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第十二話 ヴァネッサの日記

 三日後、ローデリッヒが私に投与したのは、本当になんでもない錠剤であった。私は頭に焼き付けた苦痛を全身で再現し、気絶した振りをした。正直なところバレていないか心配であったが、ローデリッヒは無言でぐったりとした私の身体を襤褸切れの上に乗せて去っていった。 

 ローデリッヒは数日に一回、ビタミン剤ではなく、本物の向精神薬を私に投与した。それは、ルードヴィヒが見ている可能性があるという合図でもあった。

ローデリッヒは精神薬を投与する際、決まって躊躇うような仕草を見せた。

 「さっさと出せよ」私は、ローデリッヒを睨みつけて言う。

 「何をですか?」

 「薬だ。あるんだろ、今日も」

 「あぁ」とローデリッヒは惚けた振りをした。

 「ありますよ、とても苦いお薬がございます」

 「ならさっさと寄越せよ」

 「お嬢様、このお薬は食後に服用するものですので」

 「ふざけんな、食事の後に飲んだって、全部吐き出すだけじゃないか」

 「その貴女の惨めな姿が姿が良いのではありませんか」

 ローデリッヒは多少、大仰ともいえる素振りでそう言った。

 「そうかよ。そいつはいい趣味だ」

 「お褒め頂き光栄です」

 芝居がかったローデリッヒの仕草に、私は本物の「向精神薬」が宛がわれるのを覚悟した。だが、何回に一回かは本物を飲まなければ、身体が苦しみを忘れてしまう。それは避けなければならないのだ。

 「では、残り物の処理を犬のように行ってくださいませ」

 「分かったよ……」

 そう言って私が這いつくばったとき、一瞬、ローデリッヒが悲しげな表情をしたのが見えた。私はローデリッヒから顔を背けた。

 ――あぁ、この男は、私を苦しめることに罪悪感を抱いている。このローデリッヒ=ダールベルクという男をずっと見ていたが、恐らくこの男は根っからの「良い人間」なのだ。本物の愛に抱かれて育った優しい人間。

 私は少し胸の奥が痛くなるのを感じた。久しく忘れていた感覚だ。なるほどクリスティアーネが惹かれるのも分からなくはない。

 私は胸の奥の痛みを忘れるように、味の分からぬ食事を行い、いつものように白い錠剤を噛み砕いた。


 すぐに苦痛が襲ってくる。この苦痛が胸の痛みを打ち消すだろう。

 そうだ。私にはこの苦痛こそが相応しい。この牢獄で穢れきり、復讐にとらわれ、呪われた魔女のような私に優しさなど要らない!


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!!!!!」


 ――そして世界は暗転する。


 ■


 ――優しげな夢は本当の悪夢だ。

 ――マヤカシの幸福はこの上ない毒だ。

 

 気がつけば、夢の中で私は手をつないでいた。それはきっと、幸せの記憶――


 「お兄ちゃん、どうして泣いているの?」


 隣にいるクリスが青年に対して言う。


 「きっと、幸せだからじゃないかな」

 「幸せだと涙が出るの?」

 「うん。そうらしい。僕も今日初めて知ったよ」


 青年は泣いていた。泣いていたが、微笑んでもいた。私にはそれがとても不思議だった。


 「君たちに、出会えて良かった」


それから私たちは、青年といろいろな話をしたんだ。私たちは生まれてからずっと「真珠の都」で育ったから、外の世界のことを何も知らなかった。青年は「僕も同じように育った」と言っていたが、青年は私たちよりもずっと多くのお話を知っていた。文学、音楽、医学や他の国々のこと。特に、医学のことについては、青年はとても詳しかった。


 「お兄ちゃんは、お医者さんなの?」


 クリスがそう言うと、青年はどこか悲しげに笑って答えた。


 「違うよ。僕に色々なお話を聞かせてくれた人が医者だったんだ。その人はもう死んじゃったけれど……」

 「お兄ちゃん、悲しいの?」

 「えっと……多分、寂しくはあるけど、悲しくはないと思う。僕はその人に命を救ってもらったから。僕自身はもう彼に救われているから……だから、悲しくはないんだと思う」


 青年は、遥か遠く、青く広がる空を見上げた。


 「誰かを救うということは、自分の存在を相手に託すということなんだと思う。僕は、彼に命を託された。だから、僕は精一杯幸せに生きるよ」


 ――幸福に成りたまえ!と誰かが言った。人々は幸福に生きる義務がある。決して無駄な命など、苦しむためだけに存在するような命があってはならないと彼は言った。その命を託された青年は、同じように人を救う道を歩むのだろう。


 「そして、いつか誰かが僕の助けを必要としているとき、僕が誰かを救えるときが来たならば、僕は全力で、その誰かを救うよ」


 そう照れくさそうに、しかし真っ直ぐな瞳で言い切った青年の横顔に、私はこのとき見惚れていたのかもしれない。

 それは、とても昔の淡い記憶。幸せの断片だった。


 ■


 優しさに彩られた幸福の夢と、苦痛に侵された牢獄の現実。

 果たしてどちらが真実なのかが、時折、判別がつかなくなる。

 

 モニターの向こうにいるクリスでさえ、本当はどこにも存在しないのではないか、そんな無駄なことを考えてしまう。私にとっては、この薄暗く、腐ったような臭いのする牢獄がこの世の全てなのだ。

 そんな無駄なことを考えるだけの時間が私にはあった。

 ローデリッヒが私に精神剤の代わりにビタミン剤を投与し始めたときから、私の時間は大幅に増加した。

 物事を考える暇すらなく苦痛を与えられることが無くなった代わりに、私は物事を考えるという苦痛を感じるようになったのだ。

 私とは何なのか。

 私は、何故、この場所に繋がれているのか――

 私は今後、どうすべきなのか。


 姉であるクリスを殺すことを選んでまで、私は地上に戻りたいのか。

 

 私のそんな葛藤を見透かしたかのように、モニターからバチリとした音が響き、私は反射的にモニターを見てしまった。モニターには、あの忌々しき男の顔が映っていた。


 「やぁ、ヴァネッサ。元気そうで何よりだ」

 「こんにちは、お義父様。お元気そうで残念ですわ」

 

 私は精一杯取り繕ってそう答えた。何度見てもこの男の目はおぞましいほどに冷たい。恐怖に震えそうになる身体を何とか抑えることは困難を極める。

 

 「今日は君にとても良いお知らせだ。君に選択権をもう一個与えることにしたよ」

 「お前の話はいつも婉曲的で分かりにくいな」

 「ふふ、これは失礼」


 男は唇の端を僅かばかり上げて言った。


 「今日の夜には詳細を伝えることが出来るだろう。楽しみにしておきたまえ」

 

 モニターから男の顔が消えたとき、胸を内側から食い破られるかと思う程の不安が、一瞬であらゆる思考を侵蝕した。

 

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