第十三話 執事の日記
約一日が過ぎ、お嬢様と出かける時間になった。わざわざ外に出る理由は、当然ながら屋敷内での監視の目を避けるためである。したがって、この外出に監視がついてしまってはまるで意味が無い。私はお嬢様と本当に「二人きり」にならなければならなかった。
私が外出している間にヴァネッサに危害が及ぶ可能性があるが、今はクリスティアーネお嬢様に真実を知ってもらわなければならない。私は屋敷の外でお嬢様を待った。
屋敷の外で待っていて欲しいというのはお嬢様の要望だ。「なるべくお忍びでお願いしたい」ということを伝えたところ、「じゃあ、こっそり外で待ち合わせね!」ということになった。本当は、監視カメラの網をくぐるために一緒に出てきたかったのだが。
暫く待っていると、後ろから軽く肩を叩かれた。
「(来たわ!)」
振り向きざま、耳に唇が触れそうなほど近くで、そっと囁かれた。不甲斐なくも心臓が高鳴った。見れば、薄茶色のサングラスをかけたお嬢様が立っていた。普段着ないようなミニスカートに、ピンク色のブラウスを羽織った女の子らしい服装をしたお嬢様は、新鮮というか斬新であった。
「お嬢様、女の子らしい格好が出来たんですね……」
「なにその言い方!人がせっかく普段着慣れない格好をしてきたっていうのに!」
「いやまぁ……何ていうか、似合っていますよ。恐らく」
「そんな微妙な顔で言われても嬉しくないわ!」
いや、確かに微妙な顔をしていたのは否定しないけれど、それは新しいお嬢様の一面を見られた気がして驚いていただけで、お嬢様が可愛らしかったというのは本心だ。
「それにしてもロイと二人っきりで出かけるなんて久しぶりね、貴方ってば、いつも屋敷の中にいるんだもの。一体いつも何をしているのかしら?」
「それは……まぁ、色々ですよ」
貴方の妹を苦しめたりとか、そういう人間として最低なことをやっている。
「なにそれ、怪しいんだけど」
「そりゃあ、まぁ、お嬢様の下着とかを物色したりしていますので、怪しい業務といえば怪しいですね」
「……ッ!!!」
次の瞬間、私は頬骨が砕けるほどの衝撃をくらっていた。
「なんで貴方はそう、いつも変な方向に話を持っていくのかしら!」
もう!とお嬢様は言うと、先に歩いていってしまった。
「お嬢様!どこへ行かれるんですか!?」
「知らない!」
私はお嬢様の後を追った。
夜の帳が降りた町並みは、街頭ランプによる光と高層ビルの光が混じり合い、中世と近代の境目にいるような、そんな不思議な感覚を帯びている。人々の雑踏を潜りどんどん抜け進んでいくお嬢様を追いながら、私は尾行がついていないかどうかに目を配った。
「お嬢様、すみませんでしたって!ちょっと待ってください」
「……」
暫くのあいだ早足で進んでいたお嬢様が、突然、道の真ん中で止まった。いきなりだったので私は止まりきれず、お嬢様に突っ込みそうになったが、ぎりぎりで踏ん張った。だが、結局、私の後ろを歩いていた女性が私の背中にぶつかる形となり、私はお嬢様にぶつかることは避けたが、前のめりに転倒してしまった。
「どうしたんですか、いきなり……」
私が立ち上がりながら言うと、お嬢様は鋭い目つきでこちらを向いた。そして、唐突に私の手を握った。
「え?」
戸惑う私を尻目に、お嬢様は鋭い口調で発した。
「走って。見張りがついているわ」
言うや否や、ウサギのような瞬発力で大通り横の狭い路地に駆け込むお嬢様、それに引っ張られる形で私も駆け込んだ。やっとのことで体勢を立て直し、自分で走れるようになったので「もう大丈夫です」とお嬢様に言った。
「それは残念」
