第七話 執事の日記③
「真珠の都の悲劇」で助かったのは、クリスティアーネだけではない。彼女の双子の妹、ヴァネッサお嬢様も同様に助かった。いや、ヴァネッサお嬢様の場合、「助かった」という表現には語弊があるかもしれない。何故なら、彼女は生き残ってしまったことによって、より過酷な運命を背負わされることになったからである。
「悪魔」に拾われてしまったこと、これが彼女の人生の最大の不幸だ。
クリスティアーネを見送ると、私は屋敷の隠し通路を通り、地下牢獄へと向かった。この部屋の存在はごく一部の人間しか知らない。
幾重もの鈍重な鉄扉を一枚ずつ開いてゆく。そのたびに、酷く濃厚な血の臭いと腐臭が漏れ出してくるのを感じる。まるであの時の「真珠の都」のような臭いだ。この臭いが彼女の心を蝕み続けるのだろう。
そして最後の一枚を開き、私は「お嬢様」の状態を確かめた。
「おはようございます、お嬢様」
私の一日の二度目の始まりは、やはりお嬢様を起こすところから始まる。
薄暗い地下牢獄に四肢を鎖で繋がれている彼女が、私の第二のお嬢様、ヴァネッサお嬢様である。病的なほど白い肌に、乱雑に顔を覆う金色の髪と、陰鬱さを帯びた碧色の瞳が、ある種の妖艶さを醸している。まるで呪われた魔女だ。
「残飯を持ってきたのか?」
「はい、これが本日のお嬢様の朝食です」
私は、クリスティアーネの朝食の「お残り」を彼女に差し出した。ヴァネッサお嬢様は、一切れのトマトを手に取ると、少しの間それを眺めたあとで、口に運んだ。
「お前たちは、毎朝胸糞悪い茶番劇をやってて飽きないのか?」
「それが仕事ですから」
ヴァネッサお嬢様は表情を変えずにもう一切れトマトを口に運んだ。
ヴァネッサお嬢様の前には、大きなモニターが設置されている。このモニターには、館の至る所に配置された監視カメラの映像が送られている。彼女の双子の姉、クリスティアーネの日常を延々と見せ続けられるのである。
誰からも羨望され、愛され、幸福そうにしている自分そっくりの姉の姿を見せ続けられる毎日。クリスティアーネの残飯を食べ、クリスティアーネが笑っているときには苦痛の叫び声を上げ、常に栄華の中にある姉と暗闇に囚われる惨めな自分を対比し続ける。
しかも、クリスティアーネはヴァネッサお嬢様のことを覚えてはいない。過去の惨劇を忘れ、現在の不幸に目を背ける姉の姿は、ヴァネッサお嬢様にはどのように見えたのであろうか。それは私には分からない。
「さっさと出せよ」
「何をですか?」
「薬だ。あるんだろ、今日も」
「あぁ」と私は惚けた振りをした。「薬」とは、私がヴァネッサお嬢様に与えている抗精神薬である。もっとも「薬」というのは名ばかりで、良い効果は殆どなく、実際は副作用の苦しみだけが身体中を苛む「毒」だ。私は彼女にこれを与え続けなければならない。一種の拷問だ。
「ありますが、まだいいでしょう」
「ふざけんなよ、さっさと出せ。アレが無いと気が狂いそうになるんだ」
「飲んでも苦しいだけではありませんか?」
「その、苦しさなんだ。その苦しさが、憎しみを身体に染み付かせる。私はもう、憎しみでしか自我を保てない」
あぁ、と私は思った。貴女はもう十分気が狂っています。
ヴァネッサお嬢様は、私をにらみつけた。
「私を苦しめるように命令されているんだろ?」
「それは、そうなのですが」
お嬢様は口元を大きく歪めた。
「なら、さっさとしろよ。大体お前ももう少し愉しんだらどうだ?前の担当者はさぞかし愉しそうに私を甚振っていたぞ?自分の好きに出来る肢体が目の前にあるんだ。蹂躙してみたいと思わないか?陵辱してみたいと思うだろう?涙と鼻水と涎を垂らしながら、顔をぐしゃぐしゃに歪めて哀願する姿を見たいだろう?やってみろよ、クズ野郎!姉の前で見せているような善人面はやめて、自分の好きなようにやれよ!前の奴は凄かったぞ!薬なんて下らないやり方じゃなく……」
「その辺りでおよしになられてはいかがですか?」
私が遮ると、ヴァネッサお嬢様は聞き分けのよい子供のように話すのを止めた。私が旦那様からヴァネッサお嬢様を苦しめるように命令されているのは確かである。私がやらなければ、彼女にはもっと酷い仕打ちが待っている。それこそ前任者のような――
「では、これをお飲みください」
私が錠剤を渡すと、お嬢様は躊躇うことなくそれを口に含んだ。そしてゴリゴリと口の中で噛み砕いた後、嚥下した。あと1、2分で効果があらわれるだろう。まず視界が歪み、酷い嘔吐感に苛まれる。そのうち時間が分からなくなり、自己の境界線が歪んでくる。ぐにゃぐにゃとした世界で、妄想が彼女を苛み、息の仕方を忘れ、四肢が痙攣し始める。
まるで拷問のためだけに作られたような薬で、事実その通りなのかもしれない。
だが、これくらい彼女を苦しめなければ、モニターの向こうの悪魔は納得しないのだ。ヴァネッサお嬢様の毎日を苦痛と狂気で染め上げなければ、男は納得しない。納得しなければ、より過酷な拷問を課す。それだけは避けなければならない。
「あ……く……」
お嬢様が地面に伏せ、朝食の残りを撒き散らしながらもがき始めた。暗さを帯びた金色の髪を掻き毟り、大量の涎を垂れ流した。言葉にならない呻き声を発し、焦点の合わない目で黒い鉄扉を見る。ビクビクと瀕死の虫のように仰け反り、そのたびに口から朝食の未消化物が飛び散った。やがて、彼女は僅かに痙攣するばかりになり、団子虫のように背を丸めた。落ち着いたように見えるが、この先にもまだまだヤマが襲ってくる。そろそろ第一波だ。私は彼女の悲鳴を受け止めるべく身構えた。
「……あ、あぁ……」
彼女は私を見据える。私も彼女を見つめた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
そしてまた、ヴァネッサお嬢様の一日も、絶叫から始まった。
何故、彼女がこのような仕打ちを受けなければならないのか。
だが、確かにこれは世界の縮図だ。
誰かが幸福を享受している影では、誰かが生まれてきたことすら後悔したくなるほどの苦しみを受けている。
誰もが幸福になることなどない。
だが――
苦痛にもがき苦しみながらも、それでも強い意思を宿した目をしている少女。
一通り苦しんだ後、糸の切れた人形のように力なく気を失ったヴァネッサお嬢様を抱きかかえ、襤褸切れが一枚敷かれただけの上に彼女を寝かせた。
飢えた獣のように凄絶な形相でこちらを睨んでいたときとは異なり、眠っている横顔には少女らしい幼さが残っていた。だが、彼女には安息がない。目を覚ました後に明るい世界を想像して眠るクリスティアーネと、目覚めたあとには暗い牢獄が待ち受けているヴァネッサでは、決定的に「眠り」の意義が違う。
この牢獄に繋がれた十年間で、彼女の身体に纏わり付いた憎しみの色は簡単には消せないだろう。私には彼女の姿が酷く儚げに見えた。
重く低い音を立てながら閉まる鉄扉の隙間からヴァネッサの姿を確認し、私は地下牢獄を後にした。近いうちに必ず貴女を救ってみせる。