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第九話 ヴァネッサの日記③

 ――そしてこれは夢だ。幸福な、幻想だ。


 それは一面の銀世界であった。私の足には、鉄の枷は嵌められていない。私は自由であった。そして、この世界は在りし日の「真珠の都」であった。

 ただ、私は自由であったが、私は一人であった。しんしんと降り積もる雪の中、見知った街道を歩いてゆく。


 「真珠の都」は、御伽噺に登場する幻想的な都市を思わせるということで、観光都市として有名であった。この町の人間はどいつもこいつも優しそうに見えたが、今思えば、あの優しそうな笑顔も観光客を呼び寄せるための営業だったのかもしれない。


 いや、そもそも私は彼らの笑顔を思い出すことは出来ないし、思い出す資格も無い。

 災害を免れ生き残った人間は、私の目の前で無惨に殺された。私はそれを見ているだけであった。あの時、私に向けられた彼らの憎しみを忘れることは到底出来ない。


 あぁ、そうだ。


 これは幸福な幻想なんかではなかった。この夢は、私の罪過の象徴でもあるのだ。

 街道には見知った顔が歩いていたが、私は彼らと目を合わせないように俯きながら歩いた。


 ふと、顔を上げると、ぼんやりと少女の姿が見えた。少女は二人いたが、片方の少女の顔には靄がかかっていて良く見えない。もう一人の少女は、恐らくクリスティアーネだ。

 少女たちは仲良く手をつないでいた。


 ――あぁ、こんなものを見せて一体何になるというのだ?


 私はこのような夢を見せている自分自身に問う。もはや私と姉であるクリスティアーネが手を取り合うなどということはあり得ない。決定的に、繋がれていた手は断ち切られてしまったのだ。


 私はぼうっと、彼女たちの姿を見る。他人のソレにしか思えない彼女たちの笑顔が、酷く虚ろなものに感じられた。


 暫く見ていると、其処にもう一人やってきた。歳は今の私と同じくらいの青年だ。何処かで見覚えのある青年。彼は、向こうの私たちに微笑みかける。


 その微笑は酷く優しげだった。牢獄に閉じ込められてからは、ずっと忘れていた微笑だ。

 あの青年は、きっと向こうの私たちを愛しているのだろう。かけがえの無く大切な想い。そんなものがあるとすれば、確かにこのとき私たちは彼からそれを託されたのだ。


 ――だが、彼は誰だろうか。


 私は、目の前の茫漠とした青年を見つめる。私は彼を知っている。知っているという確信がある。だが、思い出せない。あぁ、これでは私も姉と何ら変わりないではないか。

 私は立ちすくみ、事の成り行きを見つめていた。やがて、戯れあう双子は視界から消え、残っているのは青年だけとなった。


 そして青年は私のほうを向くと、ゆっくりと歩き始める。

 次第に縮んでゆく私たちの距離に、何故か呼吸が乱れる。


 ――――

 青年が何か言葉を発した。だが私にはソレが聞き取れない。幾ら目をこらしても、幾ら耳を済ませても、姿も見えているし、音も聞こえるのだけれど、画像のイメージが掴めず、言葉の意味が構成できない。


 ダメだ。分からない。彼は何を言おうとしているのだ。

 彼は、間違いなく私にとって重要な人物だ。だが、私は思い出せない。

 「――お前は、誰なんだ?」

 私は途切れ途切れに息を吐き出した。


 青年は、少し悲しげな目をして

 「――お嬢様」

 その瞬間、バラバラになっていたイメージが一つに纏まった。

 目の前にいた人物は――


  「――お嬢様」


 そして、黒い扉が目に映った。同時に、見慣れた執事の姿が。

 いつもなら糞忌々しいその顔を、このとき私は見つめていた。

 ――この男なのか?

 小さな疑惑が、やがて大きく渦を巻き、頭の中を混乱させる。それまでのローデリッヒの行動を再検討し、彼のイメージが再構成していく。まず、この男と私の出会いからだ。確か、この男が新しい「世話役」になったのは、約三年前のことだ。


 あの日は、それまで私自身には触れようとしなかった顔の無い男が、私自身を陵辱しようとした日だった。そのときの私の精神は殆ど壊れていて、顔の無い男が私自身の身体を手に掛けようとしても、抵抗らしい抵抗はしなかったように思う。むしろ、やっと私も「廃棄」されるという希望と諦観が交じり合ったような表情をしていた。


 きっと、散々弄ばれた挙句、他の人間と同様に千切られ、肉塊の穴底に打ち棄てられるのだろう。その姿が惨めであればあるほどいい。このくだらない結末を、誰もが望んだのだから――


 だが、私は死ななかった。それどころか傷一つ負わなかった。

 何故なら、ローデリッヒが来たから。あのときの私は、彼が何をやっているのかよく分からなかった。視界に映るものの意味が分からないほどに、私は憔悴していたのだ。だから、彼が必死に私の名前を呼んでいるのにも気づかなかったし、彼が血みどろになっている意味も分からなかった。


 ただ、私は泣いていたと思う。

 何故だか分からなかったが、確かに泣いていたのだ。

 そして、顔のない男が動かなくなった後、ローデリッヒは私に微笑んだ――ような気がする。


 その後、私は回復していった。気がつけば、目の前で殺戮ショーが繰り広げられなくなったかわりに、新しい執事がやってきて、私に薬を飲ませていた。死んでしまいたくなるほど苦しい薬だったが、同時に、私の壊れかけた意識が現実に戻されていくのを感じつつもあった。


 向精神薬。

 ローデリッヒが、そう呟くのを聞いたような気がする。もしかすると、これは治療薬なのだろうか?

