第十一話 執事の日記
ヴァネッサお嬢様の拷問を終え、隠し通路を通って屋敷の一階の書斎に出ると、そこにはルードヴィヒ家の当主が待っていた。クリスティアーネとヴァネッサの運命を弄んだ憎むべき悪魔であり、今の私の雇い主でもある、教会で出会った男。
――殺してやる。
瞬間的にわき上がった殺意を抑え込み、私は恭しく礼の姿勢をとった。
「お疲れ様、ローデリッヒ。今日のヴァネッサの様子はどうだったかな?」
自分でも見ていたくせに。
言うまでも無いかもしれないが、ヴァネッサの牢獄は男によって監視されている。ヴァネッサがどう苦しむかを鑑賞するのがこの男の日課だ。姉のクリスティアーネには過剰なまでの愛情を注ぎ(もっとも真実の愛情とは呼びがたいが)、姉の幸福な姿を見て苦しむヴァネッサを見て喜ぶ。また、ヴァネッサに肉体的な苦しみを与え、悶え苦しむ彼女を見て狂喜する。真性のサディスト、狂人、最早人とは呼べぬ悪魔、生かしてはおけない。
「症状は昨日と同じです。錯乱、嘔吐、痙攣を繰り返し、気絶しました」
「そうではない。そうではないんだよ、ローデリッヒ」
男は憐れむような目でこちらを見る。「お前は何も分かっていない」とでも言いたげだ。
「私が聞きたいのはそんなことではないんだ」
「申し訳ございません。質問の意味が分かりかねます」
「私が聞きたいのはいつも一つ、一つなんだよ」
男はため息を吐いてから言った。
「ヴァネッサは、幸せだったか?」
「は?」
自分でも間抜けな声を出してしまったということは自覚している。
だが、私には男の言葉が全く理解できなかった。幸せ?幸せだと?自らの手で、いたいけな少女にこんなにも惨たらしいことをしておいて、幸せだったかだと?
「その顔を見る限り、ヴァネッサは幸せではないようだな……」
「申し訳ございません……」
一瞬、思考が表情に出てしまったことを反省しながら、私は表情を元に戻した。
「そうか…… ヴァネッサを牢獄に閉じ込めて、もう十年にもなるが、彼女は幸福になれなかったか」
「あの、失礼ですが、旦那様はヴァネッサお嬢様の幸せをお望みなのですか?」
私の問いに、男は「何を今更」と怪訝な顔をした。
「当たり前ではないか。娘の幸せを願わない父親が何処にいるというのだ」
では、何故このようなことをするのか?と問いただしたかったが、私が問う前に、男は自ら話し始めた。
「君は恐らく勘違いしているだろうが、私はヴァネッサのことを愛しているのだ。クリスティアーネと同様にね。だから、当然、二人には幸せになって欲しいと思っている、だが――」
男は、虚ろな目で本棚を見つめた。地下牢獄への隠し通路に繋がる本棚だ。
「私には幸福というものがどういうものかが分からない。栄光の中にあるものが幸せなのか、絶望の中にあるものこそが本当の幸福なのか。だから、二人には両極端な境遇を与えたのだ。こうすれば、きっとどちらかは、幸せを見つけられるだろう?」
だから――と男は続ける。
「ヴァネッサが幸せになることも心の底から私は望んでいるのだ。だが、どうやら彼女は幸せになれそうにないようだ」
次の瞬間、私は背筋に強烈な悪寒がはしるのを感じた。
「だから、今度、彼女は殺してしまおう」
――な、何を言っているんだこいつは!たった今、自分の娘を、ヴァネッサを愛していると言ったではないか!
「幸せになれないのであれば、死んだほうが良いだろう?」
ルードヴィヒは聖人のように優しげな表情を私に向けた。
この男は本気だ。本気で殺すのだ。人を人とも思わぬ悪魔
精神が捻じ曲がった狂人。こいつは所詮狂人だ。
――時間がない。
時間が無いのは分かっていたはずだ。何を悠長にやってきたのだ私は。
この男がヴァネッサお嬢様を生かしておく保証などどこにも無かったはずだ。
彼女の明日は保証されていない。それを何故、私は忘れていたのだ?
