第十話 クリスの日記
また同じ夢。
だれかに追いかけられていて、教会に二人で逃げ込んで、
そしてそこで全てが終わる。
夢だと分かっていても、胸を急激に締め付けられる。
せめて楽しいままで目覚めたいと思うが、必ず奪われてから夢は終わるのだ。
楽しい夢などでは無い。なぜならこれは過去の現実の投影だから。
あぁ、また奪われる。
――眩い閃光。
そして、私は意識を失った。
そこで目が覚める。――私の一日が始りだ。
良くない目覚めだ。息は荒く、目尻から僅かながら涙が零れた。
「大丈夫ですか?お嬢様……」
そして何より最悪なのが、こいつが目の前にいるということだった。
「な、なんであんたが私の部屋の中に入っているのよっ!!」
「お嬢様、淑女たるものが【あんた】などという言葉を使ってはいけません」
「言いたいことはそれだけか?」
「いえいえ、もし私めに辞世の句を詠ませていただけるのであれば、それはもうお嬢様への愛の言葉を幾千と並べ立て、さながら彼の残虐非道なトゥーランドット姫さえもが私の前に泣き崩れひれ伏すほどの愛を貴女にささg……ぐふっ!!!」
問答無用でグーで殴った。飄々としている我が家のバトラー、ローデリッヒの頬をグーで殴りつけた。
「なんで私の部屋に勝手に入ってるんだ、お前はっ!」
「そ、それは勿論、お嬢様が心配だったからですよ!!随分うなされているようでしたし!!」
「本当か!本当にそれだけなのか!?」
「嘘ですよ!!本当は、お嬢様がうなされてることを大義名分としてお嬢様の乱れた姿を拝見しようとしての犯行でした!!!」
「正直で宜しい!死刑だっ!!」
私はもう一度ロイの頬をグーで殴った。罪悪感はなかった。
「げふっ!!」
ロイは悶えたような仕草をしたが、次の瞬間には何事も無かったかのように平然と立っていた。なんというタフな奴だ。
「……それよりローデリッヒ、着替えるから早く出て行ってはもらえないかしら?」
「いいえお嬢様、私はここでお嬢様が二度寝しないように見張る義務がありますので」
「いいからさっさと出て行けっ!」
私はロイを押し出してから急いで着替え始めた。このときには悪夢のことを忘れてしまっていた。ひょっとして彼は、最近悪夢に魘されている私の気を紛らわすために毎朝くだらないセクハラを私に対して行っているのだろうか?
いや、流石にそんなことはないか。
■
私が急いで階段を駆け下りリビングへ向かうと、そこにはゆったりとくつろぐ執事の姿があった。執事なのに主を差し置いてリラックスする姿に憤りを覚えたが、それを発露する時間はない。
「おや、お嬢様、中々早かったですね」
「貴方に構っている暇はないの、ローデリッヒ。今日は車で行くから早く手配して頂戴」
「送迎車は既に手配していますが、それほど急ぐこともないでしょう」
「何を言っているのロイ!もうこんな時間……」
私がそう言いかけると、ロイが無言で暖炉上の掛け時計を指差した。
時計の針は、ロイの腕時計の一時間前を指していた。
「……腕時計の針をずらしておいたのね?」
「お嬢様のことを思えばこそです。現に慢性的に寝坊のお嬢様が飛び起きたではありませんか」
得意げに微笑むロイに対して、私は言いようの無い悔しさを覚えた。どこまでもこの執事は私を馬鹿にして!
いつか目に物を見せてやる!
私は咳払いをして衣服を正し、「淑女」としてのクリスティアーネへと意識を変えた。いつまでも慌てたり狼狽えたりするから、この執事にからかわれるのだ。この生意気な執事には、淑女としての威厳を持って当らなければならない。
私はもう一度咳払いをしてから言った。
「ローデリッヒ、おはようございます」
ローデリッヒは立ち上がり、姿勢を正して頭を下げた。
「おはようございます、お嬢様」
どうもローデリッヒは、私が淑女として振舞っている間しか執事として働かないようだ。この勤務態度は良くないので、今度、お義父さまに密告しよう。そして減給されるがいい。
そして、今日も私の前に二人分の食事が置かれた。昨日も聞いたが、もう一度聞いてみようか。
「ねぇ、どうして毎日二人分出すのかしら?」
「それは旦那様より仰せつかっておりますので……」
「たまには違う答えをしてみない?」
やはりロイは答えをはぐらかそうとした。その言葉には、いつもの下らない冗談を言うときのような軽さはない。この食事には余程重要な意味があるのだろうか?
