「おはよう。ところで貴方は何故ここに立っているのかしら?」

 「無論、クリスお嬢様を起こしに来たのですよ」

 「何故、私の部屋の鍵を持っているのかしら?」

 「無論、部屋を開けてお嬢様を起こすためですよ」

 「……何故、貴方の息はそんなにも荒いのかしら?」

 「無論、お嬢様の寝姿を想像して悶々としていたからです」

 「そう。それでは、貴方の今後の処遇についても当然分かっているわよね」

 「セルヴストフェアステンドリッヒ(無論です)」


 私は、ローデリッヒの頬を平手ではたいてからリビングへ向かった。毎朝毎朝変わらぬ朝の風景である。最初の数日こそはロイのことを本気で唯の変態だと思っていて本気で平手打ちを食らわせていたものの、今となっては毎朝の慣習と化している。ただ先日、「お嬢様、最近平手打ちが上手くなりましたね。なんだか気持ちよくなってきました」と言われた時には、この朝の慣習の是非について相当考え込んだが。


 「お義父様はいらっしゃらないの?」

 「旦那様は、本日は朝早くから外出されております」

 「そうなの……」


 最近、お義父様は朝早くから出掛けることが多い。詳しいことは話して貰えないが、近々お父様の会社で大々的な事業を行うらしい。


 「浮かない顔をしていますね。美しい顔が台無しですよ」


 ローデリッヒはおどけたように言う。彼はいつもこの調子だ。まるで道化。


 ローデリッヒは、私がお父様の養女となって十年目、丁度今から三年前にこの屋敷にやってきた。


私は最初からこの男が怪しいと思っていたのだ。きっとこの男は、殺人鬼か泥棒か詐欺師か変態に違いないと踏んでいた。そして見事に的中したのだ。ロイは、屋敷にやって来て二日目の朝には、自分が変態だということをさらけ出した。包み隠そうともしなかった。あまりに堂々と変態だったので、逆に私は混乱した。何故か、こんな堂々とした変態がこの世にいるわけがない、という意味不明なロジックに陥り、彼が屋敷に在籍することを許してしまったのだ。


 あぁ、私の失敗だ。堂々と変態を曝されることで、私は彼のことを紳士だと思いこんでしまったのだ。何という思考の死角。


 「貴方の所為ですよ。変態執事」

 「一人で食事をするのが寂しいのですか?ならば私が一緒に……」

 「使用人は主と食事の席を共にしないのが一般ではなくて?」

 「もう私とお嬢様の仲は、主と執事という関係を超えていますので」

 「変なことを言うと殺しますよ。『貴方と一緒に食事を取りたくない』、と直接的な表現で貴方に伝えてしまっては、流石に貴方が傷つくだろうと思って、敢えて一般論を語ってあげた私の好意を無下にするつもり?」

 「なんと手厳しいお言葉。だがそれでこそ高原に咲く白薔薇のように高潔なお嬢様らしい」


 あぁ言えばこう言う。本当に口先だけの男だ。ダメだダメだ。ロイを前にすると私はサディストになってしまう。普段の私はこんな筈じゃないのに。


 仕方ない。今回だけはお父様も居ないことだしロイと一緒に食事をしよう。


 「まぁ、今回だけは特別です。一緒に食べましょうか」


 は、恥ずかしいことを言ってしまったような気がする。意図した訳じゃないけど、何となく。

 

 「あ、あぁ……えっと。いや、お嬢様。申し訳ございません。自分で言っておいて何ですが、やはり主従で一緒に食事は出来ません。やはり執事としての倫理規則に反します」


 「何よ、その倫理規則って。全く!折角、人が誘ってあげたのに!」

 「本当に申し訳ございません」


 ローデリッヒが珍しくも真面目そうに謝る仕草をした。この執事はたまに真面目な顔をするのだ。普段飄々としているくせに、いきなり紳士ぶった顔をするものだから、一瞬ドキッとしてしまう。――って何を言っているんだ、私は!


 「でも、真面目な話、いつも二人分の料理が出されるわよ。これは貴方の分ではないの?」

 「いいえ、お嬢様、それは私の分ではございません」

 「そうなの?」


 以前にも同様の質問をしたが、その時もはぐらかされてしまった。私は曖昧に頷くと、控えているロイの横で朝食を取った。


 明らかに二人分出される食事。はじめはお義父様かローデリッヒのものかと思ったけど、どうやらそれは違うらしい。


 この食事は誰のもの?


 

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