やらなければ……
私が。
私が――彼女を助けなければならない。
■
ヴァネッサを助けるにあたり障害になってくるものは二つ。
まずは、ヴァネッサの身体を縛り付ける鉄の鎖だ。
牢獄でヴァネッサを介抱する際に何度か調べてみたが、厄介なことにあれを解除できるのはあの男だけだ。下手に外そうとすれば、電流が流れ、最悪ヴァネッサは即死する。だから、あの男にヴァネッサの鎖を解除させなければならない。それまではあの男を殺すことはできない。
二つ目にクリスティアーネの存在である。
気がかりなのはヴァネッサが外に出ればクリスティアーネを殺すというあの男の言葉だ。
果たしてその言葉が本当だとして、どのようにクリスを殺すというのか。
何度かクリスティアーネの周囲を調べてみたり、彼女自身の身体に何かが施されていないかどうかを探ってみたが、特段何も発見できなかった。
だが、何かがあるのかもしれない。慎重になる必要があるのだ。
クリスティアーネが死んでしまったら、最早ヴァネッサに幸福など訪れないのだから。
彼女らはそのどちらかが欠けてもダメなのだ。
光と影の相克などではない。彼女たちはそのどちらもが光なのだ。
十数年前の真珠の都でであった少女。あの時、私が貰った確かな希望。
それが、彼女たちなのだ。
私がこの狂気の館に留まっているのは、二人の少女のどちらもが幸せな未来に進むためだ。決して、男が言うような「どちらかだけが幸せになる」結末にしてはならない。
■
半ば呆然としながら、私はクリスティアーネお嬢様の帰りを待っていた。このままではヴァネッサが殺されてしまう。それは避けなければならない。無理矢理にでも助け出すべきか。いや、それはダメだ。それでは、クリスティアーネお嬢様の安全も保証できない。
ヴァネッサがあの地下牢獄を抜け出せない最大の理由に、姉であるクリスティアーネお嬢様が、事実上、ルードヴィヒの人質となっていることが挙げられる。「ヴァネッサが牢獄を抜け出そうとすれば、クリスティアーネが殺される」という脅迫が、ヴァネッサを縛っている。そして、私自身、クリスティアーネお嬢様の死による結末は絶対に避けなければならない。 私がやるべきは、クリスティアーネお嬢様の安全を確保しつつ、ヴァネッサを救い出すこと。そのためには、情報も準備も足りない。だが、このままでは時間が……
「帰ったわ、ローデリッヒ。貴方、どうしたの?」
「どうすれば……」
「ねぇ、本当にどうしたの?何かあったの!?」
「……え、あ?」
気がつけば、お嬢様が心配そうな顔つきでこちらを覗き込んでいた。失態だ。いつから見られていた?
「あ、あぁ、お嬢様、お帰りなさいませ」
「ねぇ、大丈夫?何か、とても深刻そうに考え事をしていたようだけれど」
「あぁ……えーっと、そうですね。いや、大したことは考えていませんでしたよ」
「……」
お嬢様はじぃっと私を見つめる。お嬢様の透き通った瞳で見つめられると、こころの裏側まで見透かされているような気分に陥ってくる。
(いっそのこと、この場で全てを話してしまったらどうだろうか)
彼女の失った記憶のこと。牢獄に今でも閉じ込められている妹のこと。敬愛している義父が、本当はどのような人物なのかを。
きっと、お嬢様は混乱するだろう。だが、きっと気づいてくれるはずだ。お嬢様がヴァネッサの救出に協力してくれたなら、事は上手くいくかもしれない。それこそが、彼女たちを救う最善の方法でないのか――?
いや、自棄になるな――冷静になれ。だがしかし。
だが、私は忘れてしまっていたのかもしれない。クリスティアーネお嬢様との日々は、たとえそれが仮初のものであったとしても心地よいものだった。彼女との触れ合いに、私は確かに安らぎを感じていた。だが、その所為で私は忘れようとしていたのかもしれない。
自らの原点。ヴァネッサという少女を救うということを。
あぁ、なんということか。
私は当然救われるべきではない。牢獄の罪科、結局私はヴァネッサを助けらないままに、薬による拷問という無益な苦しみだけを与えてしまった。ヴァネッサを救い出すには確かに慎重になる必要があった。館の監視カメラを確認し、彼女の逃亡先を手配する。彼女がクリスティアーネお嬢様と手を取り合えるような方法も考える必要があった。そして、あの男、ルードヴィヒが生きている限り、彼女たちに安息はない。だから、私はあの男を殺す準備もしなければならなかった。
――それは言い訳ではないのか?
ヴァネッサを救う準備という言い訳を使って、クリスティアーネとの日々が終わることを先延ばしにはしていなかったといえるか?
この瞬間にも、牢獄の少女は苦しみ続けているというのに、お前はそれを考えないようにしなかったか?
私は卑劣な拷問者だ。
私は一刻も早くヴァネッサを救わなければならない。
ヴァネッサという少女。彼女を救うということは、私に課せられた義務であり、これはその最期のチャンスなのだ。
そして、クリスティアーネお嬢様のことを本当に考えてならば、やはり私は彼女と一緒にいるべきではない。クリスティアーネお嬢様が本当に幸せになるには、彼女の妹と再会する必要がある。この偽善のエデンから、彼女は目を覚まさなければならない。
やはり、危険を冒してでも彼女は記憶を取り戻すべきなのではないか。
あの男が封じ続けた記憶。過去の幸福と惨劇の記憶を。
それを取り戻すことで、クリスティアーネお嬢様の立場は危うくなるかもしれない。
もしかすると、あの男がお嬢様に何かをするかもしれない。
だが、このままではヴァネッサの命が危ういのだ。
もう時間はないのだ。
だから――
「お嬢様、明日の夜ですが、少し二人で外へ出かけませんか?」
「え?」
お嬢様はキョトンとした顔をすると、「えぇッ!?」と声をあげた。
「そ、それってもしかして、デー……」
「とても大事な話があるんです」
「そ、そんな、まだお付き合いもしていないのに!?でも、貴方がそう望むなら……」
「ありがとうございます」
私がいつもよりも丁寧に頭を下げると、お嬢様は何かうろたえた様に赤面した。
だから私は決断した。
彼女たちをこの牢獄から救い出し、悪魔を殺すことを。