序章―執事の回想
何故このようなことになったのか。
それについて、『真珠の都』に住んでいた双子の女の子の話をしよう。
リングラード家に生まれた可愛らしいその双子は、その天真爛漫さゆえ、たちまち街の人気者となった。いつも二人一緒にいて、助け合い、励ましあい、笑いあう彼女たちの姿に、「幸せ」という温かみを感じた人々は少なくないだろう。
彼女たちの家は名家ですらなかったが、厳しくも勇敢な建築家の父と、美しく知的で誰よりも優しい母に愛されて育った彼女たちは、まさしく羨望の対象であった。誰もが彼女たちの幸せな未来を信じて疑わなかった。彼女たちの固く結ばれた絆の間には、例え悪魔であっても付け入る隙は無いであろうと思われた。
――だが、彼女たちは一夜にして全てを失うこととなった。
『真珠の都』を襲った災害のあと、教会に隠れていたため奇跡的に生き残った彼女たちは、廃墟となった街を二人で歩き回った。白かった町並みは、煙の黒と、血と焔の赤色に覆われていた。いたるところに人が倒れており、その中には見知った顔もいくつかあった。焼け焦げて黒くなったパン屋の主人を見つけたとき、姉のクリスティアーネはその場で倒れこみ、妹のヴァネッサは泣きじゃくった。すでに二人に笑顔は無かった。
彼女たちは自分達の家を探したが、どこに行っても見つからなかった。彼女たちの家が在ったところには、瓦礫の残骸があるだけであり、父親も母親も見つからなかった。彼女たちは無意識的に、無惨にも朽ち果てた両親の姿をを見るのを拒否していたのだ。
結局、彼女たちは傷だらけの身体を引きずりながら、夢遊病者のように、壊れた教会に戻ってきた。聖堂の中で、二人で寄り添い合って一夜を過ごした。きっとこれは何かの夢なんだろう。明日になったらきっと元に戻っているはずだ。そうすればパパとママも――
彼女たちは祈り、そして深い眠りに落ちていった。
だが、その祈りは神ではなく、悪魔を引き寄せることになってしまったのだ。もし、私が先に彼女たちを発見していたならば、と思わずにはいられない。だが私は遅すぎた。私よりもずっと早く、あの悪魔のような男が彼女たちを見つけていた。
『真珠の都』の災害から数日後、姉のクリスティアーネは、ドイツの大財閥であるルードヴィヒ家の屋敷のベッドで目覚めることになる。彼女は何も覚えてはいなかった。そんな彼女に、ルードヴィヒ家当主であるフランツ・フォン・ルードヴィヒはとても優しく接した。衰弱した彼女が回復するまでは、付きっ切りで彼女を看病した。彼女が回復した後も、最高の教育を彼女に与え、そして「愛」を与えた。
クリスティアーネは次第に彼に心を開くようになり、ルードヴィヒの娘として振舞うようになった。もともと容姿も美しく、才能もあった彼女は、早々にルードヴィヒ家令嬢として十分な成果を出し始めた。始めこそクリスティアーネを養女とすることに反対していた面々も、次第に彼女を認めるようになり、クリスティアーネはルードヴィヒ家の跡取りとして堂々たる地位を得ていった。
ここに、彼女は栄華の道を歩み始めたのである。
対して妹のヴァネッサは、暗い地下の牢獄に閉じ込められることになる。幸か不幸か、彼女は全てを覚えていた。姉のクリスティアーネのこと、故郷の美しい都市のこと、そしてその都市を襲った惨劇のことを、である。
彼女は手足を鉄の枷で繋がれていた。目の前には巨大なモニターが設置されており、そこにはベッドに横たわる姉の姿が映っていた。幼いヴァネッサは、自分と瓜二つの姉に助けを求めた。暗闇から襲いくる不安に負けないように、必死で届かない叫び声を挙げ続けた。そして、声が掠れて出なくなった頃、ようやく姉が目を覚ました。
姉が無事だったことに、ヴァネッサは安堵の涙を流した。これでまたクリスに逢えると信じていた。きっと姉は私を助けに来てくれると信じて疑わなかった。
だが、クリスティアーネは彼女のことを覚えてはいなかった。
何度、絶望の闇が彼女を襲ったことだろうか。安穏と幸せそうに微笑んでいる姉を見るたびに、おぞましい気持ちが心の奥底に浮かんでくるのを必死に押さえ込んでいた。何故、私なのか。何故、鎖に繋がれているのが姉ではないのか?
暗闇と孤独が彼女の精神を蝕んでいった。
何回か、いや何回も死のうとした。だが出来なかった。幼い彼女に自分の命を自ら断ち切ることは不可能であった。彼女に死への逃避は赦されなかったのだ。次第に彼女の精神は死んでいき、彼女は何も感じなくなっていった。あの男が囁くまでは。
ヴァネッサが牢獄に囚われてから一ヶ月余りが経過した日、その日のモニターには姉の姿ではなく、彼女を牢獄に閉じ込めた義父フランツの姿が映っていた。ヴァネッサは、男の射抜くような鋭い目つきに脅えながらも、男に訴えた。
「ねぇ!ここから出して!お願い!ここから出してぇ!」
ヴァネッサの哀願に、フランツはにこりと微笑んだ。
「いいとも、君が望むならそこを出してあげよう」
「本当に!?」
暗さを帯びていたヴァネッサの瞳に、僅かな光が戻った瞬間であった。
「但し、君がその牢獄を抜け出すというのであれば、私はクリスティアーネを殺す」
もしこの世に悪魔が存在するとすれば、それはこの男のことだろう。
無論だが、ヴァネッサは外に出ることを望まなかった。のうのうと飼いならされている姉のことは憐れであり、ときに黒い感情を向けることはあったが、それでも自分の半身ともいえる存在を殺すことは出来なかった。
「何故、こんなことをするの?」
それは、純粋で無垢であったヴァネッサの最大の疑問であった。生まれたときから優しさに包まれ、溢れんばかりの愛を与えられていた彼女にとって、何故、男がこのような残酷な仕打ちを自分に向けるのかが理解できなかった。
「何故か?それは当然だろう?」
当然?何が?
「君たち双子は、光と影のような存在だ。光があれば陰が存在するのは当然だろう。君の姉の役割を演じるならば、君は影を演じなければならない。君は姉を羨望し、嫉妬し、愛し、憎まなければならない。クリスティアーネが幸福を感じれば感じるほど、君は苦痛を感じなければならない。あぁ、それはとても当然だ。だが……」
男は、ヴァネッサに微笑みを向けた。
「私は、影が幸福になってはいけないとは思わない」
「どういうこと?」
「クリスティアーネが幸福を求めれば求めるほど、君は不幸になるだろう。だが、もし君が幸福を得ることが出来たなら、クリスティアーネは不幸になる。君たちはそういう関係だということだ。これは、光と影の相克なのだよ。君がそこに閉じ込められているのは、そのためのちょっとしたお膳立てだ」
「貴方は何を言っているの?」
男の言っていることは、ヴァネッサにとって理解不能だった。
「いずれ分かる。私が君に言いたいことはただ一つ」
――幸せに、なり給え!
モニターの画像が一度途切れ、再び映されたときには、幸せそうに眠るクリスティアーネの姿が映っていた。暫く唖然としていたヴァネッサであったが、自分の置かれた救いのない状況を理解するにつれ、絶望の色が彼女の精神を侵していった。
そして、それからの十年もの歳月が、彼女の精神を陵辱し続けた。