閑話―回想
「私」改め「僕」の過去の話をしよう。あまり楽しい話ではないが、その点はご容赦願いたい。
僕こと、ローデリッヒはダールベルク家の次男として生を受けた。生まれながらにして
病弱であった僕は、優秀な兄とは対照的に、誰にも何も期待されずに育った。屋敷の二階の部屋に閉じ込められていた僕は、いつも窓の外に広がる虚空を見つめていた。
僕に会いに来るのは、日に二度の食事を運んでくる給仕係と、二日に一度やってくるシ
ャールト医師だけだった。
シャールト医師は、僕にいろいろなことを教えてくれた。文学、音楽、医学や他の国々
のこと。その中でも、僕は「真珠の都」の話に特に強い羨望を抱いた。
生まれてからの大半を何も無い灰色の空を見つめて過ごした僕にとって、一面が銀色に
彩られ、古くからの建造物が建ち並ぶ、雪の妖精の都。僕は何度もシャールト医師に尋ねた。その都はどこにあるのか、その都には何があるのか、その都にはどんな人が住んでいるのか。シャールト医師は言った。
「真珠の都には妖精が住んでいるよ」
思えば、僕の人生はここから始まったのだ。ただ無為に死への不毛な道を歩いていた僕
にとって、初めて目標が出来、生きていたいと思った瞬間だった。僕は『真珠の都』で妖精に出会うという夢を持って、その後も生き続けた。
シャールト医師は、医師であり友であり父であった。彼だけが唯一の僕の話し相手だっ
た。彼の献身的な治療によって、僕の身体は徐々に回復していった。そして、僕が十三になり、殆ど健常者と同じように過ごせるようにまで回復すると、シャールト医師は僕に別れを告げた。
僕はその後、ぎこちなくも家族と過ごすことになる。当然のことながら僕たちに親子の
愛情は無く、ただ無機質な「親子としての儀式」が行われるだけだった。挨拶を交わし、一緒に食事を取り、そして別々の部屋に寝る。僕にはそれが息苦しくてたまらなかった。病人として部屋に閉じ込められていたときの閉塞感と何ら変わりなかった。僕は、家を抜け出そうと思った。
元々、僕になど関心を持っていなかったのだろう。僕の家出は簡単に成功した。
僕はまずシャールト医師の消息を追った。シャールト医師が以前どこに住んでいたのかについては知っていた。僕はその場所を訪れた。
ニュルンベルクの一地方にある彼の住所には、一軒の寂れた家があるだけだった。そこにシャールト医師の姿はなかった。僕は、シャールト医師がどうなったのか聞いて回った。そして僕に待ち受けていたのは、恩師と父と友を一度に失うという最悪の報せだった。
シャールト医師は、僕の治療を終えたあと、当時、疫病が蔓延していたアフリカの地域に向かったらしい。
僕は、シャールト医師に対し、人を救うことに対し情熱を燃やすような人物であるというイメージはあまり持っていなかった。どちらかといえば、もっと即物的な人間であると思っていただけに、彼が、何の特にもならない医療支援活動に身を置いたということに驚いた。
僕は以前、彼になぜ医師になったのかについて訊ねたことがある。
「先生は、なんでお医者さんになったの?」
「名誉があって、金が沢山もらえるからだよ」
「……なんか、最低だね」
「ふふふ、そうだろう。だがね、誰だって最初はそんなものだよ。最初から信念を持照る奴なんてそうはいないさ。人はね、よほど辛い目に遭わないと心に確固たる芯が出来ないんだよ」
「先生は、もう信念を持っているの?」
「さぁ、どうだろうねぇ」
このときに彼が言った「信念」を、彼はすでに持っていたのだろうか。
僕はその答えを知るべく、シャールト医師と共に医療支援活動に従事していたという女を訪ねた。
「シャールト医師は、彼の息子を病気で亡くしているんです。彼は、自分が、医師という立場にありながら息子を救えなかったことを悔やんでいました。それから彼は、命を救うということに対し、病的なまでに心身を捧げるようになりました。ある日、彼は診察先で寝たきりの少年に会ったそうです。彼は、その少年の境遇を嘆いていました。誰からも愛されず、ひとりきりでいる少年が、不憫でならなかったようです。彼は、その少年に、彼の失った息子を重ねていたのかもしれません。彼は、この世に無駄な命はない、と口癖のように言っていました。その少年もまた、無駄に生まれたわけではなく、何かの意味があって生まれてきたのだと」
この世に、無駄な命など存在しない。
それは、嘘だ。世界中には、何のために生まれてきたのか分からないほど、無惨に、理不尽に、意味も無く奪われる命が無数にある。では、それらは何なのだろう?彼らは死ぬために生まれてきたのだろうか?ただ、苦しむという理由だけをもって、生まれてきたのだろうか?