 

 私はそれからというもの、なるべくローデリッヒを観察するようにした。彼は相変わらず、私を挑発するようにいやらしく笑い、私が苦しむ素振りを愉しむように振舞っていたが、ところどころで、微かに悲しげな表情をしていることに気がついた。


 彼は何者なのだろうか。何故、彼はこの屋敷で執事をやっているのか。彼は私たちとどういった関係があるのか――


 気がつけば、私は自分の意思で、あれほど忌み嫌っていたモニターを注視するようになっていた。ローデリッヒを知るためだ。

 モニターを注視するようになって、まず初めに気がついたのが、クリスティアーネのローデリッヒに対する感情である。


 まるで恋する乙女、いや、それそのものであった。

毎朝毎朝くだらない茶番を繰り広げ、他愛もない日常の会話で一喜一憂する。そんなクリスティアーネの想いが伝わってくるようで、私は酷い吐き気を催した。


 それは、邪悪な感情であった。私はこのとき思ったのだ。

 ――この女からローデリッヒを奪ったら、この女はどういう顔をするだろうか。


 私はすぐにその考えを振り払った。自分がどうにかなりそうだった。黒い泥のようなものに、精神が侵されていくのを感じた。


 そして、もう一つ確信したことがある。

 ローデリッヒは、ルードヴィヒの飼い犬ではない。ローデリッヒは密かにルードヴィヒの動向を監視しているようだった。そして、ルードヴィヒもそのことを知りつつ、ローデリッヒを泳がせているようだった。二人の関係がどういうものかは分かりかねたが、少なくともローデリッヒはルードヴィヒに強い敵意を向けていた。


 ――この男を利用すれば、私は外に出られるかもしれない。


 ふと、そんな考えが私の脳裏によぎった。そして、その微かな考えはたちまち増幅され、具体的な様相を帯びてくる。気がつけば、この千載一遇のチャンスに、私はどうすれば外に出られるのかを考えていた。


 私が外に出られないのは、二つの要因がある。まず、私の力では、この足枷を壊し、鉄の壁を破ることは出来ないという物理的制約である。そして、二つ目が、クリスティアーネの存在だ。恐らくだが、私が外に出ることを望めば、ルードヴィヒ――あの男は、確実にクリスティアーネを殺すだろう。


 どんなに幸福だの愛と言おうと、所詮あの男は私のこともクリスティアーネのことも実験用モルモットのようにしか思っていない。だから殺す。このイカれた幸福実験とかいうもののために、容赦なく十年間育て上げた養女を殺すのだ。


 私は姉に憎しみを抱いているが、同時に哀れみも抱いている。

 彼女は全てを知り、後悔と苦悩に焼き尽くされなければならないのだ。それまで絶対に死なせない。それに、あの男の言うことに従ってしまえば、私はこの実験に乗ってしまったということになる。結局、最後まであの男の思い通りになってしまうということに他ならない。そんなことは赦せない。これは、私の意地だ。


 絶対に、クリスティアーネを生かしたまま、私は牢獄を後にする。

 それには、ローデリッヒの協力が不可欠であった。


 だが、どうすべきなのか。

 差し当たり、私はローデリッヒと有効な話をする必要があったが、下手に話をしては、監視カメラを通じてルードヴィヒに筒抜けになってしまう。この牢獄の中で、私に出来ることはあまりに限られている。


 しかしその数日後、ローデリッヒが私の牢獄にやってきたとき、私の前に一つの活路が開けた。ローデリッヒが、監視カメラに映らない角度で、微かな声で呟くように言った。


 「旦那様は、貴女が気絶してからの数時間は貴女のことを見ていません。四日後からは、ただのビタミン剤を渡しますので、これまでのように苦しみ、気絶した振りをしてください。これから三日間は、そのために苦しみ方を覚えてください」

 私はなるべく表情を変えずに頷いた。


 だが、内心はこれまでになく高揚していた。ローデリッヒは、白い錠剤を私の口に押し込むと同時に、私の下に敷かれている襤褸切れの下に小型のナイフを忍び込ませた。すぐに視界が歪み、酷い嘔吐感に苛まれる。そのうち時間が分からなくなり、自己の境界線が歪んでくる。ぐにゃぐにゃとした世界で、妄想が彼女を苛み、息の仕方を忘れ、四肢が痙攣し始める。


 ――苦しい。殺してくれと叫びたくなる。喉が引き裂かれたかのように熱く、蛆が這い出るかのように全身が痒い。骨が歪み、肉が潰れる妄想にとりつかれる。視界を涙と涎が覆い、何もかもが分からなくなる。

 ――だが、忘れるな。

 この苦痛を。どのように苦しいのかを一つ残らず脳裏に焼き付けろ。

 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!!!!!」

 張り裂けるほどに絶叫し、意識を失うその瞬間まで、私は苦痛と向き合った。


 意識が消えかかる瞬間、私は少しだけ純粋な心でローデリッヒを見つめた。

 彼は哀しそうな顔していた。

 お前は何故そんな顔をするんだ?

 

 お前は何故そこにいる?


 お前は誰なんだ?


 お前は――


 

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