昨日と同じ答えに少し傷ついたのは黙っておこう。
そして、私は今日も大学へ向かった。
大図書館に着くと、私は『真珠の都の災害の真実』の頁を捲った。
――真珠の都を襲った災害の原因には諸説あるが、そのいずれの説によっても真珠の都の惨状を十分な説得力を持って説明することはできない。
(中略)
真珠の都は現段階においても国連軍によって封鎖されたままであるが、確かに真珠の都の被害は深刻であり、未だ危険が残存していることは事実であろうが、それでも一地方を神経質なまでに厳重に封鎖していることには些かの不自然さを覚える。
(中略)
これは一つの仮説でしかないが、自然災害だと思われているこの凄惨な出来事は、実は人為的に起こされたものではないのだろうか。
(中略)
災害から奇跡的に助かったロベルト・エルリック氏(当時四十二歳)は、「地獄が始まる直前に、大きな光が空を覆うのを見た」と言っている。そのほかの生存者もそれと類似したことを述べていることからも――
「光――?」
大きな白い光が空を覆った。あの時、私は○○○○○と遊んでいて、彼女と一緒に教会に入り、そしてその瞬間、眩い光がステンドグラス越しに教会の中を包み込んだのだ。私たちは何か大きな力に跳ね飛ばされて、気がつけば蹲っていた。
暫くの間、何も見えず何も聞こえず、まるで意識だけ別の世界に飛ばされてしまったかのような感じだったが、次第に微かな声が聞こえ始めた。
私を呼ぶ声、でも私と同じ声。クリスと呼ぶ声、私はそれに応えるように、彼女の名前を呼ぶ。
段々と真っ白な視界に色が戻ってきて、私は目の前の人影を縋るように抱きしめる。
そして、その彼女の姿は、紛れも無く私の姿だった。
もう一人の私。
夢に出てくるもう一人の私。
あれはきっと、私の――
「――リス!」
「え?」
「クリスったら!こんなところでボーっとしてて!」
同じ研究室に肩をゆすられて、私の意識は「過去の記憶」から引き戻されることになった。気がつけば、大図書館にきてから大分時間が経っていた。
「ヴィルヘルム教授が研究室で待ってるよ!急いで行ったほうがいいんじゃないの?」
「あ、ありがとう、すぐに行くわ」
そそくさと本を片付ける私のことを横で見ながら、エミリアは呆れたような表情で言った。
「貴女って、たまにボーっとしてるわよね」
「そうかしら?そんなことはないと思うけど……」
「嘘仰いな!私が貴女を見つけたときは、大抵ボーっとしてるもの!」
「えぇ?そんなに?」
「そう!絶対にそうよ!ねぇ、ひょっとして貴女……」
エミリアは急に真面目な顔になって、私を覗き込んだ。
この子の表情は面白いくらいよく変化する。だから、私はエミリアと話していると安心できるのだ。表情によって自分の感情を相手に伝えることが出来る人は、相手に裏表のない感情を伝えることが出来る。そのため、相手はその人のことを信用し、安心して接するようになるのだ。
その点、エミリアは素晴らしい。ポーカーをやればまず間違いなくエミリアは負けるだろうが、だからこそ彼女は信頼できる。
そう、どこかの執事と違って。あの執事は、いつもヘラヘラしていて何を考えているのか分からない。たまに思いつめたような表情をしているけど、何を思い悩んでいるのかをこちらに言ってくることはない。
彼は決して本心を晒そうとはしないのだ。何故だろうか?私のことが信用できないのだろうか。それならば――多少、ショックだ。
そうだ、今度ロイが何かについて悩んでいたら、こっちから声をかけてみよう。そうやって少しずつ――
「恋してるの?」
突然エミリアが呟いた。私は一瞬で頭が混乱した。
「え、え、ええ?そ、そんなわけないじゃない!誰があんな……っ!」
「あんな?あんな何?」
私は自分でも「やってしまった」と思った。思考回路が暴走して悲鳴をあげていた。そんな私を見て、エミリアは思わぬ収穫を得たとでも言いたげにニヤニヤしていた。
「もういいです!教授のところへ私は行きます!」
「えー、いいじゃん!あんなおっさん待たせておけばいいって!それより相手はだれなのさ!」
「ごきげんようっ!」
私は逃げるように大図書館を抜け出した。
あぁ、明日からエミリアになんて言われて問い詰められるのだろう。まるで拷問だ。
でも、誰があんな奴……
あんな馬鹿執事になんてっ!
好きになるわけがないじゃないっ!
■
屋敷に帰ってみると、ローデリッヒがめずらしくも真剣な顔をして頭を抱えていた。あまりに珍しかったので少々呆けてしまったが、これはチャンスだと思いなおし思い切って話しかけてみることにした。
「帰ったわ、ローデリッヒ。貴方、どうしたの?」
「どうすれば……」
しかし、話しかけてみても反応がない。いつもならこんなことはない。おどけているようで、結構しっかりしているのがローデリッヒである。こんな、私が近くにいても独り言を続けるなんておかしい。
「ねぇ、本当にどうしたの?何かあったの!?」
「……え、あ?」
気がつけば、お嬢様が心配そうな顔つきでこちらを覗き込んでいた。
「あ、あぁ、お嬢様、お帰りなさいませ」
「ねぇ、大丈夫?何か、とても深刻そうに考え事をしていたようだけれど」
「あぁ……えーっと、そうですね。いや、大したことは考えていませんでしたよ」
「……」
嘘だ。普段、こちらがどれだけ探ろうとも本心を見せようとしないこの男がこれだけ狼狽しているのだ。何か無いほうはおかしい。だが、下手に問い詰めても彼は何も言わないだろう。そこで私はロイをじぃっと見つめることによる視線攻撃を行うことにした。
暫くの間、ロイは私の方を向いては目を背けることを繰り返していたが、やがて何かを決心したかのように前を向くと、キリッとした眼差しで私を見つめてきた。いつになく真面目な執事の表情に、不覚にもときめきかけてしまった自分を律し、彼の目を見つめ直す。
「お嬢様、明日の夜ですが、少し二人で外へ出かけませんか?」
「え?」
思わず間抜けな声を出してしまったと自分でも思う。
「そ、それってもしかして、デー……」
「とても大事な話があるんです」
だ、大事な話ってなんですか!
「そ、そんな、まだお付き合いもしていないのに!?でも、貴方がそう望むなら……」
「ありがとうございます」
この時点で私の思考は混迷に混迷を極めていたということは言うまでも無い。どう見てもプロポーズなこの状況に、思わずその場から逃げ出したくなったけど、まるで身体の動かし方を忘れてしまったかのように、私はその場から動けなかった。
あぁ、どうしよう!頭がゆだってしまう!私はどうすればいいのかしら!