それでは、何とも
救いがないではないか。
「きっと、彼は、それが許せなかったのです。意味も無く存在する命があるということが。まるで、苦しむだけに生まれてきたような存在が。そして死んでいく生命が。彼の息子がそうであったように。そして、その少年が、そうなりかけていたように」
僕は、そこで初めて「自分が死すべき存在であった」ことに気がついた。そしてシャールト医師の手によって生きながらえていることを知った。
「意味も無く死んでいく命を助けようと、彼は新型のペストの発祥地に向かいました。そして、一年後――」
現地人武装グループのテロによって死にました。
僕は、シャールト医師の信念が分かったような気がした。この世に「不幸になるためだけに生まれてくるような命」があってはいけない。人々は皆、幸福になるためにいきているのだから。
――幸せに、なり給え!
誰がそう言ったのだろうか、人々は皆、幸福になるために生きていると。
僕は耐え難い喪失感に苛まれながら、シャールト医師の住んでいた家の中に足を踏み入れた。埃まみれな家で、壁も床もボロボロだった。装飾品などは一切無く、医師の質素な暮らしぶりが垣間見えた。
僕は彼の書斎に入った。壁一面に本が並び、床にも乱雑に積まれていた。それらの表紙を流し見ると、いくつか知っているものがあった。病床に臥せっていた頃、シャールト医師から聞かせてもらったものだ。
その中に、白いハードカバーの本が一冊あった。それには『真珠の都の伝説』と書かれていた。手に取り、中のページをパラパラと捲っていると、雪の妖精が舞っている挿絵のページがあった。
二対一組で舞っているその妖精は美しく、僕は自分が何処に向かおうとしていたのかを思い出した。遥か憧れの都へ、雪の妖精を探しに行くという命題を思い出した。僕はその本を鞄に仕舞い、彼の家を後にした。
僕が思っていた以上にシャールト医師の存在は僕の中で大きかったらしく、僕はさながら絶望の淵にいるような気分だった。それでも僕は北へと向かった。「真珠の都」への道は、本に描かれていた。
そしてあの日、僕はたどり着いたんだ。
遥か憧れの都、真珠の都に――
■
「そこで貴女に出会ったのです」
私が話すことを、お嬢様は静かに聴いていた。
「私が真珠の都の生き残りだということは知識としては知っているわ。でも思い出せないの。
いいえ、思い出そうとしないのかもしれない。でも、貴方と会っていただなんて……」
「私は――そこで貴女「たち」に出会ったことで救われたのです。貴女「たち」は、本当に雪の妖精のようでした。人間の温かみのようなものに触れて、この世界にも希望のようなものがあるのではと信じることができたのです」
「私「たち」というのは?私のほかに、真珠の都に知り合いがいるの?」
――いよいよ核心だ。
「お嬢様、貴女は双子の妹がいます。そして、貴女の妹は今でも生きています。その名は――」
ヴァネッサ=リングラード。
私は、クリスティアーネお嬢様の前ではっきりとその名前を口にした。
クリスティアーネお嬢様の片割れであり、私のもう一人のお嬢様。
「私は……その名前を知っているわ……」
クリスティアーネお嬢様は、脅えたような表情になると、目を瞑って震えだした。
「私はその名前を知っている。確かに『知っている』の。でも思い出せない……」
「それは誰?」
「それは私の何?」
「誰なの?やめて!頭が割れそうなの!誰!貴女は誰なの!」
「あああああああああああああああ!!!」
「あ、あぁ、ヴァネッサ……、貴女は今何処にいるの?どこ……私をおいていかないで、あぁ……」
「お嬢様!しっかりしてください!」
私は泣き崩れるお嬢様に駆け寄った。お嬢様はうわ言のように「ヴァネッサ」と呟いている。
「お嬢様、思い出してください。貴女の妹のことを……!貴女の一番大切な人のことを!」
「あぁ、ロイ……ローデリッヒ……、私は……貴方に出会ったことがある……」
「そう、あれは雪の日だったわ……空も地面も水も空気も真っ白に染まっていて……、そこで私は貴方に
出会った……私はまだ小さく、貴方がとても大きく見えた……あぁ、私の隣に誰かいる……ヴァネッサ……ヴァネッサ……貴女がヴァネッサなの……?」
「そうです!それが貴女の片割れです!お嬢様、もう少しです!思い出してください!」
「待って、待って、ロイ!」
お嬢様は息を荒げながら、苦しそうに言った。私は静かにお嬢様を抱きかかえると、お嬢様が落ち着くのを待った。
だが、お嬢様が落ち着く前に、私たちの周りを人の気配が取り囲んだ。
――時間切れか。
暗闇の中、一人の男が私たちの前に姿を現した。警官の姿をした巨漢である。巨漢は、はっきりと威圧した口調で、私に向かって言った。
「ローデリッヒ=ダールベルクだな?クリスティアーネ=フォン=ルードヴィヒ誘拐の容疑で逮捕する」