そういうと、お嬢様は私の手を離した。しっとりとした温かみが離れ、私もすこしばかり残念だと思ってしまった。
「お嬢様!どこへ向かっているのですか!?」
「そんなの知らないわ!適当よ!適当!」
「えぇ!?」
あぁ、そうだ。このお嬢様は繊細で几帳面で冷静でお淑やかに見えるが、その本質は大雑把で大胆で直情的で、そして格好良いんだ。彼女は、ルードヴィヒに育てられても、天真爛漫に騒いでいたあの頃のクリスティアーネを失ってはいない。
私は走りながら笑い出した。息が余計に苦しくなったが、悪い気分ではなかった。それを見たお嬢様が、微笑み返す。どこか蟲惑的なその眼差しに、胸が更に高鳴るのを感じた。
かなりの間、全速力で走っていた。しかし、私は楽しいと感じていた。十数年前、真珠の都で絶望の底にあった私に幸せの欠片をくれた彼女と一緒に走っているということに、私は喜びを感じていたんだ。
道はどんどん訳のわからない道になっていったが、不思議と不安は感じなかった。このまま彼女と逃げてしまおうか、ふとそんな気持ちが浮かんでしまうほど、私は舞い上がっていた。
しばらくして彼女が立ち止まった。私も流石に体力が限界になって、倒れるように地面に横になった。
「はぁっ、はあっ、だら、はぁっ、だらしないわね……ロイ」
「お嬢様だって、はぁっ、息が上がっているじゃないですか」
「追っては……もう居ないわよね……?」
「あぁ、そういえばよく気がつきましたね。私だって気づかなかったというのに」
「当然です、だって私は――」
いつのまにか街頭も少なくなっていて、月明かりが周りを照らしていた。そよ風に揺れた金色の髪がキラキラと輝き、私は不覚にも彼女に見蕩れてしまっていた。彼女の薄紅色の唇がつむぐ言葉が、透き通った風のように周りに浸透する。
「知らなかった?ロイ、これでも私は才色兼備で運動神経もよく、芸術にも秀でているまさに最強の女なのよ。尾行くらい気づいて当然だわ」
「あぁ、そういえばそういう設定がありましたね」
「そういえばって何よ!」
私たちは笑いあった。久しぶりに腹の底から笑ったような気がする。そんな笑い方だった。
「それにしても、お義父さまも尾行なんてつけるなんて酷いわ。もう少し信用してくれてもいいのに。すこし過保護すぎると思わない?」
「えぇ、まぁ……」
私は複雑な気持ちになった。今日、この後、私はクリスティアーネに全ての真実を話さなければならない。一瞬の幸福はもう終わりだ。これからする話は彼女にとって過酷なものとなるだろう。
「星が綺麗だわ」
気がつけば、夜空には無数の星が広がっていた。都市部の光から離れたことによって、姿を現したのだろう。
「ねぇ、ロイ。何故かはわからないけど、前にも、貴方と一緒にこうやって星をみたような気がするわ」
「えぇ、私もです」
実際に、私は前に彼女と一緒に星を見ている。真珠の都で、夜空一杯の星空をクリスティアーネとヴァネッサと私の三人で見上げていた。
あぁ、と私は思う。やはり、クリスティアーネとヴァネッサが引き離されていることなどあってはならない。私は覚悟を決め、全ての真実をクリスティアーネに伝えるべく口を開いた。
「お嬢様、今から話すことをよく聞いてください」
「ちょっと待って」
お嬢様は軽く咳払いすると、真剣な眼差しでこちらを向いた。
「いいわ、ロイ、何ですか?」
「お嬢様、貴女は幼少時の記憶を失っていますね?」
「え?」
「実を言うと、私は記憶を失う前の貴女と一度逢っているのです」
「な、何を言っているの、ロイ?」
お嬢様は明らかに狼狽した。
「かつて、真珠の都が文字通り真珠の輝きを持っていたときの話です。そこで、私は貴女に出会ったのです」