第三話 執事の日記①
これは昔の話――そう、全ての悲劇の始まりのときの話だ。
一つの都市が死ぬという光景を、僕は初めて目の当たりにした。
それは、真珠の都と呼ばれ、白を基調とした建造物が建ち並ぶ美しい都市だった。
僕が数年前に訪れたときには雪が降っていて、すべてが真っ白に染まっていた。一面の銀世界は御伽噺のような不思議さを帯びていて、僕の記憶に、特殊な装飾が施された一ページとしてしまわれている。
「真珠の都」の思い出は何もかもが特別だったが、その中でも殊更印象に残っているのは、都で出会った双子の女の子のことだ。
周囲に溶け込むような白い肌に、流れるような金色の髪と、大きい碧色の瞳が可愛らしい、雪の妖精のような女の子たちだった。彼女たちは本当にそっくりで、いつも手をつないでいた。彼女たちが微笑むと、凍えるような寒さの中にあっても、こころの奥にじんわりと湧き上がるような温かみを感じた。僕は、「幸せ」がその場所にあるのを感じた。
彼女たちが微笑んでいられる世界。それこそが幸せな世界なんだろう。僕は、彼女たちがいつまでも幸せに過ごせるように願った。
だが、その願いは叶わない。僕が再び真珠の都を訪れたとき、そこはまさに地獄と呼ぶに相応しい、この世の最果てのような場所であった。黒ずんだ瓦礫の山に、腐乱した屍体が転がっていた。黒鳥の群れが空を覆い、屍肉を啄ばんでいた。水路は汚染され、疫病が蔓延していた。純白に覆われていた都は、今や赤黒い臭気に爛れていた。
慈悲も救済も無い都市だ。
真珠の都を襲った大災害の原因が何であるのか。僕は何も知らない。ここには、一つの美しい都市が無惨に蹂躙されたという事実が残っているだけだ。ただ都市の屍骸が転がっているだけだ。
真珠の都の惨状を知ったとき、僕はすぐにこの地へとやってきた。都市自体のことも気にはなったが、それ以上に双子の女の子のことが心配であった。彼女たちは生きているだろうか。生きて、また微笑むことができるのであろうか。
都市が近づくにつれ、僕の不安は暗い絶望に変わっていった。そしてこの地に足を踏み入れたとき、酷い眩暈と喪失感に襲われた。彼女たちはもういない。きっと見つかるのは、彼女たちの無惨な姿だ。そんな姿を見たら、お前はきっと壊れてしまう……
粘っこく身体に纏わりつく疲労感に耐えながらも、僕は彼女たちの姿を探した。彼女たちが生きている姿を見たかったのだ。
だが、いくら探しても微笑ましい彼女たちの姿は見つからず、また、無惨な彼女たちの姿も見つからなかった。
歩きつかれた僕は、教会の前で腰を下ろした。砕け落ちた十字架の残骸と、飛び散ったステンドグラスの破片を見つめていると、本当にこの世界の終末に佇んでいるような気分に陥ってくる。最早、この教会の中に既に神はいなく、悪魔の住処になっているのではないだろうか。そう思わせるほど、教会は陰惨な雰囲気を帯びていた。
僕は立ち上がり、割れた窓から教会の中を覗いてみた。驚いたことに、中には黒いコート姿の男がいた。埃ひとつ付いていない小奇麗なコートだ。この都市の人間ではないのだろう。
僕は教会の扉を開き、男に話しかけた。
「ここで何をしているのですか?」
男は振り返った。見た感じ初老程度だろう。猛禽類のように鋭い眼光をしている。この都市が孕む陰鬱さとは異なるが、男もある種の禍々しい雰囲気を纏っていた。例えばそれは、獲物をひたすら追い詰めるが、しかし止めの一撃を加えず、獲物の精神と肉体が徐々に磨耗する様をただじっと見つめているような、そんな嗜虐性である。
「教会ですることといえば一つだろう。祈っていたのだ」
「祈るのですか?しかし、このように壊れ果てた教会で、何を祈るというのです?」
「ただ、幸福を祈っていたのだ」
「だれの幸福を祈っていたのですか?」
男は僕の目をじっと見つめた。僕は思わず息を呑んだ。少しの沈黙の後、男はため息を吐き、薄く口元を歪めた。
「二人の、娘の幸福だよ」
――僕はこのとき知らなかった。本当にこの教会には既に神は居らず、ただ、紳士的な笑みを浮かべながらも、夥しい量の暗闇を抱えた悪魔が一人、佇んでいただけであったということに――
あれから十年の歳月が経った。
今、僕はルードヴィヒ――教会で会ったあの男の屋敷で、かつて最も幸福を願った少女の拷問を執り行っている。